【インタビュー】黒田奈美さん 子宮頸がん ステージ2 サバイバー

子宮頸がん ステージ2 サバイバー 黒田奈美さんのインタビューです。

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目次

基本情報

名前: 黒田奈美さん >>5yearsプロフィール
年代: 30代、女性
病名: 子宮頸がん
病理: 腺がん
進行: ステージ2
発症年月: 2012年1月
発生時年齢:29歳
受けた治療: 広汎子宮全摘手術、強度変調放射線治療(IMRT)、TC療法 
    
治療期間: 2012年1月~2017年2月
合併症・治療方法:盲腸穿孔(もうちょうせんこう)が発症し回盲部切除手術。仮性動脈塞栓手術。仮性動脈瘤破裂により、腹腔内出血が発症したため、開腹止血術。開腹網嚢血腫除去術。
職業: エステティシャン、看護助手

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【まず、お母さまの肺腺がん(ステージ4)に関してご質問させてください】

2011年に肺腺がんの診断がつきますが、お母さまは、当時、自治体(所沢市)から補助が出る健康診断も受けられていなかったのでしょうか?

はい、一度も受けていませんでした。

3月頃から喘息みたいな、ヒューヒューと言う息遣いをされ、痰を吐き出していたということですが、検査で病院に行く7月まで、症状はあまり変わらなかったのでしょうか?それとも悪化していたのでしょうか?

3月頃から月単位で、咳き込む回数が増えるなどの症状は悪化していましたが、ちょうどその頃スポーツジムでストイックに運動をしていた事もあり、それが原因なのでは?と思っていたようです。

検査結果を聞くまでの間に容態が悪化して、救急で病院に運び込まれたと伺いました。どのように悪化したのでしょうか?

呼吸苦が出てしまい、自宅にいるのが不安になり自分で救急要請したようです。今振り返ると、限界まで我慢していたのだと思います。

なぜ、西埼玉中央病院から東京病院へ転院されたのでしょうか?

東京病院は呼吸器系疾患の専門医療施設だからです。

抗がん剤「イレッサ」は効いていたものの、副作用が強く途中でやめられたと伺いました。途中でやめることに、ご家族はどのようなお気持ちでしたか?

「今辛いけど、少し頑張ってほしい…」抗がん剤の効果を熟知している看護師の姉と、「母の希望通りにしてあげたい」という医療的知識のない私では、意見が割れました。ただ、最終的に共通していたのは、母らしく生きてほしいということでした。

抗がん剤をやめてから、普通に元気にしていらしたとのことですが、当時の状況を教えてください?

副作用から解放された母は、水を得た魚のように生き生きしていました。一番印象的なのは、母はいつも「本当は癌ではないんじゃないか?」と言っていました。無治療の期間は《病は気から》を常に心がけ、積極的にヨガ散歩をしていましたし、本当にこのまま元気になるのでは?と周りも思うほど前向きに元気な母でした。ただ、抗がん剤をやめる条件として数カ月に一度は定期検査をうける約束を看護師の姉としていましたが…行ったり行かなかったり。きっと、認めたくない気持ちや恐怖があったのだと思います。

【ここからは、黒田さんについてご質問させてください】

2012年の後半から不正出血とおりものが出てきて、その頻度が増えます。不安は無かったですか?

病気だとは毛頭思わなかったので、不安や心配はなかったです。

2013年1月31日に婦人科クリニック(A)にいくと、医師から「おりものも不正出血も健康の証」と言われ帰されます。正直、どのように感じられましたか。

健康維持のためのバランスのよい食事や、サプリメントなども多く摂っていたため、健康の証と言われたことでお墨付きをいただいた気持ちで、病院から帰りました。

その後、異常な量のおりもの、不正出血を繰り返し、腰痛、腹痛と様々な症状がでてきているのに、婦人科クリニック(A)では「異常なし」と言われます。納得いかない診断に見受けられますが、振り返って、どのようにとらえられていますか?

クリニックはとても清潔な印象で、産婦人科のみならず美容医療も行っており、受付もとても感じのいい方ばかり。何より、産婦人科のクリニックなので、「婦人科の専門分野なのだから、院長が言うことは間違いないだろう」と、思い込んでいました。
当時は、先生によって色んな考え方があることを知らなかったので、どの病院に行っても一緒…くらいにしか思っていませんでした。

2014年にしのざきクリニックを訪れ5㎝の腫瘍の存在を告げられます。このとき頭に浮かんだことはどのようなことでしたか?

良性か悪性かわからないのなら、きっと良性だろう…子宮筋腫とか、そういうこともあるかもしれない…と最後まで癌だとは信じなかったのと同時に、数日前にもクリニックで診てもらってたのに?今までの通院と診断は一体なんだったのか…?怒りもこみあげました。

その後、西埼玉中央病院で「子宮頸がん」の見込みを告げられます。そして、セカンドピニオンを受けられたと聞きました。なぜ、セカンドオピニオンを受けられたのですか?他の病院でオピニオンを聞かれていかがでしたか?

母の抗がん剤による闘病を間近でみていたことで、抗がん剤をやることが受け入れられずにいました。抗がん剤以外の治療法がないのか?納得がいくまで探したかったため、セカンドオピニオンを希望しました。
セカンドオピニオン先では、抗がん剤はやらなくていいとのことだったので、即決しました。

がんの事実を子供に伝えることの難しさを感じられたと伺いました。どのようなことに気を付け、どうやって伝えられたのでしょうか?

親一人子一人の母子家庭のため、私が正直にありのままを話し、もし娘が大きくショックを受けた場合、フォローしてくれる人がいません。TVで見たのか「癌=死」というイメージがついてしまっていたこともあり、「お腹が痛いからお医者さんにしっかり治してもらうために入院するね」と、はじめは納得してもらいました。抗がん剤治療中は「美人になる点滴をしているの」とハゲ頭をさすりながら笑って誤魔化していましたが、次第に「脱毛=抗がん剤」なのだとうすうす気付いてきたようで、癌は死ぬ病気じゃないというのを丁寧に教えました。

がんの事実を、いつお父さまに伝えられましたか?娘のがんを知り、どのようなようすでしたか?当時は、単身赴任中だったのでしょうか?

母にがんを伝えたあと、母から父に電話で伝えてもらいました。するとすぐに私のところに父から電話が入り、いつもは穏やかで冷静な父が質問攻めをしてきて、少し動揺しているようでした。何かあれば頼ってこいと言われ、単身赴任中でなかなか会えないけど少し心強かったです。

シングルマザーが入院して治療を受けることは大変だと思います。苦労されたこと、心配されたことは何ですか?

娘はいつも私にべったり、大好きなおばあちゃんの家にお泊りすることも嫌がる子でした。私が入院中に泣きじゃくり、末期癌の母に負担をかけてしまうんじゃないか…それが一番の心配でした。
抗がん剤治療中は、辛い気持を吐き出す場所がなかったのは本当にキツかったです。「もしこの辛さを共有してくれる優しいパートナーがいたら、どれだけ気持ちがラクになるか…」と、正直何度か思いました。

手術のあと、病理検査の結果が出てリンパ節への転移が認められます。放射線治療の追加を告げられますが、なぜ「やっぱりな」と思われたのでしょうか?

インターネットで、自分の癌ステージと同じ病歴を持つ方のブログなどを拝読していました。
するとリンパ節に転移していた方が多いのを知り、追加治療があるかもしれないということを頭にいれておきました。

手術のあとの後遺症・排尿障害について教えてください。自己導尿をせざるを得なかったと伺いましたが、その後、どのように改善していきましたか?

退院後もしばらくは自己導尿が続き、尿意は100%戻らなかったため、2〜3時間毎にトイレに行きました。
膀胱炎を何度か繰り返しましたが、そのうち年数が経てば尿意などの感覚も戻ると聞いていたので、悲観せずにいたら、今は80%以上戻っているので生活に支障はありません。

放射線治療(IMRT、強度変調放射線治療)が始まり、大変だったと伺いました。よろしければ、何がどう大変だったのか教えてください。

IMRT治療を受けるのに最適な状態(膀胱に600CCの蓄尿&腸に便が溜まっていない)になるようにコンディショニングすることが大変でした。
大量の下剤を飲んではトイレとお友達状態、すると蓄尿もできず。放射線治療の時間をずらしてもらったことが何度あったか…
また、精神的な影響なのか、治療室の機械的な匂いをかぐと吐き気がして具合が悪くなりました。

がん治療が終わり、ハローワークで仕事の紹介をしてもらいます。がんの事実を明かすかどうか悩まれたとお聞きしましたが、ハローワークの方は何と言われていましたか?

「病歴は正直に伝えていいのでは?病気をしたことで、人の心の痛みがよりわかるだろうし、そこを強みに変えてみて!」と背中を押されました。
また、「病気をしたけど今は大丈夫なのだ」と、前向きな姿勢を見せることがとても大切だと、アドバイスを頂きました。

【ここからまた、お母さまの肺腺がん(ステージ4)に関してご質問させてください】

2011年に余命宣告「半年」と言われながら、途中で抗がん剤治療もやめてしまわれたのに、2014年まで健在でいらっしゃいます。当時、この状況をお母さまは何と言われていたのでしょうか?お母さまの体調はいかがでしたか?

「これって、癌じゃない、がんもどきじゃなかと?だって、こんなに元気に過ごしとるよ」
痩せ我慢でもなく、一時は本気でこのように言っていました。元気な母を見てると末期癌患者には見えず、このまま治ってしまうのでは?と周りも思うほどでした。
無治療を選択したことは決して生きることを諦めたわけではなく、1日1日を感謝して過ごしていたようです。

2015年に防衛医大病院で診てもらったあと、東京病院に移られます。なぜ、いつもと違う防衛大学校病院で診てもらったのでしょうか?

副作用の辛さから母がイレッサの治療を強制的に中断したこともあり、主治医とも折り合いが悪く、その後東京病院とはずっと疎遠になっていました。とりあえずどの病院でもいいので、今の体の状態を把握したいとのことで、近い防衛大学校病院で診てもらいました。

緩和ケアでなく、抗がん剤(タルセバ)治療を選ばれたのは、お母さま自身だったのでしょうか?なぜ、嫌がっていた抗がん剤治療を受けられたのでしょうか?

数年ぶりに撮ったレントゲンは右肺が真っ白でした。本人が思っていたより癌は進行していて、「これはがんもどきなんかではなく、今タルセバをやらなければもう余命はないんだ」と、覚悟を決めたのだと思います。
緩和ケアかタルセバか、数日間悩みましたが、東京病院の緩和ケア長とも話し合い、「もう一度頑張ってみる」とタルセバを始めました。

【再び、黒田さんについてご質問させてください】

抗がん剤治療(TC療法)はいかがでしたか?

1度目の抗がん剤治療の時は、母の闘病を見ていた影響もあり、どうしても抗がん剤に対していいイメージが持てませんでした。なので当然、副作用が出始めると更に後ろ向きな感情しか沸かず、自分が自分じゃなくなるのがとにかく怖くて、予定より早く打ち切りました。
2回目の再発の抗がん剤治療では、1回目の反省点を活かし、『抗がん剤は体を元気にする魔法の薬&マブダチ』思いこみ作戦が功を奏したのか、副作用は辛いけど我慢することができました。しかし、我慢しすぎて合併症に気付くのが遅れてしまったことは、反省点です。

TC療法を4クールの途中で終わりにされました。お医者さんは何と言われていましたか?

「抗がん剤、止めたいです」あまりに唐突すぎる私の言葉に、主治医は目を丸くして「なんで?」と聞き返しました。そして、「何が辛いの?」「もうちょっと頑張ってみない?」と説得され、看護師さんには「そこまで思い詰めていたなんて、知らなかったよ。気付いてあげられなくて本当にごめんね」と後で声をかけられました。
腫瘍マーカーも正常値まで下がっていたこともあり、「そんなにやりたくないなら、まぁ、しかたないか」と主治医は言っていました。

抗がん剤治療中、治療後と、黒田さんはお母さまの世話をされています。当時はどのような生活だったのでしょうか?

母の世話が必要になってからは、とにかく実家と自宅の往復で、自宅はもう寝るだけの家となっていました。父が出張で家を空ける時は、実家に泊まったりして、母が一人にならないよう気を付けていました。「親子だけど、がん友達でもあるね」お互いに励ましあいながら、協力し、支え合った闘病生活でした。

2016年から看護助手として働き始めます。楽しかったですか?

未経験で入った医療の現場でしたが、右も左もわからず、何をどこまでしていいのかサッパリでした。看護助手とはいえ、命を預かる場所なので常に緊張していましたが、そんな中、患者さんに「ありがとう」を言われるたびにやりがいを感じました。

2016年8月、PET-CT検査の結果、TC療法が再開されますが、なぜ、2クールで終了したのでしょうか?

治療中、39℃以上の高熱が1ヶ月半続き、右の下腹部が異様に腫れ、歩くことができないほどの痛みがありました。
主治医にも相談をし、抗がん剤の副作用だから我慢するしかないとのことで必死に耐えていたものの、他の病院を受診すると、「盲腸穿孔」でした。緊急手術となり、そこから約3ヶ月入院生活となったので、抗がん剤は強制終了です。
退院後、抗がん剤はやっていません。
この再発治療自体が、そもそも本当に再発していたのか…?正直なところ迷宮入りです。

盲腸穿孔(もうちょうせんこう)と診断され、回盲部切除手術を受けられます。なぜ、このようなことが起こったのでしょうか?

抗がん剤治療中に、実は虫垂炎になっていたそうです。それを放置していたがために虫垂に穴が開いて、周りの小腸や盲腸などの腸管に炎症が起き、緊急手術となりました。穴が開いた場所が少しズレていたら、腹膜炎になり命に関わっていたそうなので、不幸中の幸いでした。
抗がん剤と虫垂炎がたまたま重なったことが、痛みや高熱の原因究明を妨げました。

間もなくして、2度目の手術(仮性動脈塞栓手術)を受けられます。どういう経緯でそのようになったのでしょうか?

1度目の手術後、退院したその日に下肢に激痛が走り、そのまま病院にトンボ返りしました。
不運が重なり仮性動脈瘤が破裂してしまったため、破裂した血管の塞栓術を行いました。
このパターンは本当に稀だそうです。

塞栓手術がうまくいかず、腹腔内出血がおこります。当時の状況を教えてください。

ナースステーションに一番近い個室で、2度目の手術からベッド上で朝を迎え、下肢に痛みがないことに安堵していたら、今度はお腹に激痛。看護師さんがバタバタとし始め、私はショック症状が起き、意識朦朧の中、本気で死を意識しました。
いろんな検査が行われ、緊急手術と聞かされた時は、「なんでもいいから、早く助けて…」という気持ちでした。

その後、カーテンで隔離されます。なぜ、そうなったのでしょうか?どのような感染症が起きていたのでしょうか?

何十本もの抗生剤の点滴をしていたことで誘発してしまった感染症です。度重なる手術で免疫力も落ちていましたので、想定内の感染症です。
40℃の高熱と下痢が続きました。

4回目の手術、開腹網嚢血腫除去術を受けられた理由は何ですか?

腹腔内出血したときに、胃の後ろに血腫ができてしまい、それが十二指腸を圧迫してしまうことで嘔吐を繰り返していました。
胃の後ろの血腫が自然に体内に吸収されるのを1週間待ちましたが、吸収されなかったため、開腹手術をして血腫を取り除きました。

シングルマザーにも拘らず、3ヵ月近くも入院してしまいます。当時、お子さん、お父さま、ご兄弟はどのように対応されたのでしょうか?

父が娘の世話をしてくれたおかげで、娘を養護施設に預けることもなく、安心して娘を任せることができたのです。週に3回ほど娘を連れて病院に見舞いに来てくれました。父も現役で働いていたので、本当に大変だったと思います。
また、看護師の姉はしばしば休みをとって2時間近くかけて病院に通ってくれました。姉が仕事で来られない日は不安でたまらなく、それほど頼っていました。
母の看取りや私の闘病をきっかけに、家族の絆は以前より更に深くなりました。

入院中に、看護師からとても励まされ「力」をもらったと言われました。看護師のどのような対応が嬉しかったですか?

私の病気が治癒方向に向くと、涙をながしながら喜んでくれたり、早く退院したい焦りから頑張りすぎていた私に、ホッと肩が抜けるような声がけをしてくれたことです。
この看護師さんたちや、一生懸命な姿勢の主治医に出会えて良かったと思いました。

現在はどのような頻度で経過観察を受けられていますか?

3ヶ月に一度です。

黒田さんが、がん治療を受けていたことを、いま、お嬢さんはどのように理解されていると思いますか?

まだ9歳ですが、これまでの母と私の闘病を見て、「癌は死ぬ病気じゃないけど、風邪やケガとは違う病気」というのはよく理解しています。
入院中はママがいなくて寂しかったけれど、従兄弟たちとたくさん遊べて楽しいこともあり、特別にイヤな思い出という印象はないみたいです。
日常を大切にし、子供との時間を楽しむことで、今は娘も安心感はあるのかなぁと思います。

がん治療と親の介護を同時に経験され、いかがでしたか?

常に先の見えない不安と疲れがつきまとい、お互い衝突することもたくさんありましたが、母と私、二人三脚で支え合った闘病生活でした。
とにかく色んなことを同時進行で考えざるを得ないので、余計なことを考える隙間がなく、落ち込んでる暇もなかったです。今思えば、大変だったけどいい思い出です。

シングルマザーにも拘らず、がんに罹患され長期の治療を受けました。振り返って、どのように感じられていますか?

闘病中、心のバランスを保てたのは娘のことが大きかったです。娘という、私が守らなきゃいけない存在があったから頑張ってこれました。そういう意味でも、娘にはとても感謝しています。

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】

  1. 日常の有り難み
  2. 家族の結束
  3. 残りの人生をどう生きていたいか、考えるきっかけ

【失ったもの】

  1. 女性にとって大切な臓器

大切にしている言葉

『試練は乗り越えられる人に与えられる』
幼い頃に教わった母の教えで、人生でつまずくたびに、この言葉にいつも背中を押されます。

現在治療中の方々に伝えたいこと

ポジティブに頑張っている自分も、ネガティブな自分も自分です。ありのままの自分をたくさん褒めてあげてください。
1日を大切にして、最善をつくせば、それは次の日に必ず繋がります。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

患者に寄り添う上で、家族だからうまくいくこともあれば、家族だからうまくいかないこともあります。でもそれは仕方のないことなので、ご家族のかたはそれを責めないでください。
患者に対して素直に感じた想いを、丁寧に相手に伝えることができれば、それはきっと患者にとって大きな力となり励みになります。

シングルマザーのがん患者に伝えたいこと

一番気がかりなのは子供のことだと思います。子供に辛い思いやさみしい思いをさせても、その分いろんな話をしたり励ましあったり、子供と向き合っていけば、それは子供にとってかけがえのない財産になります。シングルマザーだからと悲観はせず、自信をもって前に進んでください。子供は、ちゃんと母親の背中を見ています。

黒田さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいことは何ですか?

私は看護師を目指し、今年4月からは働きながら准看護学校に2年通います。卒業後、正看護師免許を取得するために進学し、さらに2年間学校に通うつもりです。
看護師になり実務経験を積んだら、緩和ケア病棟や訪問看護をやりたいと今は思っています。
再発の不安が全くないわけではありませんが、いつ何が起こるかなんて人間誰しもわからないことですし、覚悟を持ってやりたいと思ったら、挑戦することにしています。私の手帳には、やりたいことがたくさんメモしてあります。

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  1. 多少の無理はしてもいいが無茶は禁物
  2. 自分の殻にこもること
  3. 自分を責めること

がん患者がするべきこと(3つ)

  1. 自分のカラダや心の声を聞くこと
  2. あきらめないこと
  3. 人に頼ること

周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉

  1. 「貴女の力になりたい、遠慮せず頼ってね」周りに頼っていいんだと知って嬉しかった
  2. 「頑張らなくていいよ」もっと手抜きしていいんだなあと気付いた
  3. 「絶対大丈夫だよ」今にも消えそうなロウソクにまた火がついたように希望を持てた

周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉

  1. 「がんばってね」頑張ってるのに、これ以上何を頑張ればいいのか悲しかった
  2. 「若いから、大丈夫よ」若いからこそ、大変なことだってある。
  3. 抗がん剤治療後に「もう治ったんだね」。ただの風邪とはわけがちがう。

復職する際に大切なこと

  1. 「NO」といえる勇気
  2. 働き方などを、上司としっかり相談すること
  3. 休職していた分を巻き返そうとしないこと

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取材:大久保淳一

この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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