子宮頸がん ステージ2 サバイバー 黒田奈美さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】黒田奈美さん 子宮頸がん ステージ2 サバイバー
- 第1話「手に職を」
- 第2話「就職・結婚・出産」
- 第3話「シングルマザー」
- 第4話「母の肺がん ステージ4」
- 第5話「続く不正出血」
- 第6話「医師への不信感」
- 第7話「子宮頸がん ステージ1B2」
- 第8話「広汎子宮全摘手術+両側付属器摘出+リンパ節生検」
- 第9話「強度変調放射線治療(IMRT)」
- 第10話「精神的な限界近く」
- 第11話「再就職と抗がん剤治療(TC療法)」
- 第12話「母との別れ」
- 第13話「続く試練」
- 第14話「なんとか乗り越えた」
- 第15話「看護師という目標へ」
第14話「なんとか乗り越えた」
6歳の娘を持つシングルマザーの埼玉県所沢市在住の黒田奈美さん(34歳、2016年当時33歳)は、2014年に子宮頸がん(腺がん)を発症し、手術(広汎子宮全摘手術+両側付属器摘出+リンパ節生検)、強度変調放射線治療(IMRT)を受けたが、その後転移が見つかり、抗がん剤治療(TC療法)を受けた。2016年には、盲腸穿孔(もうちょうせんこう)から入院し既に3回の手術を受けていた。
2016年12月は、黒田さんにとって非常に厳しい時だった。
今回入院して、すでにオペを3回行っている。
12月第2週に入ると感染症が疑われ、下痢が止まらず、他の患者への感染拡大を防ぐためにカーテンで隔離され面会制限の状態になる。
病室に入る看護師も、全身を覆う防御エプロンで来るし、食事に関しては絶食、点滴のみとなる。
黒田さんは、洗面所の鏡の前の自分を見て泣けた。
髪の毛は無く、ガリガリの身体、顔も黒ずんでいる。
「がんばっても、次から次と嫌なことが起こる…」
報われない気がしていた。
年が押し迫った12月28日、4回目の手術、開腹網嚢血腫除去術が行われた。
この期間、小学校が冬休みに入っている娘は、姉の家で預かってもらっていた。
年が明け2017年、体重は以前より7kgも減り、35kg。
病気とトラブルの連続から心は弱りはて、明るい未来が見えてこなかった。
その後も、おたふく風邪に感染するなど災難は続いたが、入院から3ヶ月が経った2月15日に最後の退院をした。
病院を出るとき、素直に今の自分を褒めた。
我慢に我慢を重ね、なんとか乗り越えた瞬間だった。
黒田さんは自宅に戻り、身体を回復させるためしっかり休んだ。
そして、入院前に看護助手として働いていた病院に連絡し復職できるか問い合わせた。
なぜなら、この仕事は3ヵ月ごとに更新するパートの仕事だったのだが、入院中に契約が切れていた。
勤務先の病院の看護部長は黒田さん想いの人で、ぜひ、戻っておいでと言ってくれる。
看護師…。
その職業に、益々、魅力を感じだす。
厳しかった3ヶ月間の入院中も、看護師の声掛けで何度も助けられた。
「こんなに、つらい思いをしているんだから、黒田さんは幸せにならなくちゃだめだよ」
別の看護師はこんなことも言っていた。
「そこまで、がんばり過ぎなくていいよ。太く大きい巨木のような心は要らないよ。泣きたいときに泣けばいいんだから」
精神的に限界に近い状況にもかかわらず、全力でがんばっている黒田さんを楽にする言葉ばかりだった。
看護師の声掛け一つで患者の治療意欲が大きく変わる。
身をもって体験し、看護師と言う職業へあこがれる気持ちが強くなった。
4月15日、黒田さんは看護助手として復職した。
次のページを読む >> 第15話「看護師という目標へ」この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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