子宮頸がん ステージ2 サバイバー 黒田奈美さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】黒田奈美さん 子宮頸がん ステージ2 サバイバー
- 第1話「手に職を」
- 第2話「就職・結婚・出産」
- 第3話「シングルマザー」
- 第4話「母の肺がん ステージ4」
- 第5話「続く不正出血」
- 第6話「医師への不信感」
- 第7話「子宮頸がん ステージ1B2」
- 第8話「広汎子宮全摘手術+両側付属器摘出+リンパ節生検」
- 第9話「強度変調放射線治療(IMRT)」
- 第10話「精神的な限界近く」
- 第11話「再就職と抗がん剤治療(TC療法)」
- 第12話「母との別れ」
- 第13話「続く試練」
- 第14話「なんとか乗り越えた」
- 第15話「看護師という目標へ」
第13話「続く試練」
6歳の娘を持つシングルマザーの埼玉県所沢市在住の黒田奈美さん(34歳、2016年当時33歳)は、2014年に子宮頸がん(腺がん)を発症し、手術(広汎子宮全摘手術+両側付属器摘出+リンパ節生検)、強度変調放射線治療(IMRT)を受けたが、その後転移が見つかり、抗がん剤治療(TC療法)を受けた。肺腺がん(ステージ4)の母親は、余命宣告後も5年を生き他界した。
母親の介護を通じて看護師と言う職業に興味を持ち始めた黒田さんは、2016年4月から看護助手として、自宅から30分程の所にある病院で働いていた。
週3日、午前中だけの仕事だったが、未経験者でもOKと言われ、夢の看護師への道に一歩近づいていた。
そんな最中に起きた母親との死別。
悲しみは深かった。
ただ…、黒田さんに更なる試練が続く。
2016年8月、PET-CT検査を受けたら「骨盤の内側にがんらしき影がみられます」と言われる。
腫瘍マーカーも基準値を超えていた。
詳しい検査の結果、骨盤腔右側のリンパ節にがん転移が認められた。
「なんで、私には、こんなに次々と災難が降りかかるのか…」
これまで心が休まる日なんてなかった。
でも、どんな時でも娘の前では元気な母親でいたい…、その気持ちが治療に対し前を向く「力」となる。
そして、9月20日より抗がん剤治療(TC療法)が開始。
さっそく、頭痛、嘔吐、発熱といった副作用が現れたが、腫瘍マーカーは順調に下がる。
予定の6クールのうち、2クールをやり遂げた頃、腹痛が起こり救急で多摩北部医療センターに運ばれ入院する。
検査の結果、盲腸穿孔(もうちょうせんこう)と診断され、3日後の11月21日、回盲部切除手術を受け12月2日に退院した。
この期間、小学校2年生になっていた娘は、実家の父親が預かっていた。
ただ、退院した当日、今度は右脚に激痛が走り、そのまま再入院となってしまう。
仮性動脈瘤破裂による腹腔内出血からショック症状が起き、意識がもうろうとしてくるし、血圧も低い。
医師は大急ぎで輸血を行った。
3日後、12月5日、2度目の手術(仮性動脈塞栓手術)が行われた。
しかし不運にも塞栓手術が上手くいかず、再び出血がおこり、緊急で3回目の手術、開腹止血術が行われる。
立て続けに起きる出血とショック症状、意識が薄れていく中、思わず死を意識した。
「残される一人娘は、誰が育てるんだ?」
深い悲しみから、一瞬、最悪のことが頭によぎっていた。
遠のく意識、まるで悪い夢を見ているかのようだった。
できることなら1日でも早く、この苦難を乗り越え娘の元に戻りたい、そう涙ながらに神頼みしていた。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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