子宮頸がん ステージ2 サバイバー 黒田奈美さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】黒田奈美さん 子宮頸がん ステージ2 サバイバー
- 第1話「手に職を」
- 第2話「就職・結婚・出産」
- 第3話「シングルマザー」
- 第4話「母の肺がん ステージ4」
- 第5話「続く不正出血」
- 第6話「医師への不信感」
- 第7話「子宮頸がん ステージ1B2」
- 第8話「広汎子宮全摘手術+両側付属器摘出+リンパ節生検」
- 第9話「強度変調放射線治療(IMRT)」
- 第10話「精神的な限界近く」
- 第11話「再就職と抗がん剤治療(TC療法)」
- 第12話「母との別れ」
- 第13話「続く試練」
- 第14話「なんとか乗り越えた」
- 第15話「看護師という目標へ」
第3話「シングルマザー」
2008年に結婚し、翌年、子供を出産した埼玉県所沢市在住の黒田奈美さん(34歳、2009年当時26歳)は、その後、夫との喧嘩の毎日で疲弊し、2010年10月に娘と一緒に実家に帰ってしまう。
苦渋の決断だった。
自分一人のことなら、まだ我慢できたかもしれない。
しかし、1歳の娘がいるのに毎日泣いてばかりのママで、大喧嘩が絶えない夫婦。
家族の形が壊れていた。
こんな環境で娘を健全に育てることができない…、そういう想いが強かった。
悩みぬいた上での決断だったが、シングルマザーになった。
実家に戻った黒田さんは、さっそく仕事を探し市内のエステサロンで働き始める。
1歳の娘を保育園に預け、日中は生活費を稼ぐために働いた。
さらに少しでも収入を増やしたくて、スポーツジムの受付の仕事も始めダブルワークをこなす。
しかし、無理がたたり、年が明けた翌年(2011年)から、手が震えだし、身体が硬直し、嘔吐した。
近所のクリニックで診てもらうと自律神経失調症と診断され、仕事量を減らさざるを得なくなる。
一方、これまでの生活を変えるため調停離婚の渦中でもあった。
親権をとるためには、経済的にも、人格的にも、子供を育てる能力があることを示さなくてはならない。
夫との円満な合意を目指し霞が関の東京家庭裁判所に何度も足を運び、2011年3月に結審がおりる。
この日、その足で所沢市役所に行き離婚証明書をもらい受けた時、形容しがたい安ど感があった。
既に愛情を向ける先ではない元夫だが、よかったのは娘のことを好きで会いたがっていた。
取り決められた元夫の権利義務は、毎月の養育費の支払い義務と月に1回娘と二人で会える権利。
黒田さんも元夫も、それぞれの人生に向かう節目になった。
経済的な不安が無いわけではないが、エステティシャンとして一生懸命働けば何とかなるだろうと思えたし、大切な娘との生活の基盤をつくるという目標に向かい羽ばたいている気がした。
ただ、この年(2011年)黒田家では気になることが起きていた。
黒田さんは実家近くのアパートに娘と二人で暮らしていたが、毎晩の夕食を実家で4人で食べていた。
3月頃から、母親が喘息みたいなヒューヒューという息づかいをし始める。
それから痰(たん)が絡み、カーッペと吐き出すことを繰り返す。
でもフラダンスを楽しんだり、スポーツジムに通っている元気な母親だから、まさか、深刻な病気が進行しているとは本人も家族も思わない。
でも、7月、なかなか改善しないので、西埼玉中央病院で詳しく検査を受けることになった。
胸部レントゲン写真、CT画像検査、血液検査、
1週間後に、検査結果を知らされることになる。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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