【ストーリー】赤荻深雪さん 小児がん(神経芽腫) ステージ4 サバイバー

小児がん(神経芽腫) ステージ4 サバイバー 赤荻深雪さんのストーリーです。

このストーリーの目次

  1. 【ストーリー】赤荻深雪さん 小児がん(神経芽腫) ステージ4 サバイバー
  2. 第1話「小児がん(神経芽腫)最終ステージ」
  3. 第2話「入院病棟での生活」
  4. 第3話「退院~小学生へ」
  5. 第4話「大人になって」
  6. 第5話「自分のキャリア」
  7. 第6話「母親の腹痛」
  8. 第7話「母のスキルス胃がん」
  9. 第8話「母との時間」
  10. 第9話「私は、いま、34歳。元気に生きています。」

第3話「退院~小学生へ」

1983年、3歳の時、小児がん(神経芽腫、ステージ4)と診断された千葉県千葉市在住の赤荻深雪ちゃん(1991年当時8歳)は、千葉大学医学部附属病院で母親とともに入院し抗がん剤治療(シスプラチン、エンドキサン)を受け、その後、手術(左縦隔神経芽腫摘出術(左開胸))を受けた。

深雪ちゃんは、約2年間の入院治療を経て5歳の時に退院する。
退院する日、看護師たちから「おめでとう。本当によくがんばったね」と祝福されたことを覚えている。

ただ、入院している間に行われた外科手術(左縦隔神経芽腫摘出術(左開胸))の記憶は乏しい。
確かに手術があったことを示すのは、左側のわきの下から背中にかけてある大きな手術の傷跡だ。
オペにより左側だけ副交感神経を断絶したため、今も左眼の瞳孔の調整が上手く行かず、左眼だけまぶしいと感じるときがある。
そして、25歳のときクリニックを訪れた際、「ホルネル症候群」であると医師から指摘された。

退院後、5歳で保育園に戻った深雪ちゃんだったが、初めの頃はなかなか、皆と集団行動をとるのとができず馴染めなかった。
入院病棟では集団行動をとることなんてなかったからだ。
しかし、実社会に戻ると、さっそく保育園の運動会練習があり戸惑った。

その後は、順調に進級、進学し小学校2年生の時、ふとしたきっかけで母親に質問した。
「(当時、病室にいた)たくちゃんは、いま、どうしているの?」
それに対し母親は真摯に向き合い答えた。

「たくちゃんのママは、生きているけど、たくちゃんは、死んじゃったの。(当時6~8人が入院していた)大部屋にいた子供たちの中で生き残っているのは深雪ともう一人だけなの…」

この時、自分が小児がんを患っていたことを母親から説明された。
衝撃的だった。
本当に驚いたが、精神的には意外と大丈夫だった。

「事実を教えてほしい」常にそう思っていたから、包み隠さず、自分ががんを患っていたことを教えてもらい、ストンと腹落ちし、心の整理がついた。
左わきにある手術の傷跡、左側交感神経断絶の影響、なぜ今こうなるのか解り納得し、小児がんの事実を教えてくれた母親に感謝した。

ある日、小学校で男の子と喧嘩したとき、勢いで「私、がんだったんだからね!」と言い返した。
すると男の子から「がんだからって、えらそうにしてんじゃねー」そう言われハッとした。

そんなことべらべらいうもんじゃないな…と小学生なりに感じ、それ以降、がんを語らなくなった。

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この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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