骨肉腫サバイバー 柴谷さんのがんに関するストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】柴谷健さん 骨肉腫 ステージ不明
- 第1話「17歳の少年。左足切断という重い決断。」
- 第2話「兵庫から千葉へ。始まった全身化学療法」
- 第3話「骨髄炎?テレビドラマの骨肉腫に似ている?」
- 第4話「半信半疑の骨肉腫。安心させてくれる叔父の言葉」
- 第5話「残酷な順番手術」
- 第6話「同世代患者の脚、腕切断。広がる怖さ。」
- 第7話「近づく体力と精神力の限界」
- 第8話「切断の決心とこぼれ落ちる涙」
- 第9話「始まったリハビリと抗がん剤全身科学療法」
- 第10話「兵庫から東京へ。転校、そして新しい生活へ」
- 第11話「はじめて知った病名」
- 第12話「玲子さんへの身体障害の告白。」
- 第13話「夢は東京パラリンピックでの競技実施へ」
- 【追想】
第6話「同世代患者の脚、腕切断。広がる怖さ。」
12月に兵庫県の病院から千葉県の病院に転院し、抗がん剤治療、放射線治療、再び抗がん剤治療と7ヶ月間治療を受けていた東京都品川区在住の柴谷健さん(52歳、1981年当時17歳)は、当時日本で2例目と言われた人工関節を入れる手術のために千葉大学医学部附属病院に転院した。最後まで医師たちは「切断」以外の治療方法を模索していた。
1981年8月。
柴谷さんは「骨肉腫」を患っていた同世代の患者たちが手術で脚、腕を切断するのを目の当たりにし、もし自分の病気が骨肉腫だったらと思うと怖かった。
切断手術とは、その後の人生を障害者として生きてゆくことだと知っていたからだ。
だから脚を残すための人工関節手術に期待していた。
家族も叔父さんもこの手術にかけていた。
そしてオペ当日、人工関節手術は4時間かかり無事に終えた。
……しかし、問題が起こる。
切開した皮ふが2週間たってもふさがらないのだ。
医師たちはあらゆる手段を講じて皮ふをくっつけようとする。
くっつかなければこの手術は成功したことにならない。
まず、柴谷さんを酸素カプセルに入れた。
だが効果はみられない。
2週間後、「左足の甲から皮ふと血管を切り取り、左脚の患部に移植しましょう」と言われ、移植手術が9月に行われる。
しかし、それでも切開した個所はくっつかない。
長期間に及んだ放射線治療と抗がん剤治療の影響ではないかと考えられた。
切開した個所がふさがらず一日中つらい痛みが続く。
あまりにも痛くてたまらないからモルヒネを打つ。
しかし、モルヒネが切れると、また痛みが出てくる。だから柴谷さんは次のモルヒネをお願いする。
毎日モルヒネが打たれ「もっと打ってほしい」と要求するようになっていく。
すでに人工関節を入れた手術から1ヶ月弱すぎていた。
「もう一度、移植手術をやってみましょう。今度は右腰の皮ふと血管を取ります」
2度目の移植手術。わずか1ヵ月強の間に3回の手術が行われた。
脚を残すために柴谷さんと医師たちは全力でがんばっていた。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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