【インタビュー】竹條うてなさん 乳がん ステージ2 サバイバー

乳がん ステージ2 サバイバー 竹條うてなさんのインタビューです。

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目次

基本情報

名前: 竹條うてなさん >>5yearsプロフィール
年代: 30代、女性
病名: 乳がん
病理: 浸潤性乳管がん、グレード2、ER(-)、PgR(-)、HER2(3+)、壊死型石灰化(+)
進行: ステージ2a
発症年月: 2012年9月
発生時年齢: 25歳
受けた治療: 乳房切除術、腋窩リンパ節郭清術、抗がん剤治療:EC療法([エピルビシン、シクロホスファミド]、Weekly PTX療法(パクリタキセル)、分子標的薬治療:ハーセプチン
治療期間: 2012年10月~2014年1月
職業:   看護師
生命保険会社:かんぽ生命保険

2012年9月、自宅の脱衣所で左胸にしこりを見つけます。1年以上自分で触診して、前月もフィッティングルームで確認して、しこりは無かったと伺いました。いま振り返りどのように感じられていますか?わずか2~3週間で2cmまで大きかったのでしょうか、それとも見落としたと思われていますか?

毎月自己検診をしていましたが、やはり心のどこかで20代の自分は乳がんなんてならないと思っていた。だから触診方法が甘かったため、その時は見つけることができなかったのではないかと思います。“ただ触る”という行為だけで、きちんと“自己検診をしているんだ”という意識を持って行わないと、ただ毎月胸を触っていても意味のないことなのだと痛感しました。

自分で胸のしこりを見つけた時「両親に申し訳ない気持ち」になったと伺いました。当時のお気持ちを詳しく教えて頂けますか?

もしかすると両親より早く死んでしまうかもしれない。病状が急激に進行・遠隔転移した場合、私は働くこともできなくなるので、高額な治療費の支払いも、私の介護も両親がしなければいけなくなるかもしれない。そう思うと、なんて申し訳ないことになってしまったのだと最初に感じました。

9月6日に外科(消化器外科医)に診てもらいます。このとき医師は何と言っていましたか?

どうやら胸の表面上に“できもの”ができたくらいの緊急性だと思っていたようで、詳しく症状を説明すると明らかにびっくりした表情を浮かべて
「僕は乳腺に関しては専門外だから、明日の先生の予約を取ってあげるから、明日もう一回受診してください。もし、先生が忙しくて飛び込みの診察が診られないようであれば、僕が責任をもって診るから」と言ってくれました。
とっても心強かったです。その後も、その先生は病棟で私を見かけては声をかけてくれて、今は転勤をして他の病院にいますが、5年ぶりにセミナーで再会した際には覚えていてくれて声をかけてくれました。

翌日(9月7日)に乳腺外科医に診てもらい針生検を受けます。この時のお気持ちを教えてください。

乳腺外科の受診、ましてや胸に針を刺すような検査も初めてだったので、とっても緊張していました。自分が思っている以上に頭の中は混乱しており、何も考えることができなかったので、ただただ処置台の上にあおむけに寝て天井を眺めていました。でも、その中で、これからの自分の人生が180度変わってしまいそうな予感がしました。

それからマンモグラフィー検査を受けました。よく知っている男性の放射線技師に撮影されますが、撮影したあと彼は何と言っていましたか?

まさに「掛ける言葉が無い」とは、こういうことなんだろうなと、放射線技師さんの表情を見て感じました。撮影する前は会話を交わしましたが、撮影が終わって帰る時は言葉を交わしませんでした。

検査の結果、医師から悪性の可能性が高いと言われ、実質的ながんの告知となります。そして処置室で待っている間、どのようなことを考えていたのでしょうか?

呆然としていました。でも「泣いたらあかん!!」と自分に言い聞かせて、必死に心細さや恐怖、悲しさを堪えていました。そして自分にこれからどんなこと(治療や検査)が起こるんだろうかと考えていました。

母親から「代われるもんなら(私が)代わってあげたいよ」と言われた時のお気持ちを教えてください。

母親にこんなことを言わせてしまうことが悲しくて、自分が情けなくて。

自分が勤務している病院ではなく、他の病院で診察・治療を受けたいとは考えませんでしたか?それはなぜですか?

私の勤務する病院は徳島県内でも乳がんの手術件数が多い施設です。また、私自身も看護学生、新人看護師の頃から乳がん診療に携わっていることもあり、医師、一緒にケアをしている病棟スタッフをとても信頼していました。術前術後の患者さんに寄り添い、時に一緒に悲しんだり喜んだり。これから長く続く治療ですので、自分自身が信頼できる環境で治療を受けることが1番安心だと思い自分の勤務する病院を選びました。

乳がんの事実を知り、お兄さま、妹さんは竹條さんにどのように声を掛けられましたか?

兄は「経済的なことならなんでも協力するけんな」と言ってくれました。でも幸い治療費は自分で捻出することができました。兄は兵庫県の病院まで検査の送迎をしてくれたり、治療中引きこもっている私を、地元の人がいない、お隣の香川県まで遊びに連れ出してくれたりしました。
妹は結婚して県外おり妊娠している身でありましたので、告知後すぐに会うことはありませんでした。でも徳島に帰ってきたときは特に言葉はありませんでしたが、手術までの不安な時期に一緒にお出かけしてくれたり、抗がん剤治療前には一緒に美容室へ行ってくれたり、マタニティフォトも撮影しました。

まだ検査が続いている間も看護師としてお仕事をされています。フロアに乳がんの患者さんはいましたか?乳がんの患者さんに対しどのようなお気持ちで看護されていたのでしょうか?

毎週乳がんの手術が行われていたので、乳がんの患者さんがいらっしゃいました。暗い顔をしていると患者さんも一緒に勤務しているスタッフも不安になってしまうので、逆に明るく振舞うようにしていました。「来月の今頃は私も…」「来週の今頃は私も…」と、術後の患者さんを担当するたびに、次は自分の番だ!!と思っていました。術後の患者さんの姿を見て、私も頑張ろうと思いました。

がんが遠隔転移しているのではないかと不安に感じられていました。当時、どのようにして情報を集めていましたか?

遠隔転移に対する恐怖と不安が多すぎて、自分では転移治療のことに関しては全く情報収集することができませんでした。きっと調べたその先には生存率などの、自分にとって恐れている情報が記載されていると思ったので見たくありませんでした。むしろ、遠隔転移があった場合は治療よりも自殺することを考えていたので、調べる必要もないと当時は思っていました。

ご自身で左胸の全摘手術を希望されました。事前にご両親とかお友達に相談したりしましたか?

私は治療に関しては誰にも相談せず、自分で全て決めました。両親にも「私、全部とるけんな!!」と捨て台詞のように突然言い放ったくらいです。両親も私が決めたことなので、反対はせず、私の決定を尊重してくれました。ですので、治療方針で悩むことは全くありませんでした。友人には誰一人として乳がんになったことも伝えていませんでしたので、相談もしませんでした。

抗がん剤治療の副作用で不妊のリスクを知ります。それまで幸せな結婚・出産を夢見ていたと伺いました。病気が見つかる前までは、どのような人生プランを考えていたのでしょうか?

もともと結婚願望が強く、自分が三人兄弟だったので、30歳までに好きな人と結婚して子どもを三人産んで…というようなことを夢見ていました。

乳房の切除手術を受け、受ける前と受けたあとでどのようなお気持ちの変化がありましたか?

普段から化粧もしないし、おしゃれもあまり興味なし。「胸がなくなったって、どぅってことない!!」と思っていたほど胸を切除することに抵抗はありませんでした。ですが、やはり胸が無くなった自分の姿を鏡で映すとちょっぴり悲しい気持ちにはなりました。でもその悲しい気持ちも一時的なもので、術後間もなくから温泉に行っています。もちろんタオルで隠すこともなく、堂々と入浴を楽しんでいます。

手術の後の体調はいかがでしたか?

術前も落ち込んだ時期を超えて、むしろ術後の方が体調がよかったように思います。手術をしてとりあえず“悪いもの”を取りのぞいた安堵感があり、食事もおいしく、売店までおやつを買いに行っていたくらいです。しかし、患側(手術を受けた側)の腕が全く動かなくなりました。腕と腋がくっついたような感じです。術後の痛みもありましたが、力が入らず腕が動かない。ベッドから起き上がるのも一苦労、また着替え、シャワーも苦労しました。

抗がん剤治療(EC療法(エピルビシン、シクロホスファミド))はいかがでしたか?

一言で言えば「もう二度としたくない!!」抗がん剤滴下中から何とも言えない目が回るような感覚、気持ち悪さが毎回襲ってきて、抗がん剤終了1時間後から5日間ほどトイレ以外は起き上がることができませんでした。目も明けることができず、スマートフォンも操作できませんし、テレビも音だけ聞いていました。目を開けて周りをみるだけでも強い嘔気が襲ってくるので、目を閉じて入院生活しました。食事もしばらくは取れないので持続点滴をしてもらい、病院食は止めてもらっていました。抗がん剤治療終了して3日目くらいからボチボチ食事がとれるようになってくるので、毎日見舞いにきてくれる母が病院の食堂でうどんを注文して持ってきてくれました。退院したあとは何事もなかったかのように、決まって自宅に帰ってきた日は肉を焼いてもらっていました。今でもあの“赤い魔物(エピルビシン)”を見るとめまいや嘔気に襲われます。

髪の毛が抜けることでどのようなお気持ちになられましたか?

「髪の毛なんて抜けたってまた生えてくる!!」そう思っていたので、脱毛に関しても気にもしていなければ不安もありませんでした。でも抜け始めた時は、とってもビックリしました。噂通りゴッソリ抜けるのです。お風呂なんて抜けた髪の毛との戦いです。排水溝から脱衣室まで。肌寒くなりはじめた季節に、素っ裸のままで床に這いつくばって落ちた髪の毛を拾っている時とっても惨めな気持ちになりました。でも気持ちを切り替えて、父にバリカンで坊主にしてもらいました。私は頭の形がきれいなので坊主頭が我ながらよく似合っていました。ずっとロングヘアーだったので坊主頭のメンテナンスの簡単さには感動しました。

自宅にひきこもりになったと伺いました。この頃は毎日どのような生活だったのでしょうか?

その頃なにをしていたのか…、自分でも記憶がありません…。ただ部屋にこもってベッドの上で寝たり…。完全に無気力状態だったのだと思います。仕事も休んでいましたし、連絡できる友達もいないし。かといって、治療を開始して見た目が変わりつつある自分を見られることで、病気のことが他人にばれないかも心配だったので、外出もできない。家の外に出る時は抗がん剤投日、月に1度のあけぼの会のサロンだけでした。そして時々母や兄と県外におでかけをしていました。

竹條さんにとって「不妊のリスク」とは、どういうものでしょうか?受け止め方、考え方について教えてください。

25歳当時の私は“不妊のリスク”について説明があってもピンときませんでした。彼氏がいるわけでもなく、結婚もしていませんから、子どもを産むということが憧れや夢ではありますが、現実的に迫っているものではありません。でも、「将来子どもを産むことができないかもしれない」=「彼氏ができない・結婚することができない」=「一生独り」。
結婚もまだしていないような私が不妊について悩んでいるなんて、乳がんになったこと以上に他人には言い出すことができませんでした。
受け止めるまでにはとっても長い時間がかかりました。受け止めているようですが、心のどこかでは未だに受け止められず苦しんでいる自分もいると思います。
私の不妊に対する思いが一変したのは、同じように若くしてがんになった方の体験談でした。もちろん治療の末、子どもを産むことができた方の話もありましたが、子どもがいない人生を歩んでいる方のお話はとっても心に響きました。独身でも、子どもがいなくても人生を豊かに歩んでいる方がたくさんいる。そのことを知って気持ちが楽になりました。それまでは私の人生は「好きな人と結婚して、子どもを産んで…」という一つの人生しかありませんでした。でも、考え方が変わった今の私は「一生独身のキャリアウーマン」「事実婚!?」「もちろん結婚して自分が子どもを産む」「子どもさんがいる男性と結婚もありかも!!」と考え方がワールド級になりました。
私には、がんになったことで、人生の選択肢が増えたのです。それからは、深く悩むことはなくなりました。でも30歳を過ぎた今、自分のライフプランを考えた時、もしかすると本当に独りかも…。と考えてしまうこともありますけど。

「不妊のリスク」について詳しく知りたくて専門医を訪れますが、医師と看護師から冷たい対応を受けました。「医療現場とはこんなものか」と失望されます。これはどういうお気持ちでしょうか?ご自身が看護師でもあるので、詳しくお聞かせください。

あの時のことは一生忘れることができません。
子どもを産みたいという思いは、がん患者や未婚者には願う権利が無いのかとも思いました。いいえ、そういう意味で言われたのだと私は解釈しています。必死に苦しみを訴えても医療従事者や、周りの人達にはわかってもらえない。これは、患者、当事者にとって、とっても辛く深い深い苦しみになります。苦しみを訴えても、わかろうともしない態度をされることで、消えない傷になりました。

私は看護師として臨床に立つとき、苦しみを抱えている患者さんとお話をする際には、言葉をかわさなくてもそっと隣に寄り添うだけのことがあります。
答えがでない苦しみも多いです。
医療従事者であっても解決できないことももちろんあります。患者さんは解決できない苦しみを一生抱えながら生きていかなければならない時もあります。その苦しい思いを理解しようとする気持ちが大切だと思います。100%、人の思いや気持ちを理解することは残念ながら不可能です。理解できなくても、その思いを私もわかりたい。理解できなくても、その思いを受け止めたい。そのような思いで患者さんとお話をします。気の利いた、その場を繕うだけの言葉なんていらないのです。言葉が無くてもいいのです。一緒に泣きながらギュッと抱き合ったり、手を握ることで、伝わるのです。
相手がどれだけ、自分のことを理解しようかとしているかを。

抗がん剤(パクリタキセル)、分子標的薬(ハーセプチン)治療はいかがでしたか?

ECの時とは比べものにもないほど体は楽でした。だたパクリタキセルの時は末梢神経障害を防止するために両手は真冬でしたがフローズングローブを着用して抗がん剤投与していたので寒さ我慢大会状態でした。その効果もあったのか、指先のしびれはさほど気にはなりませんでしたし、爪や指の変色も全くありませんでした。
体の浮腫みが最高潮になっていたので目も開かないような時もありました。体から消え去った毛も少しずつ現れてきて「治療もあと少しだ!!」なんて思えました。
ハーセプチンの単独投与になってからは仕事にも復帰しました。点滴投与日も採血がなくて必要なら診察をして投与だったので苦痛だったが依頼日もスイスイと終わったので大変楽でした。

生理が止まった時、どのような心境でしたか?また、生理が戻った時はどのようなお気持ちになりましたか?

私は抗がん剤が始まればすぐに生理が止まると思っていました。でもECが終わっても生理は毎月あり「もしかして止まらないかも」と思えるほどでした。
でも、抗がん剤を始めてからオリモノも多いし、なにか変だなっていうのは感じていました。そして生理が来なかった月。前の月は、妊孕性のことで他の病院を受診していました。「全体の1/3の人が生理が止まる。そしてそのうち1/3の人が生理が止まったまま…」恐れていたことが現実になり、もしかするとちょっと遅れているだけだ、とも思いましたが、完全に生理は止まったままになりました。生理が止まったことは主治医にもすぐには言うことができませんでした。
生理が止まってからはいわゆる“更年期”の体。ホットフラッシュに急激な体重増加(パクリタキセルの副作用も重複)、情緒不安定…。約半年私は過ごし早い更年期を体験しました。生理が再開してからは、体重もスーッと減少し、色んな症状から解放されました。

生理が止まった時は、すぐには信じれない気持ちでいっぱいで、毎日そろそろかなと思いまっていました。でも1週間が過ぎ、1か月が過ぎ…。とうとう2か月、3か月…。その頃、私は気力もなくなっていたので、「あぁ…、やっぱり止まってしまったか…」とひっそり思いました。生理が止まってからはますます情緒不安定になり、出産のために里帰りしている妹ですら疎ましい。外出すれば親子3人の幸せそうな姿。見るに堪えかねてトイレに駆け込み泣いたときもあります。
また職場に育児休暇中のスタッフが子どもさんを連れて来たときは、スタッフステーションから逃げたしました。私だって乳がんなんかにならなかったら、抗がん剤だってしなくてすんで、今頃結婚して子どもだっていたかもしれないのに。そう思うと、私が思い描いていた人生を歩んでいる人たちを見ると、疎ましい気持ちでいっぱいになりました。
でも、そんなこと言えるはずもなく、ただただそんな気持ちを自分の中で蓋をしていました。

生理が再開した時は驚き!!本当に戻ってきた!!と、普段は毎月憂鬱だった生理が、こんなにも待ち遠しく思ったことはないほどです。あくまでも生理がある=妊娠できるではありませんが、自分の生殖機能が再び芽吹いたことにたいする喜びでいっぱいでした。子どもを産むことができるという気持ちよりは、自分の失われた体の機能が復活したことが嬉しかったです。

職場への復帰、大変だったと思います。振り返り、もう一度復帰するとしたら、どうのように復帰するのがいいと思いますか?

急性期外科病棟で同じような乳がんの患者さんのケアがしたいと思っていたので部署異動も断りました。でもやはり急性期病棟、入退院、検査に手術と大変忙しかったです。
平日5日間の仕事、手術出ししながら患者さんの抗がん剤投与なんかもしました。また、寝たきり患者さんの入浴介助、透視下での処置にも鉛の入った重い防護服を着て長時間の介助につきました。少しでも早く職場復帰したかったのですが、治療で身体はダメージを受けていたのですね。一度体調を崩し入院もしました。

もしもう一度復帰するならば、どのような業務なら体調面を心配しなくても済むのか管理職に伝えておきたいです。私は手術した方の腕を酷使できないので、力を使うような業務(寝たきり患者さんの入浴介助や体重測定、透視下での処置)はできないことを伝えたいです。周りにいるスタッフも、私がどの程度の業務ができるのかわからないので、自分ができることとできないことを具体的に伝えるようにしたいです。

ご自分と同じように若くてがんになり、独身で不妊のリスクをかかえた患者が身近にいなくて孤独だったと伺いました。まったく同じような立場の人がいないと、やはり孤独なものでしょうか?詳しく教えて頂けますか?

ただたんに手術や治療の悩みや不安なら年齢関係なく思いを共有し合えることはできました。でも妊孕性の悩みだけは歳の離れた人に言い出すことすらできませんでした。
当時はまだ“妊孕性”という言葉も浸透しておらず、きっと相談すれば「若いから大丈夫」という言葉ですまされていたと思います。その言葉ほど私にとって辛いものはありません。
若いから悩むんです。若いから問題なんです。抗がん剤の影響で卵巣機能が10歳老化したと言えば、若いから大丈夫なんて言葉をかけることはきっとできなくなると思います。

嫌な言い方になるかもしれませんが、結婚して出産経験のある方から子どもができないかもしれない事について慰められたって何にも嬉しくありません。だってあなたには子どもがいるんだから。こんな思いを巡らせている自分にも嫌気がさします。周りの方の優しさを跳ね除けている自分が嫌です。でも、そんな風にしか考えることができなんです。だから、あえて自分からは不妊についての相談は一言も話しませんでした。それが1番、自分も傷つかないし、相手のことも傷つけなくて済むから…。

私の場合は独身という立場ですが、結婚をしていて不妊に悩む方、2人目3人目の出産を願っている方では、また思いや考え方、辛さが異なると思います。

名古屋のセミナーで「子供が出来なくても、子供のいる家庭は作れる可能性がある。子供のいる人と結婚してもいいし、養子をもらってもいい」と言われハッとされます。この時のことを詳しく教えて頂けますか?

私はそれまで結婚して自分が子どもを産むということにこだわっていました。でも、それが不可能かもしれないという状況に立たされた時に、大変絶望的になりました。でも、子どもがいる方と結婚したサバイバーの話や、養子縁組のことを聞いたときに、私もそういう風に家庭を築けることができるんだと、目からうろこでした。

私はそれまで自分が子どもを産むことこだわっていました。つまり“母親になる”ことに執着していました。でも、色んな家庭、家族のあり方を知って、私は決して母親になりたいんじゃなく、自分の家族が欲しいのだと気づきました。血縁関係になくても家族になれます。自分が産んだ子どもじゃなくても一緒に生活をし、育てることはできます。また、子どもがいなくてもパートナーと2人で家庭を築くこともできます。名古屋でのセミナーをきっかけに、自分らしい家族の姿を考えるきっかけになりました。

名古屋セミナーでロールプレイをして自分の気持ちを吐露したら、ぐっと心が軽くなったと伺いました。それまでは気持ちを明かす場がなかったのでしょうか?家族とか「Sister」の仲間に明かすのとは何が違ったのでしょうか?

あけぼの会のサロンには毎月参加していましたが、歳の離れた方ばかりでしたので、相談することができませんでした。
もちろん家族にもこんなことを悩んでいるなんて言えませんでした。もちろん母親は医師からの説明で妊孕性が低下することも聞いていました。でもきっと、私がそれに関して悩んでいるからこそ、母親も言葉をかけることができなかったと思います。

Sisterを立ち上げて初回のおしゃべり会が終わってからのセミナーでした。その頃はまだSisterの仲間とも今ほど関係を築けていない時期だったので、手術や治療の悩みだけで、妊孕性についてはまだ触れていませんでした。また、私は治療が終わっているので相手さえいれば、すぐにでも妊娠を試みることはできますが、Sisterに参加している子達はこれから5年、10年と治療が続きます。その間は妊娠はできませんし、妊娠を望むなら治療を中断しなければなりません。そのことを考えると、みんなの前で妊孕性のことを言うことができませんでした。
でもロールプレイで同じグループになった方は、医療従事者だったので、自分の辛い思いを出すことができました。なにか特別な言葉があったわけではありません。でも泣きじゃくる私を見て、肩を抱いてくれたり、ティッシュを差し出してくれたり、私が落ち着くまで一緒にいてくれました。

NHKの四国らしんばんに出演され、ご自身にどのような変化がありましたか?

名古屋のセミナーで一皮むけた私は、自分ががん患者であることを、堂々と人に言えるようになりました。以前は顔も実名を隠していましたが、自分の体験や思いを伝えるには、きちんと自分を知ってもらわなければならないと思うようになったからです。また、前まではあけぼの会のサロンでも隅でおかしを食べながら話を聞くだけでしたが、自分なりの意見や想いもみんなの前で言えるようになりました。

治療中、リハビリ中、心の浮き沈みに、どのように向き合いましたか?

まるで台風の様に私の心はかき乱されました。穏やかな日もあれば、同じ日でも浮かんだり沈んだり…。とっても苦しかったです。治療中はとにかく「自分がするって決めたんだからやり切るんだ!!」と思い気力だけで乗り越えました。
リハビリは痛みに耐えながら頑張って毎日していましたが、なかなか可動域は拡大せず、腕が上がらないことが情けなくて涙がでましたが、とにかく自分の頑張り次第で今後の生活が今まで通りできるかどうかかかっているので必死でした。
でも、気力で乗り越えることができたのもしばらくの間でした…。治療が進むにつれて副作用もでてきますし、苦しい思いを誰にも言えない時期が長くなってきて、ついには薬(安定剤)に助けてもらいました。
不安で涙が出る、夜眠ることができない。そんなことも診察で主治医に言うことができなくなっていました。薬を頼ることも時には大切なんだなって感じました。

女性のがんである乳がんの治療と性的な尊厳についてお考えを教えてください。

治療を行うことで大きな代償を背負うことになります。手術でボディーイメージが変容、抗がん剤治療や内分泌療法で生殖機能にダメージを受けるからです。手術によって胸に傷ができたり、乳房自体がなくなってしまう。
頭髪・体毛がなくなることも、パートナーへ体を見せることができなくなる要因になります。また薬剤の影響で膣粘膜が萎縮・減少し以前の様にパートナーを受け入れSEXすることが難しくなります。
がん患者だって恋もすれば恋人や夫もいます。もちろん愛情を深めるためのKISSやSEXだってするんです。でも治療を行うことで、今まで通りそれができなくなる。それは大きな代償です。パートナーに対し申し訳ない気持ちなったり、女性であるということへの気持ちの喪失にも繋がります。
若年性の乳がん患者だからこその悩みではないでしょうか。私は治療による問題として、就労や金銭的な問題と同様に性的な問題も、同じように問題視されるべきであると思っています。

竹條さんにとって信頼できる医師とはどんなお医者さんですか?

まさに私の主治医です。治療方針を決める際には必ず私の意見も聞いてくれて尊重してくれました。そして、毎年手術した日を共に喜んでくれました。また、最近では私が以前よりも前向きに生きている姿を見てくれています。先生と一緒に1年1年乗り越えていっているんだという気持ちになります。今年の春、他県への転勤のため、大好きな主治医から卒業しましたが、今でも先生のことが大好きです。今でも私のことをみてくれています。

患者友達の方たちの存在意義は何ですか?

術後約5年間、患者友達がいませんでした。元々友達は多い方ではなかったので、友達なんていなくてもいいやとも思っていました。でも、Sisterを立ち上げ、おしゃべり会を開催し、毎回同じメンバーさんがいつも来てくれる。そして今ではプライベートでも仲良くさせてもらっています。
30歳にしてお友達ができたのです!!とっても嬉しいです。
患者以外の友達には相談できない悩みも、同じ体験をした友達には言うことができます。やはり同じ体験をした者同士でなければ、分かり合えない悩みもあります。その時々であった苦しいこと、悲しかったこと、辛かったことをため込まず、すぐに相談し合えるので、よき理解者でもあり、友達でもあります。私はひとりじゃないんだ。一緒にいるとそう思うことができます。
最近では「手術してから異性に裸を見せたことある?」なんて赤裸々な質問をみんなにしましたが、普通に答えてくれました(笑)

乳がんを経験して感じたことは何ですか?

人生何が起こるかわからない。まさか25歳の私が乳がんになるなんて思ってもいませんでした。なんで私が乳がんにならなければならなかったのか。まず、がんになった人の心理として原因を探します。でも私はどんなに考えても自分が乳がんになった理由・原因がなかったのです。
また、死を自分の身近に感じると、後悔の念にかられたりしますが、私には後悔したこと、し残したことがありませんでした。つまり私は、悪いこともしていないし、後悔することもない。毎日を全力で後悔のない生き方をしていることに気づきました。
乳がんになったことは今でも嫌で嫌で悔しくてたまりません。
でも、乳がんになってしまった事実はどうしても変えることができません。では、どうするのか?ただ乳がんになっただけの人生では終わりたくない。乳がんになったことをいつまでも絶望に感じ、再発や転移を恐れながら生きるよりも、乳がんになった私だからこそできることがあるはずだ。そう、考え方をシフトチェンジしました。
乳がんになったから諦めるんじゃなく、乳がんになったからもっともっと欲張りに生きていこうと思っています!!

がんになって失ったもの、得たものは何ですか?

【得たもの】

  1. 同じ体験をした仲間
  2. 好奇心
  3. 少しプラス思考になった

【失ったもの】

  1. 昔の友人
  2. 左のお乳
  3. 以前のような左の腕の動き

大切にしている言葉は何ですか?

全てのことは偶然じゃなく運命

現在治療中の方々に伝えたいことを教えてください。

私は治療中、ふさぎ込んで、引きこもり、誰とも関りを持たないようにして生きてきました。当時は、そうすることで自分を守っていたのです。そして自分から辛さを話すこともしていないのに「誰にも私の気持ちなんてわからないんだ」と勝手に決めつけ、辛い思いを溜め続け自分で自分を追い込んでしまいました。
今思えば、自分の気持ちを言葉に出さずに、人にわかってもらうことなんて不可能なんです。
誰でもかんでも、自分のことを話したり、相談することはあまりお勧めはしませんが、自分が信頼できて、自分の話を聞いてくれる人がきっと現れるので、そういう方には、自分の辛い気持ちを表出すればいいと思います。
誰もわかってくれないと思うだけでなく、あるていど自分でも、わかってもらうための努力は必要だと思います。ぜひ、勇気を出して自分の事、自分の思いを伝えてみてください。
そして、自分以外のサバイバーと比べて、「自分はなんて弱いんだ」なんて思わないでください。雑誌やテレビに映っているサバイバーは、自分から見ると、とっても強く・キラキラと輝いて見えます。私も周りの方から「強いね」「すごいね」なんて言葉を掛けられますが、全然そうじゃありません。今でも乳がんになったことが受け止められずに、不安だらけです。でも周りのみんなが私のことを“強い”なんて言ってくれるから、無理して強い自分を演じていました。でも、最近では弱い自分も見せています。サバイバーだからって、常に前向きで歩かなくてもいいんですよ。私の様に下を向いたり、後ろを向いたり、立ち止まったりしてもいいのです。強くならなくてもいいんですよ。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいことを教えてください。

私と同じように若くしてがんになったご家族をおもちの方もたくさんいらっしゃると思います。ご家族のかたも、同じように苦しみ、悲しみ、恐怖を抱きます。家族なのに何もできないと無力ささえ感じるかもしれません。特別なことなんてしなくても大丈夫なんですよ。
側にいてくれるだけで安心するんです。私はそれまで社会人になり、家族との時間が子どものころと比べて減っていました。でも乳がんになって仕事を休んでいることで、家族との時間が増えました。まるで子供の頃の様に、家族と一緒にいることができたのです。大人になるにつれて、親から離れていくことが多くなるのに、私は逆にその時間が増えました。
苦しい治療生活でしたが、とっても幸せな時間をすごすことができました。治療中のご家族がいたら、側にいてあげてください。患者自身は特別なことなんて求めていません。一緒にいてくれればいいんです。

竹條さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいことは何ですか?

あけぼの徳島 若年性乳がんコミュニティSisterを立ち上げて2年になりました。もともと母数の少ない若年性乳がんを対象としているので、ご新規さんの参加はほんとうに時々しかありません。でも、同じ子達が、毎回集まってくれることがとても嬉しいです。
今は若年性乳がん患者を対象としていますが、今後はAYA世代のがん患者が集まれる会になればいいなぁとぼんやり思っています。また、いまは、おしゃべり会だけでいっぱいいっぱいですが、講演会みたいなイベントもしてみたいです。
AYA世代の子達が知りたい内容のことや、AYA世代のサバイバーを招いた座談会も。Sisterの中だけではなく、がん種や住んでいる地域を超えての交流ができるようになりたいです。
あと、昨年から積極的に参加している婚活パーティーで素敵な方とご縁ができるように…♡

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  1. 医者任せの治療
  2. 患者マウンティング(他の患者との比較)
  3. 治療する前に死を選択すること

がん患者がするべきこと(3つ)

  1. 自分なりにエビデンスのある情報を収集
  2. 医療従事者と一緒に治療方針を決める
  3. 時に弱い自分を見せる

周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉

  1. よく今まで頑張ったね
  2. うてちゃんは、うてちゃんのままで、いいんじゃない
  3. Sisterをつくってくれて、ありがとう

周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉

  1. 若いから大丈夫
  2. あなた若いのに大変ねぇ
  3. 悩みなんてないんでしょ

復職する際に大切なこと

  1. 自分がどれだけ以前の仕事ができるか見極める
  2. 今の自分ではできないことをちゃんと周りのスタッフにも伝える
  3. 体調が悪い時は休む・無理をしない

当時参考にした本

  • 患者さんのための乳がん診療ガイドライン
    編集:日本乳癌学会 出版社:金原出版
  • 乳がん患者の妊娠出産と生殖医療に関する診療の手引き
    編集:「乳癌患者における妊孕性保持のための治療選択および患者支援プログラム・関係ガイドラインの開発」班、日本がん・生殖医療研究会(現 : 日本がん・生殖医療学会)
    出版社:金原出版
  • 乳癌診療ガイドライン1治療編、2疫学診断編
    編集:日本乳癌学会 出版社:金原出版

     

この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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