炎症性乳がん(浸潤性乳管がん)ステージ3B サバイバー 原田祐子さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】原田祐子さん 炎症性乳がん ステージ3 サバイバー
- 第1話「左胸の張り」
- 第2話「炎症性乳がん?」
- 第3話「がん告知。転移。手術不能。」
- 第4話「抗がん剤治療の開始」
- 第5話「抗がん剤の副作用」
- 第6話「転院のための病院探し」
- 第7話「抗がん剤治療終了と小さくなった腫瘍」
- 第8話「最後の治療を終えて」
第5話「抗がん剤の副作用」
2016年4月に豊田厚生病院を訪れ生検を受けた結果、炎症性左乳管がん(ステージ3b、リンパ節転移、浸潤性乳管がん)と言われた愛知県みよし市在住の原田祐子さん(51歳、2016年当時49歳)は、抗がん剤治療(ハーセプチン、パージェタ、タキソテール)を受けていた。
原田さんは、外来での抗がん剤治療が始まってから1週間のあいだに会社の仕事の引継ぎをした。
総務部長には、がんの事実を明かしたが、他の社員たちには持病の心臓弁膜症の治療のため会社を休むと説明した。
社員や取引先が不安になったり心配しないよう、そういうことにした。
「手術ができない」イコール「末期がん」と誤解されると困る。
がんの5年生存率は改善しているが、未だに「がん」=「死」のイメージを持つ人も多いと思ったからだ。
一方、抗がん剤の副作用が出てきた。
口内炎、鼻血、げり、関節の痛み、足の指のしびれ…
それぞれが徐々に出てきて悩ましかった。
そして2週間が経った頃から髪の毛が抜けだす。
風呂で洗髪していたら、髪の毛がバサバサ抜け落ちる。
それをみて…
“(私は)自分が、がん患者であることを受け入れざるを得ない”そんな気持ちになった。
自然と涙があふれ出て、お風呂の中でずっと泣いていた。
抗がん剤(ハーセプチン、パージェタ、タキソテール)治療は、第1クールが5月29日に終了。
間髪入れず、翌日に第2クールの抗がん剤が投与された。
それから1週間後、急に発熱する。
確か39℃近くあったはずだ。
フラフラになり、娘の運転する車で病院に向かった。
白血球の数値が落ちていて身体の抵抗力が弱まっていた。
皮下注射「ジーラスタ」を打ってもらい、取り敢えず帰宅。
抗がん剤の副作用の怖さを知った。
このころだ…、
原田さんは転院のための病院探しを始めた。
なぜなら豊田厚生病院には、(当時)外科はあるが担当していた女性医師は内科医で乳腺外科医ではない。
将来、外科手術を行えるようになった場合は、乳腺専門の外科ではなく、一般外科で受けることになると説明を受けていたので、事前に転院先を探していた。
7月7日、名古屋市立大学病院を訪れた。
次のページを読む >> 第6話「転院のための病院探し」この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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