骨肉腫サバイバー 柴谷さんのがんに関するストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】柴谷健さん 骨肉腫 ステージ不明
- 第1話「17歳の少年。左足切断という重い決断。」
- 第2話「兵庫から千葉へ。始まった全身化学療法」
- 第3話「骨髄炎?テレビドラマの骨肉腫に似ている?」
- 第4話「半信半疑の骨肉腫。安心させてくれる叔父の言葉」
- 第5話「残酷な順番手術」
- 第6話「同世代患者の脚、腕切断。広がる怖さ。」
- 第7話「近づく体力と精神力の限界」
- 第8話「切断の決心とこぼれ落ちる涙」
- 第9話「始まったリハビリと抗がん剤全身科学療法」
- 第10話「兵庫から東京へ。転校、そして新しい生活へ」
- 第11話「はじめて知った病名」
- 第12話「玲子さんへの身体障害の告白。」
- 第13話「夢は東京パラリンピックでの競技実施へ」
- 【追想】
第11話「はじめて知った病名」
高校1年生の秋から左脚のひざの下が痛くなり千葉県の3つの病院で治療を受け、ついには左脚の切断手術を受けた東京都品川区在住の柴谷健さん(52歳、1982年当時18歳)は、その後千葉県立我孫子高校に転校し2年間浪人後、東京電機大学工学部建築科に進学する。
1986年4月
大学への入学手続きに健康診断書が必要となり、千葉県がんセンターに行って目の前で書いてもらった。
そしてそこに書かれている病名に目が釘付けになる。
診断名:骨肉腫
やはり「骨肉腫」だった。
結局左脚を切断してしまったので「骨髄炎」か「骨肉腫」かなんて振り返ることはしてこなかった。
しかし、こうして診断書にかかれた病名をみて納得する気持ちと改めて「がんだったんだ」という重い気持ちになる自分がいた。
まるで背負っている十字架が一層大きくなったかのように感じる。
在学中、大学の友人たちには自分に左脚がないことは隠しておいた。
4年後卒業すると都内でも有数の仕事に厳しいと言われる建築事務所に就職した。
そこで3年間過ごすと一人前の建築士になれると噂されるほどの会社だ。
柴谷さんは会社でも自分に左脚がないことを伏せておく。
身体障害者だとわかるのが嫌だった。
同情されるのはもっと嫌だ。
だから隠しておいた。
仕事を頑張った甲斐があり10年が経ち管理職に昇進していた。
しかしあくまで設計とデザインの実務に携わりたい柴谷さんは退職を考えだす。
会社の看板ではなく、自分の実力で仕事ができるようになりたかったのだ。
そして2000年、退職してフリーの建築士として独立した。36歳の時だった。
仕事に厳しい組織で10年間も頑張ったため、設計、デザインはもちろんのこと、現場監理(かんり)、積算までこなせるようになっていた。
そして翌2001年、銀座の中華レストランの設計プロジェクトをしている中で、店舗デザイナーをしている玲子さん(のちに奥様)と出会う。
この出会いが柴谷さんのその後の人生を大きく変えていく。
次のページを読む >> 第12話「玲子さんへの身体障害の告白。」この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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