骨肉腫サバイバー 柴谷さんのがんに関するストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】柴谷健さん 骨肉腫 ステージ不明
- 第1話「17歳の少年。左足切断という重い決断。」
- 第2話「兵庫から千葉へ。始まった全身化学療法」
- 第3話「骨髄炎?テレビドラマの骨肉腫に似ている?」
- 第4話「半信半疑の骨肉腫。安心させてくれる叔父の言葉」
- 第5話「残酷な順番手術」
- 第6話「同世代患者の脚、腕切断。広がる怖さ。」
- 第7話「近づく体力と精神力の限界」
- 第8話「切断の決心とこぼれ落ちる涙」
- 第9話「始まったリハビリと抗がん剤全身科学療法」
- 第10話「兵庫から東京へ。転校、そして新しい生活へ」
- 第11話「はじめて知った病名」
- 第12話「玲子さんへの身体障害の告白。」
- 第13話「夢は東京パラリンピックでの競技実施へ」
- 【追想】
第9話「始まったリハビリと抗がん剤全身科学療法」
単身で千葉県の3つの病院で治療を受けていた東京都品川区在住の柴谷健さん(52歳、1981年当時17歳)は、1981年10月に左足を切断する手術を受けた。しかし自分に左脚がないことを確認するのは恐くてできなかった。
1981年10月
左脚を失った柴谷さんは深く傷ついていた。
一方、手術の後、病院ではリハビリと抗がん剤全身化学療法が始まった。
千葉大学医学部附属病院のリハビリテーション部では千葉大学関連の看護を学ぶ学生たちが実習に来ていた。
失意の中にいた柴谷さんだったが看護学生たちと話していると病気以外の話題が多く、話していると一瞬でも明るい気持ちになれた。
年が明け1982年1月。
柴谷家に大きな転機が訪れる。
父親の仕事の転勤に伴い家族が兵庫県から東京に引っ越してきたのだ。
東京、千葉という地理的な状況を考えて父親は茨城県に一軒家を購入した。
間もなく始まる柴谷さんの退院後の生活のために、そして家族全員の拠点としてだ。
入院しての抗がん剤治療を1月いっぱいで終えた柴谷さんは2月からは毎月2回通院しての抗がん剤治療へと替わった。
結局、この1年間は一度も学校に通うことなく終わる。
だから留年してもう一度高校2年生をする予定だった。
退院を期に柴谷さんは母校の兵庫県立芦屋高校にお母さんと一緒にあいさつに行った。
千葉県の我孫子高校に転校するからだ。
つえを突きながら初めて会う担任の先生に転校することを伝えた。
先生は柴谷さんをクラスに連れていきみんなの前で紹介した。そして言う。
「柴谷君、ひとこと言ってください」
一緒に過ごした思い出のないクラスメートたちの前でシーンとした雰囲気のなか、何を言ったらよいのか思いつかず、結局なにも言えなかった。
柴谷さんが過ごしたすさまじい1年間をわかっているクラスメートはいない。
1982年4月。
柴谷さんは千葉県立我孫子高校に編入し、もう一度高校2年生となる。
こうして柴谷さんの長期間にわたる入院しての治療は終えた。
1年半前に兵庫県の病院で試験切開しそこからすべてが始まったのだが、当時、息子の病気について医師から説明を受けた両親は本人にがんの告知はしないと決めた。
母親は強い衝撃で動揺していたが、診断結果を聞いたあとに水を一気飲みし、できる限りの作り笑顔で柴谷さんのいる病室に向かったという。
息子に病気のことを心配させないようにする親心だった。
母親は病室を出て自宅に帰る電車の中で乗り合わせた元気な高校生たちを見て涙が止まらなかったという。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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