骨肉腫サバイバー 柴谷さんのがんに関するストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】柴谷健さん 骨肉腫 ステージ不明
- 第1話「17歳の少年。左足切断という重い決断。」
- 第2話「兵庫から千葉へ。始まった全身化学療法」
- 第3話「骨髄炎?テレビドラマの骨肉腫に似ている?」
- 第4話「半信半疑の骨肉腫。安心させてくれる叔父の言葉」
- 第5話「残酷な順番手術」
- 第6話「同世代患者の脚、腕切断。広がる怖さ。」
- 第7話「近づく体力と精神力の限界」
- 第8話「切断の決心とこぼれ落ちる涙」
- 第9話「始まったリハビリと抗がん剤全身科学療法」
- 第10話「兵庫から東京へ。転校、そして新しい生活へ」
- 第11話「はじめて知った病名」
- 第12話「玲子さんへの身体障害の告白。」
- 第13話「夢は東京パラリンピックでの競技実施へ」
- 【追想】
第12話「玲子さんへの身体障害の告白。」
17歳のとき左脚のひざ下に骨肉腫が発症し切断手術を受けた東京都品川区在住の柴谷健さん(52歳、1981年当時17歳)は、その後東京電機大学工学部建築科に進学する。卒業後は都内でも有数の建築事務所に就職し10年間勤務した後、36歳の時に独立して事務所を構える。そして翌年玲子さんと出会う。
2001年
玲子さんと出会い、自分の歩き方が不自然な理由を聞かれた際に脚を怪我していると嘘をついた。
心配する玲子さんが怪我の具合はどうなのか?なぜこんなに長い期間治らないのか?と柴谷さんに毎回質問をした。
そして2人でドライブをしていたとき柴谷さんは、ついに明かす。
「僕はこれなんだよ!」
身体障害者手帳を玲子さんに見せた。
そこには「左大腿部(ひだりだいたいぶ)切断」と書かれていた。
「なんだ、それなら早く言えばいいのに。嘘をつくのはつらかったでしょう」と言われ、柴谷さんは意外な気持ちになる。
「障害者でもいいのかな…?」
これまで自分が障害者だということに意識過剰だったと感じた時だ。
そしてお付き合いを始めて3カ月、二人は結婚を決めた。
2002年11月の結婚披露宴では「二人三脚」というプロフィールを参列者たちに渡した。自分には左脚がないことを初めておおやけにすると会場のあちこちからざわめきが聞こえた。
それまでかたくなに隠し続けてきた事実だったが、もうそんなことしなくていいと思うと気持ちが楽になった。
それからは夏に半ズボンをはけるようになり、義足を脱いでプールにも入れるようになった。
柴谷さんの人生が奥様との結婚で大きく変わった。
2人は2003年から毎年冬にハワイ島に旅行している。
1年間仕事を頑張ったご褒美だ。
2008年のハワイ島旅行。
これが柴谷さんにとってもう一つの素晴らしい転機となる。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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