肺腺がん ステージ4 サバイバー 森山宏則さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】森山宏則さん 肺腺がん(肺がん) ステージ4 サバイバー
- 第1話「肺に陰影」
- 第2話「半年というキーワード」
- 第3話「命と向き合うつらい日々」
- 第4話「胸腔鏡手術」
- 第5話「経過観察にて」
- 第6話「再発」
- 第7話「肺腺がんの転移、ステージ4」
- 第8話「長期休暇、長い治療へ」
- 第9話「自分と向き合い、死を覚悟して」
- 第10話「運命を受け入れて前向きに」
- 第11話「がんの影が縮小」
- 第12話「肺がん発症から8年目」
第12話「肺がん発症から8年目」
2012年4月に肺腺がん(肺がん)の再発を告げられた宮城県仙台市在住の森山宏則さん(45歳、2012年当時40歳)は、その後の生検の結果、肺腺がん(ステージ4)、ALKと判明し、新薬ザーコリによる治療を続けていた。そして転移したがんの影が小さくなってきた。
森山さんは治療効果を実感していた。
しかし、その後の経過は必ずしも順調ではない。
2013年7月、41歳になった年、がんが脳に転移していると判明。
転移病巣は2ヵ所と説明された。
局所に放射線を当てるために色んな方向から照射するガンマナイフ治療を受けた。
この時は無事に治療を終えたが翌2014年、さらに2015年と続けざまに肺がんの脳転移が発覚。
これにより2度、3度とガンマナイフによる放射線治療を受けた。
ただ、2015年以降は転移が起こらない。
平穏な2016年を過ごした。
2017年に入り抗悪性腫瘍剤を「ザーコリ」から「アレセンサ」に変更した。
時間とともに少しずつ「ザーコリ」に対する耐性が出てきたからだ。
治療薬を替えることは一大決心だったが熟慮の末、そうした。
森山さんはいま夢中になっていることがある。
高校野球の審判だ。
以前から興味があったのだが肺がんを発症してから自分のやりたいことを一つ一つ実現させたいとして2012年10月から続けている。
高校野球審判員として宮城県高校野球付属審判団に所属している。
審判は責任も重く、野球場内を走り回る運動量の多い仕事だ。
だから体力向上のためジョギングも欠かさない。
1ヶ月に100kmも走り込む。
高校野球の審判員の仕事は、森山さんの生きがいの一つで趣味の域を越えている。
がんを発症当時幼かった二人の子供たちは、今年それぞれ大学2年生と高校2年生。
あっと言う間に、子供たちは大きくなった。
愛犬ルースちゃんも5歳となった。
そして何より「肺がんから7年」の記念日を今年8月に迎えた。
更に「肺がん(ステージ4)」の診断から5年を迎えた。
5年生存率5%とも言われた肺腺がん(肺がん)ステージ4。
決して平たんな5年間ではなかったが、意識していた節目を迎えた。
1年1年、1日1日を積み重ねた結果。
先月5年ぶりに自動車運転免許証を更新した。
5年前、「ああ、これが最後の更新か」と思ったのを思い出す。
まさかまた新しい免許証を手に入れることができるとは想像もしなかったから、感慨深い。
毎年、プロ野球の開幕戦をみるたび「今年も観れた」と1年に1度のイベントに喜びを感じる。
公示地価の新聞記事をみると「また1年経った」、そんな風に時間を感じた。
一時はどん底だったが、確実に前へ、前へと時間とともに進んでいる。
これまで友人に会い「俺そろそろ死ぬから、会えるのも最後かなあ…」と自虐的に告げるたびにご馳走されてきたが、全然そんなことないから、友達たちから「(お前は食事をおごってもらう)死ぬ死ぬ詐欺だなぁ」と笑われる。
友人たちも嬉しいのだろう。
この5年で成長した自分を誇りに思う。
今年は、肺がん発症から8年目。
あのステージ4を告げられてからは、ついに6年目に入った。
いま大切な日常をかみしめ、かけがえのない日々を生きている森山さんだ。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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