【インタビュー】森山宏則さん 肺腺がん(肺がん) ステージ4 サバイバー

肺腺がん(肺がん) ステージ4 サバイバー 森山宏則さんのインタビューです。

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目次

基本情報

名前: 森山宏則さん >>5yearsプロフィール
年代: 40代、男性
病名: 肺腺がん(再発)
病理: ALK融合遺伝子陽性
進行: ステージⅠ→Ⅳ
発症: 2010年8月(2012年4月再発)
発生時年齢:38歳(再発時39歳)
受けた治療:右肺上葉切除術+リンパ節郭清術、ガンマナイフ治療、抗がん剤(ザ-コリ、アレセンサ)治療 
合併症:なし
職業: 専門学校教員
生命保険:かんぽ生命 JA共済 私学共済

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2010年8月、健康診断の結果「右肺に陰影を認める。要・再検査」と有りましたが、森山さんはあまり不安には思われません。なぜですか?

30代の自分が癌のわけがないし、きっと何かの間違いだろうと考たからです。

この時、上司に促されなかったら病院には行かなかったと思いますか?

はい、行かなかったかもしれません。

最初のクリニックでCT画像検査を行い、医師から「がん」を前提とした説明を受けます。どのようなお気持ちでしたか?

まさに「ガーン」と強い衝撃を受けました。 晴天の霹靂、奈落の底に落とされた様でした。

「半年も放っておけないですよ」という言葉を、「半年で死ぬ」と感じられたのはなぜですか?

肺がんは短命であるというイメージがあり、そこに「半年」というワードが乗っかったので「半年で死ぬ」というネガティブな発想に繋がったのだと思います。

帰りの電車の中で「おじいちゃんより早く死ぬのか」と感じられた時の心境を教えてください。

 「この電車の中で俺が一番先に死ぬのか。」斜め前に座っていた「この爺さんよりも俺が先か・・」「何で俺が・・」怒りにも似た感情が現れました。

自宅の最寄り駅についてから自分のお葬式の光景を想像されます。なぜ、そのような想像をされたのですか?

なぜなのかわかりません。ただ私は元々、いろいろ空想したりする傾向があるからでしょうか。

再検査を受けてから紹介先の仙台厚生病院を受診するまでを教えてください。

以下の通りでした。

  • 9月18日 クリニック受診。CT撮影。紹介状を受け取る。
  • 9月21日 仙台厚生病院 呼吸器内科紹介受診。
  • 9月28日 PET-CT実施(右上葉に異常集積)
  • 10月13日 手術目的にて呼吸器外科を紹介され受診

肺がんの事実を奥さまに伝えます。その後、奥さまはどのように接してくださいましたか?

私と違って取り乱すことなく平常通り接してくれました。私のことをそっと見守っているという感じでした。

胸腔鏡による「右肺上葉の切除+リンパ節郭清」手術はどのようなものでしたか?

右肺上葉は原発の切除であり、リンパ節については今後の転移予防として予め切除しましょう、というステージⅠAの標準的な手術です。
手術は3時間余り掛かったようですが、全身麻酔でしたので私は全く記憶がありません。術後しばらく、肺に挿入してある管のところが痛かったのを覚えています。

主治医から肺腺癌(肺がん)ステージ1Aと言われた時のお気持ちを教えてください。

ステージⅠというのは判っていました。あとは近隣のリンパ節に転移していなければ
ⅠA、転移していればⅠBになるわけです。当然ⅠAの方が完治する可能性が高いですので、ⅠAということでほっとしました。

がんの事実を職場に内緒にされたのはなぜですか?

初期とは言っても、肺がんであることをカミングアウトすれば、戦力外と捉えられるんじゃないかと思ったからです。教育現場に足を踏み入れたばかりで「よし、これから」という時期でしたから余計に告げたくなかったですね。

退院後、階段を登ると咳が出て、苦しまれます。当時の状況を教えてください。

学校の階段を登って教室に行くと呼吸が大きくなりますよね。それが刺激となって咳が出るんです。授業中に大きな声でしゃべるとそれも咳になるから大変でした。

島根県のご実家に電話で肺がんの事実を明かされます。ご両親の反応はいかがでしたか?

手術を終えて事後にしてから報告をしたこともあったので割と冷静に受け止めてくれたように記憶しています。

2012年4月、経過観察の間にCT画像検査の結果、3ヵ所(右肺門リンパ節、左肺、右胸壁)に陰影があるとして「肺がんの再発・転移」を告げられます。この時の状況とお気持ちを教えてください。

最初に肺がんを告げられた時よりも更にショックが大きかったかもしれません。ステージⅣの5年生存率が圧倒的に低いことは既に知っていましたから。
「ああ、終わったな・・」と絶望的な気分になりました。この2度目の死刑宣告の方が堪えました。

主治医より今後は、外科的に手術する治療は出来ないと言われた時のお気持ちを教えてください。

転移したら抗がん剤などの薬物療法になることは知っていました。当然のことと思いました。

奥様にファミリーレストランに来てもらい、打ち明けます。奥さまの様子はいかがでしたか?

事実を告げると同時に私が泣いてしまったので、つられて妻も泣いていました。何を注文したか、どんな話をしたかなど覚えていません。2人で泣いていたことだけ覚えています。

その後、呼吸器内科の医師と話し安心されます。どのように患者と接する医師でしたか?

非常に穏やかな物腰のベテラン先生でした。最初の言葉は「外科の先生からはどのように説明を受けましたか?」という問い掛けでした。決して一方的に説明するのではなく、患者に寄り添う、というスタンスを示してくれたので凄く安心できました。

生検はいかがでしたか?

これも全身麻酔でしたので寝ている間に終わりました。

肺腺癌(肺がん)のステージ4が確定したときのお気持ちを教えてください。

病理結果を待つまでもなく、これは原発からの転移に違いないと確信していました。

職場に肺がんを伝え休職に入ります。職場の上司、同僚の方はどのような反応でしたか?

「ゆっくり治療に専念してください」という言葉とともに「待ってますから」という言葉を掛けてくれました。

息子さんたちに肺がんの事実をお話しされた時の状況を教えてください。

リビングのテーブルで二人並んで宿題をしているときに、深刻にならないようにサラリと話しました。
「パパ、肺がんなんだ」「えっ?・・そう」それだけで終わりです。
ショックを与えやしないかと心配しましたが、話して良かったです。

島根県のご両親に再発・転移、さらに「肺腺癌(肺がん)のステージ4」を伝えられた時のお気持ちを教えてください。また、ご両親は何と言われていましたか?

実は私が生検の為に入院している時に母親から自宅に電話があって妻が出たんです。「変わりない?」と聞かれたようで、「実は・・」ということで妻から再発・転移した事実を伝えました。退院後、私から母親に電話しましたが、いつもとは声のトーンが明らかに違い、かなり深刻に受け止めているようでした。そして色々と励まそうとしてくれました。泣くようなタイプの母親ではないんですが、涙声で「代われるもんなら代わってやりたいわ」という言葉を聞いたときは堪えましたね。「ごめんよ・・」と心の中で親不孝を詫びました。

森山さんにとって、肺がん「EGFR」ではないという検査結果の意味を教えてください。また結果が出たときのお気持ちも教えてください。

EGFRを対象としたイレッサを飲んで効いている人をブログで何人か知っていました。また、点滴の抗がん剤に対しては私も妻も抵抗があったので、EGFRが陽性であって欲しいと願っていました。ですから陰性と判ったときは非常に残念でしたね。

「ALK」と解ったときの心境を教えてください。

ALKの治療薬ザーコリは治験では大変効果が高く、また副作用も少ないと説明を受けていました。ただしALKが陽性なのは肺腺癌の3~5%だけ、と聞いていましたので半分あきらめていました。だいぶ待ったのちに陽性であると言われたときは妻と顔を見合わせ喜びました。

休職しているのになかなか治療が始まりません。どのようなお気持ちでどのように過ごされていたのですか?

平常心を保とうとしても無理でしたね。焦ってイライラして妻に当たったり、不安定でした。だから車を買い替えたり、仔犬を迎え入れたりしました。
また、湯治場として有名な秋田の玉川温泉に1週間泊まり込んで湯治をしたり、自然のエネルギーを得ようと毎朝森林公園を散歩して深呼吸したり、登山をして巨木に抱きついたり・・今思えばかなり焦ってましたね。(笑)

「ザーコリ」の治療入院は、どのようなものでしたか?

朝晩1カプセルずつ飲んで様子を見るだけです。幸い副作用が少しで、ただ退屈していました。ちょうど高校野球夏大会予選の時期でしたので外出届を出して観戦に行ったりしてました。日焼けしていたので看護師さんは呆れてましたけどね。(笑)

自動車で仙台から長崎まで友人・先輩たちに会う旅に出ます。ドライブ旅の様子と、また当時、どのようなお気持ちで皆さんに会われていたか教えてください。

その頃になると、ようやく自分の中で「死」を覚悟できるようになっていました。また治療方針も決まりましたので、「残りの人生、前を向いて生きよう」という気持ちになっていました。そこで今何をしたいか?と自分に問いかけたときに、「今までに出会った自分にとって大切な人たちに逢いたい」という答えに至ったわけです。
 事前に肺がんステージⅣであることをメールで知らせていたことで皆心配してくれていましたが、思いのほか私が元気だということで、「元気そうやなあ」と喜んでくれました。あと、「俺、もうすぐ死ぬからおごってね」といったら皆ごちそうしてくれました。(笑)

森山さんは、「壮絶な闘病」とか「がんを克服する戦い」といった類を好まれません。好きでない理由と目指されている治療生活について、教えて頂けますか。

「闘病」とか「克服するぞ」というのは「自らを奮い立たせて頑張る」ということです。ところがステージⅣだとどうしても多くの患者は病気が進行する。そのギャップはストレスになりますが、多くの癌患者は「ポジティブでなければいけない」と考え益々気を張って頑張ろうとする。それでは平穏な生活が送れないと思うんです。
 だから私はあまり頑張らないし、癌をやっつけようとは考えないことにしています。癌が身体の中にいてもいいんです。大暴れさえしなければ。癌と共に生きて、そして引き分けに持ち込むのが理想の形です。

2012年10月、ザーコリが効き「がんの影がほとんど判然としなくなってきた」と主治医から言われます。当時の状況と心境を教えてください。

ザーコリを飲み始めて3日で右脇腹のつっぱり感が消えましたので、これは効いてるな、というのはありました。腫瘍マーカーの値も下がっていましたのでやっぱり効いていたなと思いました。

10月に職場に復帰された理由とその時の状況について教えてください。

ザーコリがよく効いて副作用も少なく、職場復帰に支障なしと判断したからです。
あとは4か月の休職中、やりたいことをやりましたし充分休養もしましたのでそろそろ社会復帰したいと思うようになっていました。

2013、2014、2015年と肺がんの脳転移が発症し、ガンマナイフ治療を受けます。当時の状況と心境を教えてください。

もう、さほどのショックは受けませんでした。だいぶ冷静に受け止めることが出来るようになっていましたから。ガンマナイフも2泊3日の入院で終わりますし、たいした苦痛もありません。退院した日の午後、ジョギングをしていたくらいです。

抗がん剤を「ザーコリ」から「アレセンサ」に変更されたのはなぜですか?

ザーコリが4年以上効いてくれましたが、少しずつ薬物耐性が出来て腫瘍マーカーの上昇とともに胸壁の腫瘍が少しずつ大きくなっていたからです。アレセンサはザーコリ以上にいい薬であることを知っていましたので変更することになりました。

高校野球審判員を始められたいきさつを教えてください。森山さんにとって「高校野球審判員」のお仕事はどういうものですか?

元々私は野球が大好きで、二人の息子も野球をやっていた関係で少年野球の審判をしていました。そしてステージⅣになったことで、残りの人生やりたいことはどんどんやろうということで思い切って入団しました。すでに趣味の域は超えています。自分にとって生きがいのようなものです。

肺がんから5年が経ったことの意義と、5年の節目を迎えた時のお気持ちを教えてください。

5年生きられたという嬉しさはあります。いい薬に巡り合えたことが一番です。

「死ぬ死ぬ詐欺」と陽気に笑ってくれる友人たちは、森山さんいとってどのような存在ですか?

同情されて辛気臭くなるのはお互いイヤですから。笑ってくれる友人はとても大切に思います。

治療中の森山さんにとって働くとはどういうものですか?

社会の中に役割があるという意味で仕事は大切だと思います。もちろん収入を得るという家族のなかでの役割を果たすという大きな意味もあります。

6年目を迎えた今、何を目指されていますか?

6年目の日々を淡々と生きていくだけです。特に大きな目標は掲げていません。
日常の小さな幸せを積み重ねていけたら、という想いです。

肺がん、ステージ4を経験して感じること

ステージ4になって良かった、とは思いませんが、見える景色が少し変わったような気がします。シンプルでナチュラルなものをより好むようになりました。人との出会いをより大切にするようになりました。

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】

  1. 今を大切にする気持ち
  2. 人を想う気持ち
  3. 健康な生活

【失ったもの】

  1. 老後の楽しみ

大切にしている言葉

「人間万事塞翁が馬」
「一期一会」

現在治療中の方々に伝えたいこと

「諦める」と「受け入れる」は違うということ。
また、治療を医者任せにしないで自分でも情報収集した方がいいと思います。
主役は自分、主治医はパートナーと捉えてはいかがでしょうか。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

普段通り接してあげるのがいいかと思います。

森山さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。

審判はライフワークですので身体が動く限り続けます。
今年に入ってから大学の通信教育部で心理学を学んでいます。
四国巡礼の旅もチャンスがあればやってみたいですね。

周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉

  1. 元気そうね
  2. 日焼けしてるね
  3. がん患者には見えないよね

周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉

特にありません。

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  1. 頑張り過ぎること
  2. 隠れること
  3. ストレスをため込むこと

がん患者がするべきこと(3つ)

  1. 散歩
  2. 同病者や健常人との交流
  3. やりたいことは躊躇せずにやる

当時参考にした本

  1. 「がん患者学〈1〉長期生存患者たちに学ぶ」 柳原和子
  2. 「死はこわくない」 立花隆

>>森山宏則さんの「ストーリー(がん闘病記)」はこちら

>>森山宏則さんの「がん経済」はこちら

取材:大久保淳一

この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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