慢性骨髄性白血病 サバイバー 久田邦博さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】久田邦博さん 慢性骨髄性白血病 サバイバー
- 第1話「血液検査」
- 第2話「高い白血球の値」
- 第3話「慢性骨髄性白血病の可能性」
- 第4話「骨髄穿刺」
- 第5話「骨髄移植かインターフェロンか」
- 第6話「インターフェロン入院治療の開始」
- 第7話「死を意識して」
- 第8話「イマチニブへの切替えと異動」
- 第9話「16年が経って」
第7話「死を意識して」
2001年に精密検査として骨髄穿刺(こつずいせんし)を受け慢性骨髄性白血病と診断がおりた愛知県名古屋市在住の久田邦博さん(54歳、2001年当時38歳)は、悩んだ末インターフェロンを注射する治療法を選んだ。9月にインターフェロンを注射する入院を終え退院した。
2001年・秋
久田さんは一つ気がかりなことがあった。
こうして治療が始まったが、まだ母親に白血病の事実を伝えていなかったのだ。
一人っ子として大切に育てた息子ががんと知れば母親が取り乱すかもしれないと思い告げていなかった。
この頃たまたま地元名古屋で友人の結婚式に参列した際、叔父(母親の弟)と話す機会があった。
叔父さんに相談すると「(母親に伝えても)大丈夫だと思うよ」と背中を押された。
だから意を決して会いに行き事実を伝えた。
すると「お前は死なないよ」と気丈に返されホッとする。
想像していたような大変なことにはならなかった。
インターフェロンによる治療は毎日続けられていたが副作用が常にあり身体はだるかった。
この頃の久田さんはというと普通に会社に行き働いているが帰宅するとテレビゲームを楽しんでいる人だった。
想い返せば入院中の2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が起こった日だった。
テレビを観ていてワールドトレードセンターのビルが崩れ落ちた時、こう思った。
「死は誰にでも訪れるんだ」
やりたいことを先延ばしにしてはいけない。そう思って始めたのがテレビゲーム。
これまでは遊びたいという気持ちを抑えて仕事なり昇進のために色んなことを我慢してきた。
もうそんな我慢をする必要はないと感じ、思いっきり毎日テレビゲームをした。
気晴らしだった。
年が明けて2002年2月、ふとこんなことを思う。
「インターネット情報の中にもしかしたら3年半しか生きられないと書いてあるのに…、残された自分の時間をこんなことに費やすなんて…」
自分で自分が嫌になり、きっぱりとテレビゲームをやめた。
この頃会社では上司と今後のキャリアについて相談していた。
これまでやってきたMR(医療情報担当者)の仕事を続けるのは自分には難しいこと、そして心身の負担が少ない地元・名古屋に帰りたいことを伝えた。
そんな久田さんの意向をくんで2002年4月付けで名古屋市にある支店の研修部門への異動が決まる。
家族6人で引っ越しての転勤となった。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
>>NPO法人5yearsの組織概要はこちら
-Sponsored-