小児がん(神経芽腫) ステージ4 サバイバー 赤荻深雪さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】赤荻深雪さん 小児がん(神経芽腫) ステージ4 サバイバー
- 第1話「小児がん(神経芽腫)最終ステージ」
- 第2話「入院病棟での生活」
- 第3話「退院~小学生へ」
- 第4話「大人になって」
- 第5話「自分のキャリア」
- 第6話「母親の腹痛」
- 第7話「母のスキルス胃がん」
- 第8話「母との時間」
- 第9話「私は、いま、34歳。元気に生きています。」
第5話「自分のキャリア」
3歳の時、小児がん(神経芽腫、ステージ4)と診断され千葉大学医学部附属病院で、抗がん剤治療(シスプラチン、エンドキサン)、手術(左縦隔神経芽腫摘出術(左開胸))と2年に及ぶ入院治療を受けた千葉県千葉市在住の赤荻深雪さん(34歳、2011年当時28歳)は、大人になっていた。
コンピューターが好きだった深雪さんは、事務所にある古めかしいパソコンが我慢できず3ヶ月で退職。
ここからようやく職業観と言うか、自分のキャリアについて真剣に考えだす。
しっかりしたスキルを身につけたいとの思いから、次に就いたパートタイムの仕事でマイクロソフトAccessなどのデータベースソフトを学ぶ。
派遣社員を経て実務経験とパソコンスキルを習得し、22歳で正社員として伊藤忠商事のグループ会社に就職した。
仕事は携帯電話のウェブサイト上のコンテンツを作る業務が主だったが、サイトの企画・作成から商品の売り上げ管理までを行うやりがいのある仕事だった。
そこで1年半働いた後、米国大手SNSサイトを運営する会社の日本支社に派遣社員として転職。
派遣契約の満期を迎えた2008年、正社員(一般職)として昇進し、その後、グループ会社の本体である大手通信会社へ転属。
がんばれば、がんばるだけ報われる感じがして更にやりがいを感じだす。
そして2010年、一般職から総合職への職位変更となり一層責任のある立場まで上がった。
ただ…、この頃からだ。
何となく仕事人として目標を失ったような、燃え尽きた感じがしていた。
また、以前から時折出ていた頭痛がひどくなり始めた頃でもある。
頭痛はなかなか治まらず、やがて、頭が割れるように痛く、吐き気がする時すらあった。
平日の昼間はもとより、帰宅して、夜家に居るときも頭が痛い。
せっかく会社が自分を評価してくれて、自分もがんばりたいと思っているのに頭が痛くて仕事ができない。
そんな自分を責めているうちに、やがて、抑うつ状態を発症。
2011年に入ると、夏から3ヶ月ほど会社を休み、その後1ヵ月出社したが、再び3ヵ月休職。
母親に相談すると「1回しかない人生なんだから…、お母さんと楽しく一緒に暮らせばいいじゃない」そんな言われ方をする。
当時、一人暮らしをしていた深雪さん。
実家は両親と下の弟の3人暮らし。
4人で暮らせばいいという提案だった。
この頭痛が、はたして、何か病気の可能性なのか?それとも、かつての小児がん治療の影響なのか?
23年も前の小児がんのことを久しぶりに意識し思いだした時だった。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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