骨肉腫サバイバー 柴谷さんのがんに関するストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】柴谷健さん 骨肉腫 ステージ不明
- 第1話「17歳の少年。左足切断という重い決断。」
- 第2話「兵庫から千葉へ。始まった全身化学療法」
- 第3話「骨髄炎?テレビドラマの骨肉腫に似ている?」
- 第4話「半信半疑の骨肉腫。安心させてくれる叔父の言葉」
- 第5話「残酷な順番手術」
- 第6話「同世代患者の脚、腕切断。広がる怖さ。」
- 第7話「近づく体力と精神力の限界」
- 第8話「切断の決心とこぼれ落ちる涙」
- 第9話「始まったリハビリと抗がん剤全身科学療法」
- 第10話「兵庫から東京へ。転校、そして新しい生活へ」
- 第11話「はじめて知った病名」
- 第12話「玲子さんへの身体障害の告白。」
- 第13話「夢は東京パラリンピックでの競技実施へ」
- 【追想】
第13話「夢は東京パラリンピックでの競技実施へ」
17歳のとき骨肉腫を患い左脚を切断した東京都品川区在住の柴谷健さん(52歳、1981年当時17歳)は、その後、大学の友人にも会社の人たちにも自分の左脚のことは隠していたが、玲子さんとの結婚を機に隠すことをやめた。それからは夏に半ズボンも履けば、義足を脱いでプールにも入れるようになる。
2008年11月、ハワイ島
この日は天気が悪く海が荒れていた。海水浴はできない。
時間が余ってしまったのでホテルの敷地にあったテニスコートで柴谷さんと玲子さんはお遊びテニスをし始めた。
柴谷さんは幼少のころ父親の転勤からオーストラリアのシドニーで過ごしたが、その頃はテニスに明け暮れプロテニスプレーヤーを夢見る少年だった。高校でもテニス部だった。
ただ左脚を失ってからはテニスの試合の映像を観るのもつらく、再びラケットを握ることは封印した。
長年敬遠していたにもかかわらず、なぜかこの日はテニスをしてみたいと思った。
27年ぶりにやってみたテニスは、まるで羽根つきのようなぎこちなさだった。
それを遠くから見ていたテニスコートの管理人が柴谷さんに近づきこう言う。
「脚の具合が悪いなら、アンドレア・アガシ選手のように打ちなさい」
つまり上半身をひねることで打ち返すやり方だ。そして彼はそのやり方を指導し始める。
ショッピングセンターにおいてあるのと同じ大型カートに山盛りのテニスボールを持って来て熱血コーチさながら柴谷さんを指導し始めた。
彼はロイヤル・コナ・テニスクラブのテニスコーチでミノル・オオタさんという日系2世のアメリカ人だった。
この出来事が柴谷さんの人生にもう一つの大きな輝きをもたらす。
翌日も特訓を受け日本に帰国した柴谷さんは2009年1月に東京都大井ふ頭の中央海浜公園テニススクールに入会する。
そこでプロテニスコーチをしている中川勝就さんにこう言われる。
「脚があろうとなかろうと、私についてきなさい」
そしてテニスに夢中になっていく。
さらにその年の10月には大井ふ頭中央海浜公園で行われていた障害者テニス大会を観戦し驚く。その中に義足でテニスをしている人達が何人もいたからだ。
柴谷さんは義足をつけて立位で行うテニスにどんどんのめり込む。
競技性を求めての真剣勝負の世界だがパラリンピックにはこの競技がない。
あるのは車いすテニスのみだ。
今、南米チリの選手が中心になって義足をつけるなどして行う立位のテニスを世界的な競技にしようという動きがある。2015年には初めて世界大会が開催された。
柴谷さんは日本の代表としてアメリカで行われる3回目の世界大会に参加する。
夢は東京パラリンピックでの競技実施。それに向けて忙しい毎日を送っている。
52歳になった今大きな挑戦をしている。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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