乳がん(トリプルネガティブ)ステージ3 サバイバー 大月絢美さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】大月絢美さん 乳がん ステージ3 サバイバー
- 第1話「テレビドラマに出演する小学生」
- 第2話「青山学院中等部へ」
- 第3話「歌手デビューを目指す」
- 第4話「アルバイトをしながら」
- 第5話「苦節8年歌手デビュー」
- 第6話「母親の乳がん」
- 第7話「30歳を目前に控えて」
- 第8話「右胸のしこり」
- 第9話「乳腺外科へ」
- 第10話「乳がん・トリプルネガティブ」
- 第11話「全身化学療法」
- 第12話「母の他界」
- 第13話「右乳房切除術」
- 第14話「新生Ayamiとして」
第7話「30歳を目前に控えて」
レッスンを開始して8年、26歳で歌手デビューした東京都目黒区在住の大月絢美さん(35歳、2013年当時31歳)は、歌手、アルバイトと忙しい日々を送っていた。そんな頃、母親の乳がんが発覚した。
思い返すと、いつも母親がそばにいてくれた。
テレビドラマの子役をしていた小学生時代、全国をロケで巡るとき必ず母が付き添ってくれた。
小学生だから一人で知らない街に撮影に行くなんてできないのだ。
高校、大学とアカデミーでレッスンを受けている時も母が支えてくれた。
大学を卒業してアルバイトをしながらレッスン生をしていたころ、一時、生活が乱れた。
「遊びで(歌を)やるのなら、やめなさい」母親が本気で怒ってくれた。
いつも絢美さんの夢の実現のために一生懸命、向き合ってくれた母親。
その母親が乳がんになった。
地元の総合病院で診てもらったあと、東京都内の大学病院を紹介されたが、医師から手術の話をされた時、気持ちの整理がつかなくなる。
「切りたくない…」
その想いと、手術しなくても良いのではないか?という考えから、自由診療に興味を持ち出す。
当時、単身赴任していた父親からは「手術を受けてほしい」と電話で伝えられていたにもかかわらず、ネットで調べたクリニックに行きラジオ波熱焼灼療法を受けて治療を終えた。
しかし、2年後の2013年、わきの下のリンパ節にがん転移が見つかり局所麻酔で病巣を切り取る。
その後、しばらくホルモン療法を続けたが、途中で終了。
後々、乳がんという病気と治療法について、十分な知識を持ち合わせていなかったことを悔やんだ。
一方の絢美さんは、30歳を目前に控え、乳がんを患う母親や80代の祖父母にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないという想いがあり、一般企業で募集している派遣社員として働くことを決めた。
当初は自分に務まるかどうか不安だったが、旅行代理店の子会社の事務職を始める。
すると…、幸いにも周囲と上司から高く評価され、派遣ではなく、直接採用に切り替えてほしいと言われる。
「(私)意外とこんなこともできるんだ…」
これがまた一つ自信になった。
その後は週3日間の会社勤務が4日に増えたため、忙しい毎日になっていた。
担当したのは出張旅費などの経費を精算するソフトウェアの営業職。
持ち前の明るいチャキチャキとした人柄から人気の営業ウーマンになる。
会社の仕事以外にも、歌の家庭教師、アカデミーのバイトとレッスン、そしてライブ出演と予定が入っている。充実した忙しい毎日だった。
そんな頃、会社の同僚が出場するローラースケートの試合観戦に誘われる。
他の女の子たちと一緒に観戦し、皆で夕食をとっていると、あとから試合を終えた同僚と、その友達(5歳年上の圭介さん)が参加した。
飲食店で働いているという。
その試合観戦をした日から4日間連続、同じメンバーと夕食をともにしたが、4日目、圭介さんからお付き合いを申し込まれる。
そんな…、出会ってまだ4日目なのに…、でもその真っ直ぐさに惹かれ絢美さんはこう答える。
「じゃあ、お試しで、1ヵ月間(のお付き合い)はどうですか?」
2人の交際が始まった。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
>>NPO法人5yearsの組織概要はこちら
-Sponsored-