肺がん(肺腺がん) ステージ4 サバイバー 長谷川一男さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】長谷川一男さん 肺がん ステージ4 サバイバー
- 第1話「映画鑑賞が好きで」
- 第2話「テレビ番組制作会社へ」
- 第3話「独立・結婚・子供の誕生」
- 第4話「首の付け根の腫れ」
- 第5話「がんの可能性が高い」
- 第6話「余命10ヶ月」
- 第7話「抗がん剤治療」
- 第8話「セカンドオピニオン」
- 第9話「“逃げ馬”の戦い」
- 第10話「8年間という大切な時間を生き抜いて」
第9話「“逃げ馬”の戦い」
2010年に肺がん(肺腺がん、ステージ4、背骨と肋骨に転移、EGFR変異なし、ALK融合遺伝子なし)余命10ヶ月といわれた神奈川県横浜市在住の長谷川一男さん(47歳、2012年当時41歳)は、抗がん剤治療(アリムタ、シスプラチン、カルボプラチン)、その後、陽子線治療、経口の抗がん剤TS-1治療を続けていた。
この頃の長谷川さんは、余命宣告を受けたころの長谷川さんとは違っていた。
心の整理の仕方を習得していたのだ。
それまでは、死へ引き込まれるような感じがして、常におびえ恐れていた。
しかし、一時的とはいえ、抗がん剤が効果を示し、セカンドオピニオンで「闘え」と言ってくれた医師と出会い、自分なりに病気との向き合い方を見出していた。
それは、解らないことがあれば、徹底的に突き止めて納得し、その上で治療を受けることさえできれば、例え結果が思わしくなくても自分は受け入れられる、そう心を整理していた。
すると、それまで白黒に見えていた世の中の風景が、何となく色がついて見えるようになってくる。
陽子線治療を2010年12月に終え、年が明けて2011年2月、長谷川さんは主治医のもとで、次の抗がん剤(ドセタキセル、シスプラチン)治療を受けていた。
この治療は、時々、アバスチンも投与するものだった。
3週間を1クールとして、その後回復期(1週間)を設けるスケジュールの治療で合計4クール。
淡々と治療と検査をこなす毎日、そんな生活が夏まで続く。
しかし、この病気は簡単ではなかった。
画像検査で経過をみていたが、原発である右肺に再び白い影が映る。
長谷川さんは、めげず、さっそく次の選択として重粒子線治療を受けるため3週間入院。
この頃の自分を競馬の「逃げ馬」の戦いに例えている。
競馬では、先頭を走る馬は、後続の馬たちから追われる身だが、1着でゴールできるように全力で走る。
その先頭馬を自分、後続の馬を病気に例え、「逃げ馬」の戦いとした。
ぶっちぎりで走り切り、がんを周回遅れにしてやるつもりだった。
余命10ヶ月と言われたが、すでに1年半を生きていた。
3週間の重粒子線治療を終えた長谷川さんは、次、抗がん剤(アバスチン、ナベルビン)治療に移った。
2011年11月に始まったこの治療は、翌2012年の3月まで続く。
薬が効かなくなると、次の薬を試す。
その繰り返しだが、強い気持ちで臨んでいた。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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