骨肉腫サバイバー 柴谷さんのがんに関するストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】柴谷健さん 骨肉腫 ステージ不明
- 第1話「17歳の少年。左足切断という重い決断。」
- 第2話「兵庫から千葉へ。始まった全身化学療法」
- 第3話「骨髄炎?テレビドラマの骨肉腫に似ている?」
- 第4話「半信半疑の骨肉腫。安心させてくれる叔父の言葉」
- 第5話「残酷な順番手術」
- 第6話「同世代患者の脚、腕切断。広がる怖さ。」
- 第7話「近づく体力と精神力の限界」
- 第8話「切断の決心とこぼれ落ちる涙」
- 第9話「始まったリハビリと抗がん剤全身科学療法」
- 第10話「兵庫から東京へ。転校、そして新しい生活へ」
- 第11話「はじめて知った病名」
- 第12話「玲子さんへの身体障害の告白。」
- 第13話「夢は東京パラリンピックでの競技実施へ」
- 【追想】
第3話「骨髄炎?テレビドラマの骨肉腫に似ている?」
1980年・秋から左脚のひざの下が痛くなり兵庫県の関西労災病院で腫れたひざ下の組織を試験切開された東京都品川区在住の柴谷健さん(52歳、1980年当時16歳)は、千葉の叔父さんの勧めで千葉大学医学部附属病院に移り入院する。病気は「骨髄炎(こつずいえん)」と伝えられていた。しかし受けた治療は抗がん剤全身化学療法だった。
1981年1月。
冬休みが終わり兵庫県の学校ではすでに授業が始まっていた。
しかし、柴谷さんは引き続き千葉大学医学部附属病院で抗がん剤治療を受けている。
この治療は最初の7日間「メソトレキセート」、その後2週間を回復期として休薬し、21日目から「アドリアマイシン」。その後再び休薬期間を設ける1カ月に及ぶ治療だった。
抗がん剤治療が終わり、2月に入ると放射線医学総合研究所に転院する。
当時、千葉県では千葉大学医学部付属病院、放射線医学総合研究所、千葉県立がんセンターの3医療施設が連携を取りあって治療を行っていた。
そして柴谷さんの叔父さんは、放射線医学総合研究所に勤務する医師だった。
この病院では週に5日間、1日30分程度サイクロトロン(=中性子)をひざの患部に当てる放射線治療が行われた。この治療を担当したのが柴谷さんの叔父さんだ。
叔父さんに「いつ兵庫の実家に戻れるの?」と聞くと、「夏には終わるよ」と言われ、そんなに長くかかるのかと落胆した。
このままでは高校2年生の時間の半分が病院で終わってしまう。
2月のある日、入院病棟の談話室で他の患者たちとテレビドラマを観ていた。
表題は、『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ我が子へ』
実話に基づくドキュメンタリーで主人公が「骨肉腫(こつにくしゅ)」を患い、妻のお腹の中にいる自分の子供を見ることなく他界するドラマだった。
他の患者が冗談半分で言う。
「柴谷君の病気、これじゃないの?」
確かに主人公が受けていた治療も出てくる症状もすべて似ていた。
その時、たまたま病棟に顔をだした叔父さんに「おじさん、僕、これなの?」と聞いてみた。
叔父さんの表情が急に恐い顔になり「ヤバい」という感じだった。
そして言う。
「大丈夫さぁー。大丈夫、大丈夫」
当時、5年生存率10%以下とも言われた「骨肉腫(こつにくしゅ)」。
柴谷さんの叔父さんは口癖のように「大丈夫さぁー」を繰り返していた。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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