乳がん(トリプルネガティブ)ステージ3 サバイバー 大月絢美さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】大月絢美さん 乳がん ステージ3 サバイバー
- 第1話「テレビドラマに出演する小学生」
- 第2話「青山学院中等部へ」
- 第3話「歌手デビューを目指す」
- 第4話「アルバイトをしながら」
- 第5話「苦節8年歌手デビュー」
- 第6話「母親の乳がん」
- 第7話「30歳を目前に控えて」
- 第8話「右胸のしこり」
- 第9話「乳腺外科へ」
- 第10話「乳がん・トリプルネガティブ」
- 第11話「全身化学療法」
- 第12話「母の他界」
- 第13話「右乳房切除術」
- 第14話「新生Ayamiとして」
第10話「乳がん・トリプルネガティブ」
右胸のしこりがニワトリの卵くらいまで大きくなり、昭和大学病院で詳しい検査を受けていた東京都目黒区在住の大月絢美さん(35歳、2015年当時32歳)は、検査結果が出るのを待っていた。一方、母親の容体が悪化したため、目黒病院に連れていくと、乳がん(ステージ4)と診断され、医師から非常にまずい状態だと説明された。
この日、主治医からどうするか確認され、絢美さんは自ら母親に伝えることを選択。
病室に戻り、話しやすい場所とタイミングを見計らって伝えた。
「転移だって…」
母親は静かに「そっか、わかった」とだけ返す。
まるで、すべて解っていたかのようだった。
自分の母親の命が危ない…。
父とか祖父母にはなんて伝えたらいいんだろう…?
抱えきれないつらい思いを誰かに解ってほしくて圭介さんに連絡した。
この日、家に来てもらい、泣きながら苦しい胸の内を明かす
ようやく歌手デビューできたから、これからいっぱい楽しみな報告をしたかったのに、そして結婚式には参列してほしかったのに…。
数ヶ月前に自分の父親を看取った圭介さんが、こう言った。
「これからもっと辛い現実が待っていると思う。でも僕がそばにいるから。覚悟はしておこう」
絢美さんは自分の治療と母親の世話を両立させるために母を昭和大学病院に転院させることを決めた。
2015年12月12日、昭和大学病院・腫瘍内科。
母親と圭介さんと3人で診察室に入ると、60歳前後の男性医師が座っていた。
2011年に乳がんを発症して以来の経緯を説明すると、
「あなたたちは、これまで標準的な治療を(避けて)受けてこなかった。でも、ここではそれしかないです。(それを受ける)覚悟はありますか?」患者の意思を確認していた。
ハイと答えると男性医師はニッコリ笑い「一緒にがんばりましょう」そう言った。
一方、絢美さんは、自身の検査結果を聞くために12月15日に昭和大学病院・乳腺外科を訪れた。
告げられたのは、「乳がん、トリプルネガティブ」
今後、さらに詳しい検査を行うが、転移がなければ、半年ほど抗がん剤治療を行い、その後、手術。
もし、転移が認められた場合は、長期間の抗がん剤治療になるとの説明だった。
正直、生きた心地がしなかった。
母親のことを知っているだけに、ついつい悪い方へと考えてしまう。
翌日、自らのがんと母親のことを会社の上司に報告すると、上司は言葉を失っていた。
それから1週間後にPET-CT検査を受け、12月25日、クリスマスの日、最終的な検査報告を受けた。
主治医から「他臓器への転移はなし(ステージ3C)」と伝えられ、胸をなでおろす。
この年のクリスマスプレゼントだと感じた。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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