急性骨髄性白血病 サバイバー 高松珠代さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】高松珠代さん 急性骨髄性白血病 サバイバー
- 第1話「忙しい毎日」
- 第2話「夜になると出る微熱」
- 第3話「眉間の奥のしびれ」
- 第4話「悪化する体調」
- 第5話「急性骨髄性白血病の告知」
- 第6話「抗生剤と抗がん剤治療」
- 第7話「寛解を告げられて」
- 第8話「地固め療法」
- 第9話「骨髄の提供者」
- 第10話「息子からの骨髄移植(造血幹細胞移植)」
- 第11話「合併症~退院へ」
- 第12話「新たな人生の4年目を迎えて」
第11話「合併症~退院へ」
急性骨髄性白血病の寛解導入療法(DIVR(ダウノルビシン)とAra-C(キロサイド))、寛解後療法(地固め療法、1回目(ノバントロン、キロサイド)、2回目(ダウノマイシン、キロサイド))2コースを受けた神奈川県逗子市在住の高松珠代さん(54歳、2013年当時51歳)は、息子の骨髄を移植する造血幹細胞移植を受けていた。
真っ赤な血液(骨髄液)が入ったパックからチューブを経て、身体に骨髄液が入っていく。
パックが一つ終了し、2つ目に入った時だった。
なんと、長男が点滴棒を押して無菌室に入ってきた。
骨髄液を抜き取った後、別の部屋で安静にしていたが、母親に自分が元気なところを見せたくて顔を出したという。
高松さんはフラフラと椅子に座り込む息子をみて胸を熱くする。
本当にありがとう…、その言葉を心の中で繰り返した。
この日、造血幹細胞移植は無事に終了した。
予想した通り、目立った拒絶反応は起こらなかった。
血縁のない他人の骨髄液を移植する場合、生着不全という合併症が起こともあるという。
しかし、高松さんの場合、母子間だったことが幸いしたのか、目立った拒否反応は現れなかった。
こんな、感動的なことがあるのか、家族全員でそう安堵した。
ただ、6月に入ると肺水腫が発症する。
骨髄移植後の生着不全というより、移植治療の前処置の段階で起こった合併症と思われた。
これが思いのほか重篤化し集中治療室(ICU)に2週間も入院することになる。
その頃、耳に水が溜まり、音が聞こえ難くなっていた。
食事をとることも出来なくなり、身体は弱りに弱る。意識を失ったことも数回あった。
「せっかく、息子に命を助けてもらったのに…」
そんな想いで、目の前の治療と、厳しい毎日を乗り越えていた。
骨髄移植のための入院から、2ヵ月半が過ぎた。
一時は、死すら覚悟した合併症も何とか乗り切り、8月9日に退院できた。
2014年・夏。
高松さんは自宅に戻っていた。
肺水腫の治療期間に体力も筋力もすべて失ってしまい、ヨロヨロの体調だった。
ただ、徐々にだが、人生のどん底からゆっくりと這い上がっている感じがして、嬉しかった。
一度は、ちぎれてしまった社会との繋がりが、再びくっつき始めてしている感じがした。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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