急性骨髄性白血病 サバイバー 高松珠代さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】高松珠代さん 急性骨髄性白血病 サバイバー
- 第1話「忙しい毎日」
- 第2話「夜になると出る微熱」
- 第3話「眉間の奥のしびれ」
- 第4話「悪化する体調」
- 第5話「急性骨髄性白血病の告知」
- 第6話「抗生剤と抗がん剤治療」
- 第7話「寛解を告げられて」
- 第8話「地固め療法」
- 第9話「骨髄の提供者」
- 第10話「息子からの骨髄移植(造血幹細胞移植)」
- 第11話「合併症~退院へ」
- 第12話「新たな人生の4年目を迎えて」
第1話「忙しい毎日」
目の前に真っ赤な「骨髄液」の入ったビニールパックが、3つ並べられた。
息子から提供された骨髄液「800ml」。
ありがたいと思うと同時に、取り返しのつかないことをしてしまったと感じた。
21年間、大きな怪我も病気もせずに育った息子の身体に針を刺すことになったのは、自分に原因があるのだから。
2013年7月、神奈川県逗子市在住の高松珠代さん(54歳、2013年当時50歳)は、横浜市立大学附属病院にある院内保育園で勤務しだした。
病院内にある保育園で、入院治療を続けている子供たちの保育をする施設だ。
通常の保育園の仕事と異なるのは、医療のことも頭に入れて仕事をしなくてはならない。
例えば、「水分制限」のある園児には、その日、水の摂取を控えさせるよう目を配る必要がある。
毎朝行われる仕事の引継ぎの際、それぞれの子供たちの体調と病状について伝えられる。
それを頭に入れて、一日、指導しなくてはならない。とても神経を使う仕事だ。
そんな仕事を、週に2回、非常勤で開始した。
32年前、大学を卒業し教育免許を取った高松さんは神奈川県の特別支援養護学校の音楽の教師としてキャリアをスタートさせた。
音楽の先生と言っても、クラスを受け持ち担任の先生もこなす。
4年~5年毎に県内の養護学校を転勤してきたが、それぞれの学校で、全力投球で働いた。
高松さんには3人の子供がいて、長女、長男、次男と5人家族。
長女が中学生の時、家庭での時間を大切にしたいとして、42歳で養護学校を退職。
その後、家庭とのバランスを取りながら非常勤講師として養護学校で勤務を続けていたが、神奈川県の雇用形態の変更により、時間的に都合よく勤務する事が難しくなり職場を離れた。
その後、2012年7月より、葉山町立の保育園で非常勤の保育士補助として、週に3日間、勤務。
翌年7月から、横浜市立大学附属病院の院内保育園でも週2日間働きだした。
つまり、毎週5日間、フルで仕事をする毎日に戻っていた。
ただ…、アルバイトという立場に物足りなさを感じる。
負けず嫌いの性格から、今後は保育士の資格を取得して、自分で納得できる状態で仕事をしたいと思うようになる。
家事、仕事、資格試験に向けた勉強と充実した忙しい毎日を送っていた。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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