【ストーリー】大東篤史さん 腎臓がん ステージ3 サバイバー

腎臓がん ステージ3 サバイバー 大東篤史さんのストーリーです。

このストーリーの目次

  1. 【ストーリー】大東篤史さん 腎臓がん ステージ3 サバイバー
  2. 第1話「父との死別~新しい家族のかたち」
  3. 第2話「中学~大学、社会人へ」
  4. 第3話「右側脇腹の違和感」
  5. 第4話「8~9割の確率で腎臓がん」
  6. 第5話「腎臓がん、ステージ3、T3a N0 M0」
  7. 第6話「手術(根治的腎摘除術)」
  8. 第7話「開腹止血術」
  9. 第8話「3回目の外科手術」
  10. 第9話「リハビリ~退院」
  11. 第10話「腎臓がんから7年」

第2話「中学~大学、社会人へ」

幼少のころに父親(37歳)を胃がんで亡くした岐阜県土岐市在住の大東篤史さん(44歳)は、祖父母と一緒に暮らすことになった。

父親(37歳)が胃がんで他界。
大東さんの人生に影響する大きな出来事だった。

小学校を卒業し中学に入ると軟式テニス部に所属した。
テニス部員だが脚が速いため中学3年生の冬、地区の駅伝大会に抜擢される。
チームは大会新記録で優勝し、大東さんは走ることの楽しさを知った。
そして進学した高校では陸上部に入り長距離の選手になる。
5000mの自己ベストが15分35秒、1500mが4分7秒。
高校2年生で岐阜県の国体強化選手に選ばれる。
ただ、高校3年生になるとタイムが伸び悩みもがいていた頃に高校生活最後のインターハイ予選・岐阜県大会がやってくる。

1500mのレースはスタート直後に他の選手と接触し相手選手のスパイクが大東さんの右足首を削る。
血だらけで走ったがタイムは自己ベストには遠く及ばす不本意なゴール。
こうして18歳の夏が終わった。
高校を卒業した大東さんは神奈川大学に進学。親元を離れて平塚キャンパスで学んだ。

神奈川大学と言えば箱根駅伝の常連の名門校。
でも情熱を注いだ陸上競技は高校までとしてテニスサークルに入り楽しんだ。
大学の陸上部はレベルが高かったし、競技生活に燃え尽きていたのも事実だ。
順調に進級していったが卒業の年にゼミの研究生となり、それがきっかけで一般的な就職活動からタイミングがずれてしまう。
その後、大手のファミリーレストランに正社員として就職し、神奈川、愛知と様々な店舗を異動。
早朝の勤務、夜中の勤務と忙しい毎日。
やがて店長に昇進すると本社から営業成績に対するプレッシャーが強くなり多忙極まる。
仕事はきついが、それでも充実した時間を過ごしていた。

その後は東海地区でフランチャイズ展開しているコーヒー会社に転職し自宅から車で15分の通勤仕事に替わる。
それまでとは違い体力的に余裕が生まれる生活になった。
この頃だ、アルバイトで働いていた女性とお付き合いが始まる。

知り合ってから1年半ほど交際が続き2009年11月、36歳になった大東さんは14歳離れた彼女と結婚する。
挙式当日、2人は親戚・友人ら70人以上に囲まれ幸せな祝福を受けた。

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この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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