【インタビュー】大月絢美さん 乳がん ステージ3 サバイバー

乳がん(トリプルネガティブ)ステージ3 サバイバー 大月絢美さんのインタビューです。

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目次

基本情報

名前: 大月絢美さん >>5yearsプロフィール
年代: 30代、女性
病名: 乳がん(トリプルネガティブ)
病理: Rt.Breast, Bt+SNB: Invasive ductal carcinoma, see comments.
6.3×3.9cm, s, Ly(-), v(-), NG3, pN0(0/1).
ER(-)(AS:PS0+IS0=TSS0), PgR(-)(AS:PS0+IS0=TSS0), HER2 score0, Ki-67 80-90%

進行: ステージ3C
発症年月: 2015年12月
発生時年齢:33歳
受けた治療: 術前抗がん剤(ドセタキセル+FEC)→右乳房切除術+センチネルチンパ節生検→放射線治療(33回)→ゼローダ(経口抗がん剤)半年服用
    
治療期間: 2016年1月~2017年5月
合併症:なし
職業: 歌手
生命保険会社:明治安田生命保険

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お母さまと絢美さんは、乳がんを発病する以前、がん検診とか健康診断を受けていらっしゃいましたか?

ふたりとも、当時勤めていた会社の健康診断のみです。
絢美は、2年に一度、区で行われる子宮頸がん検診は受けていました。

2015年7月お風呂上がりの時、右胸にしこりをみつけます。それまで、ご自分で入浴中に触診し確認するようなことはされていましたか?

気づいたときに行う程度でしたが、していました。

当時、しこりを見つけた時の心境を教えてください。

「まさか私が乳がんな訳がない、きっと何か別のもののはずだ」という気持ちでした。

その後、お母さまが通われたクリニックで診てもらいますが、画像検査の後、医師は何を根拠に「良性」と判断したのでしょうか?

しこり部分に、血液が流れていっていなかった点を指摘し、「これが悪性(=がん)だったら、しこりの中に血液が流れていくはず」と説明し、良性と診断されました。

2015年秋、胸のしこりが急に大きくなったと伺いました。この時の心境を教えてください。

いよいよやばいな、という気持ちと、それでもまだ「良性」という診断を信じていたので、別の何か(葉状繊維腺腫など)と思っていました。

腫瘍が大きくなったあと受診したのは、例のクリニックではなく、昭和大学病院でした。なぜ、病院を移られたのでしょうか?

母がそのクリニックに通っていたにも関わらず、転移がわからなかったことについて、信用できないと判断し、大学病院で信頼できるのではないか、という思いと、自宅から近いという利便性も加味して移りました。

12月2日、昭和大学病院・乳腺外科を受診し、いろんな検査が行われます。絢美さんは、この時点で乳がんと想像されていましたか?医師は何と言っていましたか?

「恐らく乳がんだと思うんだけど・・・」という医師の言葉で、ある程度想像(というより覚悟)をしていました。

【4点ほど、お母さまの乳がんに関してご質問させてください】

2011年お母さまは大学病院で診察され、手術となりますが、その後、絢美さんと手術しない治療を探されます。この時、大学病院との間で何があり、どういう背景で、自由診療に興味を持たれていったのでしょうか?

大学病院を紹介され、担当医の診察室に入るやいなや、「じゃあ手術はいつにしましょうか」という言葉が発されました。当時は、突然の言葉に驚き、それだけで聴く耳を持たなくなってしまった(=不信感)と考えます。実際に乳がんの標準治療やそれ以外の治療を比較したり、リスクについて勉強する気持ちも起こらず、ただただ「切りたくない」一心だったことを覚えています。

2013年、お母さまの乳がんの転移・再発が確認された時、クリニックから抗がん剤治療など他の治療法について説明はあったのでしょうか?

すみません、母ひとりで診察に行っていたもので、把握していません。
ただ、リンパ節への転移が認められ局所麻酔での切除を行った後、ホルモン剤を出されたことは確かです。

お母さまの体調が悪化して、12月4日に初診で目黒病院に一緒に行かれます。なぜ、昭和大学病院でもなく、例のクリニックでもなく、目黒病院にされたのでしょうか?

ヴォイス・トレーナーズ・アカデミー(R)の学長(大本先生)が目黒病院の院長をご存知で、そのご紹介でした。私も、院長夫人をアカデミー経由で存じていました。

12月6日、医師から「マズイ状態にあります」と言われた時の状況を教えてください。そもそも、この日に検査結果を知らされることになっていたのでしょうか?

12/4の検査結果の時点で、転移していると知らされ、母に伝えました。その日からすぐ入院し精密検査は翌日以降となり、翌日にかけて検査、わかり次第結果報告という、一刻を争うような緊迫した状況でした。この日に知らされることになっていたかどうかは、記憶がおぼろげです。とにかくわかり次第、という雰囲気でした。

【ここから、再び、絢美さんのことについてご質問させてください】

ご自分の検査結果の報告を待っている間、お母さまの検査結果を知らされ、どのようなお気持ちになりましたか?

自分自身のことはどうでもよくなっていました。私のことよりも、とにかく母の生命のことだけを考えていました。でも、まさか半年後に看取ることになるなんて、思いもよりませんでした。
根治は出来ないのはわかっていましたが、なにか絶対生き延びる手立てがあるはずだと思っていました。

圭介さんから「でも、覚悟はしておいた方がいいよ」と言われた時の心境を教えてください。

上記のような気持ちでしたから、「そんなことない!」という反発したい気持ちと、一方で、こうして冷静さを保ったままきちんと寄り添ってくれる存在の有難みを感じていました。

12月15日、主治医から「乳がん、トリプルネガティブ」、もし、転移が見つかった場合は、長期間の抗がん剤治療と説明を受けた時、どのようなお気持ちでしたか?

どうか転移していませんように、と、とにかく祈る気持ちでした。主人は勿論、母からも「大丈夫だよ」と励まされたことで、必要以上にネガティブになって周りを心配させてはいけない、と強い気持ちを持たなければ、と思っていました。

さらに詳しい検査を受けて、他臓器への転移なしとわかります。この時、どのように感じられましたか?

本当にほっとしました。これ以外の言葉がみつかりません。

ご自身の乳がんについて、いつ、ご両親に明かされたのでしょうか?

告知された当日に、母には直接、父には電話かLINEで伝えました。

お母さまの治療、そして絢美さんの乳がん診断と、つらいことが重なりますが、その時、圭介さんはどのように支えてくれましたか?

シリアスになり過ぎず、感情的になり過ぎず、かといって無理した明るさもなく、ごく普通に接してくれました。もちろんその根底には、ものすごい不安があったかと思いますが、その不安を一切見せない強さが、当時の私には本当にありがたかったです。
些細なことで笑うように心がけていました。

ご自分から「本当に私なんかと結婚していいの?」と聞かれた時の心境を教えてください。

主人も最愛の父を亡くして間もなかったこともあり、これ以上人生において負担となるようなことを一緒に抱え込ませるのは申し訳ない、という気持ちでした。
ある意味、この問いで、双方の覚悟を確認したかったのかもしれません。

抗がん剤治療(ドセタキセル)は、いかがでしたか?

一般的に副作用の代表のように言われる吐き気がなかったので、あ、こんなもんか、という感じでした。ただ、次第にむくみや手足のこわばりが出て、体力も落ち、人ごみに出るのが不安になっていきました。
もちろん脱毛については、わかってはいたもののショックは大きかったです。ただ、これも慣れるもので、抜け切ると楽でした。

絢美さんとお母さまが抗がん剤治療中、お父様はどのような状況だったのでしょうか?

基本的な日常生活はひとりでなんとかこなせるので、ヘルパーさんや知人に来てもらいながら、頑張ってもらっていました。会いにいけない分、電話やLIINEで母や私とやり取りを欠かさないようにしていました。時折、車椅子で母の見舞いに連れて行った記憶もあります。

ドセタキセルの副作用で、髪の毛が抜けた時のお気持ちを教えてください。

上記の通り、覚悟はしていたものの、ショックが大きかったです。ただ、治療が終われば生えてくるもの、という割り切り(後で調べてみると必ずしも元に戻るわけではなかったのですが)が出来たので、抜けきってからは、ウィッグや帽子、ターバンなどいかにおしゃれに見えるかを楽しむ余裕が出てきました。

化学療法中に、ウィッグをかぶって予定されていたライブをこなします。体調的にはきつかったですか?精神的には良かったですか?

体調面でいうと、多少体力の低下は感じていましたが、食欲もあり、なんとかこなせる範囲でした。ただ、現場(共演者など)数人には現状を伝え、万が一のときに備えていました。
精神的には、ステージに立ち唄っている時間は、「がんである」「死ぬのかもしれない」というネガティブな感情を忘れられるという点で、良かったのだと思います。

抗がん剤(FEC)治療はいかがでしたか?

ドセタキセルと比較しても辛かったです。赤い液体なのですが、あの色、におい、思い出すだけで未だに吐き気をもよおすことがあるくらい強烈です。
それでも、回数をかさねるごとに寝込んでいる期間が短くなっていくことで、肉体の強さを感じたりもしました。

抗がん剤治療中の生活について教えてください。

それまでの日々がとにかく忙しいものでしたので、ひたすら怠けることにしました。とは言え、前半は母の看病もあり、わりと動いていた方だったかと思います。それ以外の日常も、家事をしたり友達と会ったり本を読んだり映画を観たりと、スローペースでしたが、なるべく好きなことをするように(=がんのことを考えすぎないように)心がけていました。
料理の味付けは、味覚障害が出ていたので、主人に任せていたことを覚えています。

両家のご家族4人で結婚前の昼食会をした頃、お母さまは一時退院されています。快方に向かっていたのでしょうか?それとも、次の治療までの一時退院だったのでしょうか?

3月の時点では、抗がん剤の効果が見られ、転移していた肝臓も割りとよくなっていました。食欲も戻りつつあったので、退院し、それ以降は通院で抗がん剤治療をしよう、という方針でした。つまり、この時点では「一旦は快方に向かっていた」といえると思います。

2016年4月23日、病院からお母さまの意識が戻らないと連絡を受けた時、どのような想いが込み上げてきましたか?

すみません、改めて整理して説明します。
4/22の夜、ライブが終わった後に、病院(担当医)から連絡があり、脳に転移が見られ意識が朦朧とし始めている、一度詳しく説明したいので、近いうちに病院にこれるか、という内容でした。翌日もライブがあり病院に行けない予定でしたので、次会える日までどうか持ちこたえて欲しい、と思いましたが、ものすごい衝撃で、それ以外に何を考えたかあまり記憶にありません。

5月9日、病院で車椅子に乗った女性から声をかけられ、母親からのメッセージと受け取られます。状況とやり取りを、詳しく教えて頂けますか?

5月8日の午後のことです。
母の血圧が下がり始め、今夜がヤマかもしれない、という説明を受けた後。一度帰宅しようと、主人と準備をしていると、入院患者なのでしょう、顔色のよくない女の子とそのお母さんらしき人から声を掛けられました。ずっと、私と話したかったがなかなかタイミングが合わなかったけどようやく声を掛けられた、とのこと。
女の子の第一声は「お姉さん、なんでそんなに元気なの?」でした。母の看病で毎日入院病棟にいた私を、入院患者と思っていたようでした。これから抗がん剤治療を控えているその女の子は、その年頃ならではの質問を、矢継ぎ早に私に投げかけてきました。
眉毛のこと、まつげのこと、髪の毛が抜けたあと、今かぶっている帽子可愛いね、など。
それにひとつひとつ答えていき、最後にLINEを交換しました。女の子には、少しの笑顔があり、私は嬉しく思いました。付き添っていたお母さん、そしてその後たまたま廊下ですれ違った彼女のお父さんから、「ありがとうございました、家族みんな勇気をもらいました」と言って頂いたときの感動と衝撃。それこそが、「私がただ元気でいることが、誰かの役に立てる」という気づきの始まりであり、この世を旅立っていく母からの、最期のメッセージであると確信しました。

つらい抗がん剤治療にも拘わらず、なかなか腫瘍が小さくなりません。どのような心境で治療を続けていましたか?

小さくなればもうけもの、小さくならなくても大きくなるよりはかなりまし、という心境でした。

区役所に結婚届を出したことで、より強い気持ちになられたと伺いました。当時の心境を教えてください。

それまでわりと自信を持って生きてきた私が、病気になったことで、前述のとおり「本当に私がパートナーでいいの?」「あなたより早く死んでしまうかもしれない」という弱気な部分が出てきていました。それを一蹴してくれた主人と正式に夫婦になったことで、これまで私を産んでくれた母をはじめ、家族に守られていた状態から、今度は自立をして、主人と二人三脚で歩んでいく、という実感を得ると共に、この人であればどんな困難も乗り越えられそう、という、とても頼もしく、こぶしを握り締めるような強い気持ちになったことを覚えています。

カナダとアメリカへのハネムーンはいかがでしたか?なぜ、この時期に行かれたのでしょうか?

まずはじめに、主人が選手として参加している「ローラーダービー」というアマチュアスポーツのワールドカップの開催(カナダ・カルガリー)が、ちょうど抗がん剤治療終了時(2016年7月)と重なっていたため、これはチャンスだと思い、一緒に行くことを決めました。せっかくなので、新婚旅行も兼ねよう、という事で、カルガリーから南下したロサンゼルス~ラスベガス~グランドキャニオン付近を回ることにしました。
実際、胸の痛みがあったりと、体力的にしんどい部分はありましたが、とってもいいタイミングであったように思います。

手術入院の前に胸を失うことで辛いお気持ちが出てきます。この時、どのようなことを考えていらしたのでしょうか?

単純に、これまでの身体ではなくなってしまうことに対する喪失感や恐怖感、だったように思います。

手術後、「新生Ayami(さん)の誕生だ」と思われるまでに気持ちが前向きになります。なぜ、そのように気持ちの転換が出来たのでしょうか?

一番大きな要因は、主人の存在です。
努めて平常心でいてくれたこと、病気になったことが今後の人生にどう活かせるかを一緒になって考えてくれたことは、ややもすると落ち込みそうになる私を最善の方法で救ってくれました。
また、不安材料であったそれまでの痛みと、命を奪いかねない「がん」の大きなかたまりが身体から取り除かれたことは、実際には喪失感よりも爽快感を与えてくれました。
「心身ともにいい方向へ向かっている」という信念や、周りの方々の支えやお気持ちもあって、自然と気持ちを転換することが出来ました。

放射線治療はいかがでしたか?放射線治療中の生活について教えてください。

がんになってからというもの、仕事をお休みし、ぐうたらな生活をおくっていたので、規則正しい生活に戻すための非常にいいリハビリになりました(笑)。
この時期は、当時夫と暮らしていた笹塚からではなく、西小山にある実家で過ごしていました。平日は毎朝9時には実家を出て、自転車で病院に向かいます。実家から病院は、10分もしない距離にあるので、その点はとても楽でした。抗がん剤治療で落ちていた体力も戻りつつあったので、短い時間ですが、自転車通院はいい運動にもなりました。
放射線治療を始めて少し経つと、照射している部分の皮膚が赤くなり、次第にただれてきました。じゅくじゅくとし、痛痒い感じです。服が直接肌に触れると、はりついてしまい取るのが大変です。なので、毎日お風呂で肌着ごと身体をぬらし、ふやかしてから脱ぐようにしていました。
とにかく肌をよく乾かすことが大切と聞いていたので、なるべくそれに忠実に過ごしていました。また、皮膚の再生の助けになるかと考え、それまでもずっと摂取していた大豆プロテインも欠かさず続けていました。
すると、治療も後半に差し掛かったある日、放射線科の看護師さんから、「大月さんの皮膚、回復がとても早いですね。何かコツなどあったらぜひ教えてください」と声を掛けられました。上記の2点(よく乾かす(ブラジャー類は着けない)、たんぱく質の摂取を心がける)をお伝えしたのですが、なんだか褒められているようで、嬉しかったことをよく覚えています。治療後もしばらく赤みは残っていたり、乾燥が見られたりしました。今現在(2018/02)も、日焼け後のように色素沈着はありますが、当時に比べると格段によくなっています。

経口の抗がん薬(ゼローダ)の治療を半年行います。体調と生活はいかがでしたか?

体調は、抗がん剤治療前にほぼ戻っていました。ゼローダ(一般名:カペシタビン)の副作用としては、手足症候群(手や足がひりひり・ちくちくする、赤くはれる、痛む)、下痢、骨髄抑制などがありますが、私の場合は手足症候群のみでした。指や足のかかとが荒れてしまいましたが、皮膚科で処方してもらった塗り薬で対処できる程度でした。
なので、生活に支障を来すこともなく、普段どおり過ごすことが出来ました。

歌ったら泣いてしまうかもしれない状況から、夫の実家の喫茶店でライブを開催できるまでになります。どのようにして乗り越え、そこまで回復できたのでしょうか?

特になにかをした訳ではなく、無理に唄おうとせずに過ごした「時間」が解決してくれたように思います。
もちろん、今も母を想いながら唄うと涙がこみ上げてくることはありますが、昨年(2017年)一年間で多くのがんサバイバーの方に向けて唄う機会を頂いたことが、更に私の力になったと感じています。

お母さまからのメッセージとお母さまとの約束。改めて教えて頂けますか。

母が旅立つ直前に遺してくれた、「私がただ元気でいることが、誰かの役に立てる」という気づき、「絢美には、まだまだやることがある。絢美にしか出来ないことがある」という、最期のメッセージであると確信しました。
それが、BEC(乳がん体験者コーディネーター)の資格取得のきっかけになり、また、それまで母と二人三脚で、そして多くの方々に応援してもらっていた「歌を唄う」という活動の意義を改めて確立させてくれたように思っています。
自身が元気でいられる限りその活動を続けていくことが、亡母との約束だと感じています。

親子で、同時期に乳がんを経験され、今、振り返り感じることを教えてください。

よく、一卵性母娘と呼ばれていた私たちは、同時に乳がんを体験したことを、「ここまで似なくてもいいのにね」と言っていました。
ただ、治療に臨む姿勢は、ふたり違っていました。もし母が先に経験していなかったら、私は標準治療を選んでいたかわかりません。そういう意味では、母はあらゆることを背中で教えてくれていたんだな、と感じています。

当時、ご主人がしてくれたことで感謝していることは何ですか?

前述の通り、努めて平常心でいてくれたこと、病気になったことが今後の人生にどう活かせるかを一緒になって考えてくれたことです。
また、日常生活では、私が吐き気で寝込んでいた頃には、回復食としてお味噌汁をはじめ食べられそうな食事を用意してくれたり、家事全般をこなしてくれたことはとてもありがたかったです。

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】

  1. 新しい人生観、死への理解
  2. これまでと違う視野(多少広くなった、かな?)
  3. 沢山のがんサバイバーの方々との出逢い

【失ったもの】

  1. 右胸
  2. 健康への過信

大切にしている言葉

瞬間瞬間は臨終である

現在治療中の方々に伝えたいこと

ご家族をはじめ、多くの方に囲まれて、きっと最善の治療法を選択されたことと思います。どうか、そのご自身の道を信じ、周りを信じ、頑張りすぎることなく日々を過ごしていって欲しいと思います。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

私自身がん患者でもあり、がん患者の家族(遺族)でもあります。家族とはいえ、がんになった辛さは本人にしかわからない部分が多くあります。私も、家族として母の罹患を経験した時と、いざ自分自身が罹患した時では、大きな差がありました。
とはいえ、がん患者本人は、家族の支えを必要としています。それは決して特別なことではなく、いかにさりげなく、一緒に日常を過ごしていけるかという事だと思います。いつもより少しだけやさしいまなざしで、寄り添って差し上げてください。傍にいてくれることが(時にはひとりにしてあげることも)一番の心の支えになると思います。

絢美さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。

○今やっていること

  • BECの有資格者として、仲間と共にピアサポート活動(乳がん患者さんを対象に「おしゃべりサロン」を開催/月1回)
  • BECとして、ヴォイス・トレーナー(R)として、乳がん患者さんを対象に「Smile&Chorus」という歌の会を主催
  • BECとして、歌手として、がんサバイバーの方々が集う会でのライブ活動
  • BECとして、がんサバイバーとして、がん体験についての講演

○今後やりたいこと

  • ライブ活動や講演の拡大
  • BECという資格に関連したビジネスモデルの模索
  • 楽曲制作、CDリリース

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  1. がんになった原因を探そうとすること、過去を振り返り反省すること
  2. 無理(食生活・日常生活を頑張り過ぎない、自分自身で勝手な制約を設けない)
  3. 病気や治療について何も調べず、誰かの言うがままにすること

がん患者がするべきこと(3つ)

  1. 前を向く
  2. 自分が納得できる治療法を探す、選択する
  3. 覚悟を決める

周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉

  1. 勇気をもらいました
    (闘病中の方のご家族から、またブレストセンター長からと色々な機会に頂いた言葉)
  2. 病気ってことを忘れてしまうね
  3. なんでそんなに元気なの?

周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉

  1. 食生活や日常生活に、がんになるような原因があったのでは?というような発言

復職する際に大切なこと

  1. 自分自身への理解(体調面、精神面)
  2. 上記を周囲に伝える勇気と、必要以上に心配させない心がけ(見た目も含む)
  3. 周囲(家族、会社)の理解

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取材:大久保淳一

この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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