子宮頸がん ステージ2 サバイバー 黒田奈美さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】黒田奈美さん 子宮頸がん ステージ2 サバイバー
- 第1話「手に職を」
- 第2話「就職・結婚・出産」
- 第3話「シングルマザー」
- 第4話「母の肺がん ステージ4」
- 第5話「続く不正出血」
- 第6話「医師への不信感」
- 第7話「子宮頸がん ステージ1B2」
- 第8話「広汎子宮全摘手術+両側付属器摘出+リンパ節生検」
- 第9話「強度変調放射線治療(IMRT)」
- 第10話「精神的な限界近く」
- 第11話「再就職と抗がん剤治療(TC療法)」
- 第12話「母との別れ」
- 第13話「続く試練」
- 第14話「なんとか乗り越えた」
- 第15話「看護師という目標へ」
第8話「広汎子宮全摘手術+両側付属器摘出+リンパ節生検」
2011年に調停離婚が成立しシングルマザーとなった埼玉県所沢市在住の黒田奈美さん(34歳、2014年当時30歳)は、生活の基盤を築くために一生懸命働く一方、娘と肺腺がん(ステージ4)の母親の世話をしていた。2014年、自らも子宮頸がん(腺がん)、ステージ1B2を告げられた。
医師からこう言われた。
「入院が伴うので、よく考えてください」
黒田さんがシングルマザーで母親ががん治療中という事情から、悩ましい顔でそう言った。
“がん治療中の母親に、どこまでお願いできるのか…”
この日、実家に帰り母親に伝えた。
「お母さん、ゴメンネ。(私)がんだった…」
衝撃的な知らせに母親は泣き出し、母娘2人で抱き合う。
そして、母親は絞り出すようにこう言った。
「私が、がんなのに、奈美まで、がんなんて…。困ったことがあれば、何でも言ってね…」
厳しい状況には変わりなかった。
その後、国立がんセンター中央病院でセカンドオピニオンを聞いた黒田さんは治療方針に納得する。
ただ…、4歳の娘に自分の病気のことを、どう伝えたらいいか悩んだ。
テレビの影響で「がん」=「死」のイメージがあるかもしれない。
結局、思案の末こう伝えた。
「ママは、お腹が痛い病気なんだよ。しっかり治してくるから、おばあちゃんと一緒にいてね」
それを聞き、ママと離れるのがつらいと泣きじゃくる娘。
黒田さんもつらい時だった。
がんの告知から1ヶ月が過ぎた2014年3月4日、国立がんセンターに手術のために入院。
翌々日、姉と父親が見守るなか、8時間の手術「広汎子宮全摘手術+両側付属器摘出+リンパ節生検」が行われた。
それから10日後、母親が4歳の娘(=母親にとっての孫)を連れて見舞いに来た。
13日ぶりにあった娘は顔立ちがしっかりしていて、とても成長しているように見えた。
めそめそ泣いて困らせるようなことは無く、黒田さんには意外だった。
心配するほどでもなくて母親に感謝すると同時に、娘が泣いちゃいけないと我慢して、つらい気持ちを抱え込んでいるのではないか?そう心配した。
だから、自分は1日も早く退院して元気にならないといけない、そう感じた。
3月22日、病理検査の結果、郭清したリンパ節22個のうち3つにがんが認められたと報告を受ける。
これにより、今後、放射線治療が追加されることが決定。
「あー、やっぱりな…。こんな状況になるまで放置していた自分は、なんておバカさんだったんだろう」
覚悟はしていたが、つらい報告だった。
そして、3月28日、退院して、18日ぶりに自宅に戻った。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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