【ストーリー】赤荻深雪さん 小児がん(神経芽腫) ステージ4 サバイバー

小児がん(神経芽腫) ステージ4 サバイバー 赤荻深雪さんのストーリーです。

このストーリーの目次

  1. 【ストーリー】赤荻深雪さん 小児がん(神経芽腫) ステージ4 サバイバー
  2. 第1話「小児がん(神経芽腫)最終ステージ」
  3. 第2話「入院病棟での生活」
  4. 第3話「退院~小学生へ」
  5. 第4話「大人になって」
  6. 第5話「自分のキャリア」
  7. 第6話「母親の腹痛」
  8. 第7話「母のスキルス胃がん」
  9. 第8話「母との時間」
  10. 第9話「私は、いま、34歳。元気に生きています。」

第2話「入院病棟での生活」

1983年、3歳の時、小児がん(神経芽腫、ステージ4)と診断された千葉県千葉市在住の赤荻深雪ちゃんは、千葉大学医学部附属病院で母親とともに入院治療を受けていた。

大切な2人の娘。
どちらかに差があってはいけないし、同じように愛情を注いでいる。
だが、この時、目の前には死と向き合っている次女と元気にしている長女がいた。
母親は断腸の思いで長女を愛知県の実家に預けた。

1987年1月14日、深雪ちゃんは病理検査のために頸部リンパ節生検術を受ける。
外科的に組織をとる生検、さぞかし痛かったろうと思う。

ただ、意外にも深雪ちゃんは入院病棟での生活を楽しんでいた。
大好きなお母さんと一日中一緒に居られる。
絵本を読んでもらえるし、小学館の学習雑誌の付録を組み立てて病室で遊ぶ毎日。
常時6~8人の子供がいる大部屋では、テレビを観ている女の子、勉強をしている小学生の男の子、様々な年齢の小児がんの子供たちがいた。
そして、それぞれの子供に母親が一日中ついていた。

皆で戦隊レンジャーごっこをしたり、看護師が企画するクイズ大会などのレクリエーションを楽しむ。
抗がん剤治療(シスプラチン、エンドキサン)を受けていたので体調的につらい時もあったはずだが、当時を振り返り、結構楽しい思い出しかないと言う。
大人たちが想像するような悲壮感は無く、深雪ちゃんにはトラウマ的な経験として残っているものがない。
ただ、抗がん剤治療を受けていたので、髪の毛がない。
「4歳の誕生日プレゼントは何が欲しいの?」と祖母(父方の母親)から聞かれ、「わたし、髪の毛がほしい」とねだった。
子供用の商業かつらが無い時代で、祖母は知人に頼み特注の子供用かつらをこしらえ贈った。
それが嬉しくてたまらない深雪ちゃんは、外出するとき必ず被っていた。
これも、良き思い出として心に残っていて、本人にはつらい感情としては残っていないのだという。

小児がん(神経芽腫、ステージ4)、その5年生存率は(当時)低かった。
だから、唯一重たい雰囲気として記憶に残っているのは、母親が病棟の廊下で医師と真剣に立ち話をしている様子だ。
そのそばで点滴棒を持ちながら母親と医師が話すのを見上げている自分。

入院していた頃の治療生活については、あまり覚えていないが、厳しい状況だったことは確かだ。
そんな中、最大の愛情を注ぎ続けることで、母親は入院生活を娘の楽しい思い出に変えていた。

そして、これから始まる外科手術(左縦隔神経芽腫摘出術(左開胸))に強い気持ちで向き合っていた。

(大好きなお母さんと一緒だから、つらい治療生活もがんばれた)

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この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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