【ストーリー】松下裕子さん 乳がん ステージ2 サバイバー

乳がん ステージ2B(トリプルネガティブ) サバイバー 松下裕子さんのストーリーです。

このストーリーの目次

  1. 【ストーリー】松下裕子さん 乳がん ステージ2 サバイバー
  2. 第1話「体調の異変」
  3. 第2話「手術とその後の生活」
  4. 第3話「右胸のしこり」
  5. 第4話「乳がん ステージ2B トリプルネガティブ」
  6. 第5話「抗がん剤治療の開始」
  7. 第6話「抗がん剤(FEC)の副作用と効果」
  8. 第7話「抗がん剤(パクリタキセル)治療」
  9. 第8話「乳房温存型の部分摘出手術」
  10. 第9話「治療の終了とがん再発への不安」
  11. 第10話「明るい光のさすほうへ」

第10話「明るい光のさすほうへ」

国際医療福祉大学熱海病院で乳がん(ステージ2B、トリプルネガティブ)と診断され、その後、抗がん剤(FEC)治療を4クール、次に抗がん剤(パクリタキセル)治療を12クール、そして乳房温存型の部分摘出手術を受けた神奈川県足柄郡在住の松下裕子さん(50歳、2011年当時44歳)は、放射線治療を小田原市立病院で受け、経過観察となった。

自分の本が出版されて書店に並べられる。
「本当ですか…」まるで夢のようで、すごく幸せに感じた。

2012年11月15日、250冊が出版され全国の書店に並んだ。
費用170万円は、夫が保険金の中から工面してくれた。
海老名駅の駅ビルにある書店に行くと自分の本が置いてある。

『明るい光のさすほうへ 乳ガンが教えてくれたこと』(文芸社)

暫くすると、友人が「この本屋さんにもあったよ!」と知らせてくれる。
この出版を契機に湯河原町での講演会、FM熱海でのラジオ番組出演と活躍の場が広がる。

そんな嬉しいことがある一方で、スーパーへの復職には苦労していた。
治療開始前に店長から信じられないことを言われ治療を受けながら働くことは叶わなかった。
いま、がん治療を終えたので復帰したいと本社の人事部長に伝えるが、何とものらりくらりの対応。
まるで、このまま退職となってほしいかのような雰囲気だった。

いろいと苦労していると、休職に入るとき相談した労働局の男性職員の計らいで団体交渉が力を貸してくれる。
「私は、(がんになったけど)何も悪いことをしていないんだから、辞めさせられる理由はない」
その事実を全面に出す。

何よりもこの仕事が好きだ。
いろんな人と組織を巻き込み交渉すること2年半、ついに復職が実現する。

当時の店長は既に退職していて副店長がその役についていた。
最初は、週に2日、1日2時間だけの勤務。
それから、1日3時間、4時間…と増えていった。

「ようやく、ここに戻れた…、嬉しい…」

感無量で表現し難い幸せを感じる。
また、制服を着て仕事ができるという社会に戻れた歓び。
人生の再スタートを切った実感があった。

一方の私生活はというと、本の出版を契機にブログを始めた。
書くことが好きになり、その後も書き続けていた。

すると…、ブログを通じて、全国に知り合いが増えていく。
共通の話題は、病気のこと、愛犬のこと、就労のこと。
時には、ブログ読者の人と食事に行ったり、コンサートに行ったり、さらに旅行へも行く。

生活そのものが、がん発病前よりも充実してくるのだ。

病気で失ったものもあるし、つらいこともあった。
でも今、明らかに得たものの方が大きく、そして多くなり、自分の財産となっている。

今日も制服を着て元気いっぱいスーパーで働いている松下さんだ。

>>松下裕子さんの「インタビュー」はこちら

>>松下裕子さんの「がん経済」はこちら

取材:大久保淳一

この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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