【インタビュー】乳がん ステージ2B サバイバー 関根亜希子さん

浸浸潤性乳管癌 トリプルネガティブ ステージ2B サバイバー 関根亜希子さんのインタビューです。

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目次

基本情報

名前: 関根亜希子さん >>5yearsプロフィール
年代: 40代、女性
病名: 乳がん(浸潤性乳管癌)
病理: トリプルネガティブ
進行: 2B
発症: 2015年7月
発症時年齢: 40歳
治療: 術前抗がん剤治療 手術 放射線治療
期間: 2015年8月~2016年6月
合併症:なし
職業: 社会福祉士として高齢者介護施設の相談員
生命保険:県民共済の医療保障(入院のみ)

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2014年9月、39歳に乳がん検診を受けました。検査への抵抗感はありましたか?

抵抗はありませんでした。「男性の技師さんだったら胸を見られるのがちょっと恥ずかしいな」くらいでした。

乳がん検診から半年後、シャワーを浴びている時に右胸にしこりを見つけます。どのようなお気持ちでしたか?

「これは何だろう?授乳中にあった乳腺炎の時のしこりに似ているな。断乳してからずいぶん経つのにどうしたのかな?」という気持ちでした。癌はもちろん、病的なものという危機感はほとんど感じませんでした。

半年前の乳がん検診では、そのしこりを見落とされたと思いますか?それとも半年間で出来たと感じていますか?

正直、見落とされたと思います

最初、なぜ婦人科に行かれたのですか?

流産の経験があり治療をしてもらっていたのが婦人科でしたので、自分にとってかかりつけ医でした。授乳中に起こした乳腺炎の薬を処方してもらった経緯があったので、乳房も婦人科系の臓器であると勘違いしていました。

クリニックで繊維質のかたまりと言われた時のお気持ち。

「やっぱり何でもなかった」とすっかり安心してしまいました。

さらに3ヶ月後、わきの下にもしこりを見つけた時のお気持ち。

胸のしこりとは関係ないと自分に言い聞かせようとしましたが、心の中のざわつきが抑えられませんでした。

二度目の病院で「生検」をすると言われます。どのように感じましたか?

「なんだか大げさになってきちゃったな。けど、きっと大丈夫のはず」と信じていました。

生検をするということをご主人はどのように感じられていた様子でしたか?

平静を保っていましたが、動揺していたと思います。

インターネット検索で色んな情報を観られます。仮名での情報が多かったと思いますが、どのように感じましたか?

信ぴょう性に乏しいから振り回されてはいけないと言い聞かせつつ、自分にとって目新しい言葉を見つけては調べる、落ち込む、調べる、不安になる、の繰り返しをやめられませんでした。

生検の結果を7:3で大丈夫と思ったのはなぜですか?

まだ自分は若いし、がんになんてなるはずがない。これまでずっと健康体だったし、風邪だってほとんど引かない。こんな自分がシリアスな病気になんてかかるわけがないと根拠のない自信があったからです。

医師から「えっ…。一人できちゃったの?」と言われた時の状況。

直感で、がんだと感じました。いわゆる告知ってやつが始まるんだなと想像しました。

がんの疑いを告げられた後、息子さんの保育園のお迎えに行く時の心境。

自分が動揺していることを息子たちに悟られたくない気持ちでした。息子たち以外にも、すれちがうママ友や保育園の先生にも知られてはならないと考え、緊張していました。

その夜、ご主人に「ごめんね」と言われます。どのような想いがありましたか?

「出来の悪い嫁でごめんね」「がんになるなんてわかっていたら、私とは結婚しなかったかな?」という想いがありました。そんなこと考えても仕方ないとはわかっていましたが、「ごめんね」以外の言葉が見つかりませんでした。

浸潤性の乳がんで、トリプルネガティブ、ステージ2b。どのように受け止められましたか?

トリプルネガティブは一般的には予後不良の乳がんと言われているので、ぞっとしました。がんだけでも信じられないのに、よりによってトリプルネガティブなんてと絶望的な気持ちになりました。

病院選び。家族の間でいろんな意見が出ます。その時の状況を教えてください。

親身に考えてくれてありがたいと感じる反面、治療するのは自分なのになんで自分の意見が通らないのだろうと不満を感じている部分もありました。

お母さんから「なんで、あんたが“がん”にならなきゃいけないの。私が替わってあげたいよ」と言われた時のお気持ち。

辛かったです。私自身、こどもが熱を出して苦しんでいる姿をみると「替わってあげたい」と感じるので、母が「替わってあげたい」と想う気持ちが痛いほどよくわかりました。いくつになっても、母にとって私はこどもなんだなと思いました。

お父さんは、乳がんを患った娘とどのように接してくれましたか?

落ちついていて普段どおりに見えました。後になって食欲が落ちていたと母から聞かされました。

治療が始まる前から、メインのお仕事から外されます。どのように感じましたか?

複雑な思いでした。乳がんはほとんどの場合、痛くもかゆくもありません。私も身体機能的には、仕事ができない状態ではありませんでした。しかし、検査や通院が突然入ってしまうのでスケジュール的に先々の予定をいれられなくなってきました。「今は仕方がない。無責任に仕事をしたら、たくさんの人に迷惑をかけてしまうのだから」と自分自身に言い聞かせていました。

埼玉県からがん研有明病院まで通うことの大変さ。

日帰りで抗がん剤治療をすることになったので副作用が電車の中で出てしまったらどうしよう、電車の遅延で予約時間に遅れてしまったらどうしよう、ウイッグをかぶったまま満員電車に乗ったら、ウイッグがずれるのでは?など不安しかありませんでした。

子供に自身のがんを伝えることの大変さ。どのように伝えられましたか?

伝えなくて済むなら伝えない方がいいのではととても迷いました。怖がらせてしまうかもしれないという不安があったからです。がん研の看護師さんに相談して、伝える際のポイントを教えてもらってから伝えました。
「自分が落ち着いている状態で伝える」お母さんが不安を感じていると、子供も不安になってしまうそうです。私の場合は落ち着いて伝える自信がなかったので、主人と一緒に伝えました。
「おおきな嘘はつかない」たとえば、絶対治る!とか、死なない!とかすぐに治る!とか。
「がんという病名を伝える」風邪とは違い、うつる病気では無い事を正しく伝え不安を軽減するのがねらいです。
お母さんが乳がんになる絵本を数種類看護師さんに紹介してもらって、年齢別に理解しやすい物を選んで読み聞かせをしました。

息子さんたちは、母親の乳がんをどのようにとらえた様子でしたか?

「治るよね?」「死なないよね?」と無垢な表情で聞いてくるので、胸が痛みました。「治したいから、頑張って病院へ行くね」「死んでしまう事もある怖い病気だよ」と言葉を選びながらも、ある程度は正直に答えました。

CEF療法はいかがでしたか?副作用への対処はどのようにされましたか?

しんどかったです。初回投与の時は、頓服の吐き気止めを飲まずに耐えようとしてしまったので、経験したことのない吐き気と倦怠感で一晩ろくに眠れませんでした。2回目以降は主治医と薬剤師さんと相談して服薬コントロールをして上手く付き合うようにしました。

抗がん剤(ドセタキセル)の副作用はいかがでしたか?

CEF療法では抜けなかったまゆ毛やまつ毛も抜け落ち、浮腫もひどかったです。人相が変わり、ますます人前にでるのが嫌になりました。

子育てをしながら乳がん治療を行うことの大変さ?どのように乗り越えましたか?

身体的な辛さがある時には、物理的に子供と距離を置くことで対応していました。
幸い私の場合は家族の協力が得られたので、副作用がきつい時は子供を実家に預け家事をせずに過ごせたので本当に助かりました。主人も家の事を以前にも増して協力してくれました。日中、子供たちの様子を見ているのは学校の先生や保育園の先生なので、先生方にも治療中であることを伝え、子供の様子に異変がある時には知らせて欲しいと依頼をしました。
家族間ではうまく協力できたし、学校や保育園の先生方も協力的でしたが、一部のママ友が私のウイッグに気づいたようで、変な噂が保育園内で広がってしまったのには困りました。ほとんど話したことのないお母さんから「体調がわるそうだから子供の送り迎えをしてあげる」と突然言われたり「仕事を休んでいるのはどうして?」など、興味本位で近づいてくる方がいて迷惑でした。なんとかとぼけてやり過ごしましたが、一部のママ友には随分いらいらさせられました。

抗がん剤治療中、気力を失われたとあります。どのような状況だったですか?

不眠。気力減退。感情の平板化。生きている価値が見いだせず「死んだ方がいい」と自問する事もありました。うつ状態であったと思います。

抗がん剤が効き、腫瘍が小さくなります。状況を教えてください。

初回の抗がん剤投与をしてからすぐに、しこりがどんどん小さくなっていきました。最終的には触診では分からなくなるくらいまで小さくなったので、オペをしたくないと思いました。

乳房の全摘手術と、部分切除のどちらにするか悩みます。どのようにして手術方法の選択をされたのですか?

主人と何度も話し合いました。見つかった時のしこりの大きさが大きかったので、現実的には全摘出手術が濃厚であったと思いますが、女性として胸への未練や執着があり、なかなか踏み切れませんでした。主人は再発の危険性を最小限にしたいという想いから、全摘出を強く推していました。画像をたくさん検索したり再建手術の方法を調べて、私も最終的には覚悟を決めました。

女性のがんである乳がんの治療と性的な尊厳について

女性の象徴的な存在である乳房が無くなる事で女性でなくなってしまうような気がしていました。女性らしさは乳房だけで語るものではないのに、判断力が低下していました。

入院して4人部屋で仲間ができます。いかがでしたか?

道が開けたような気持でした。不安や絶望を共有でき、とても楽になりました。入院中は互いに傷口をみせあったり、術後に抗がん剤を控えている仲間へ先輩風吹かせてアドバイスしたり、学生時代の合宿みたいな感じでした。告知を受けてから約半年、久しぶりに心から笑った気がします。

無事手術が終わり、社会に戻りたいというお気持ちが強くなります。どのような心境変化でしたか?

入院中、家族以外のひとと久しぶりにコミュニケーションをとり、笑い、とても心が軽くなりました。私は術前に抗がん剤をしていたので、自分の経験を仲間たちに話すことで、他の人の役に立つような感覚も味わえました。抗がん剤治療中は、治療に専念するという名目で他者との関わりを遮断していましたが、それがかえって自分を苦しめていたのではと気づきました。他者と関わりを持つこと、がん以外の事に思いを馳せることで自らの心が開きがんの痛みから本当の意味で解放されるのではと思い始めました。

患者友達の方たちの存在意義

一言に乳がんと言っても、状態が全員異なります。しかし、乳がんと知って感じた絶望感と喪失感はみんな一緒。他に理由は必要なくて、理屈抜きで分かり合える戦友です。

放射線治療はいかがでしたか?

治療そのものの副作用はそれほど重くはありませんでしたが、毎日通院する手間と交通費が大変でした。

元の職場に復職しましたが、元の仕事には戻れません。どのようなお気持ちでしたか?

とても悔しい気持ちでした。自分では、仕事をする判断力やスピードが落ちているとは思いませんでしたが、周囲にはわかってもらえませんでした。時間をかけて証明していくしかないのだと言い聞かせ踏ん張ろうと思いました。

がん患者だった関根さんにとって「仕事・働く」とはなんですか?

仕事は自己実現の場。働くことは成長すること。
私は相談を受ける仕事をしているので、がんを経験したことで、これまでよりもっと深く人の痛みを理解できるようになれたらいいと思っています。

復職のあと、自分の希望する仕事につきたくて積極的に転職されます。そのバイタリティーが素晴らしいと思いますが、どこから湧いてくるのですか?

再び休んだら、また治療中のうつ状態に戻ってしまうのではと怖かったのが一番の理由です。自分の能力が活かせるところで、必要とされたいという思いもありました。

20年ぶりに家族でスキーに行かれます。いかがでしたか?

とてもとても楽しかったです。病気になってから新しい事を始めるなんて、思いもよりませんでした。でも、できました。自信につながりました。

乳房を失ったことを今、どのように整理されていますか?

乳房は私の一部であり、私という人間を語るすべてではないということです。乳房を失ったことはとても悲しいでき事でした。いまでも鏡を見るたびに「やだな」と落ち込みます。でも、乳房がなくても、青い空をみればきれいだなと感じることができるし、困った人がいたら自分に何かできないかなと考える事が出来ます。世の中には立派な乳房を持っている人でも、ピントがずれた価値観を持っている人がたくさんいます。自分を見失わず生きていければ、乳房なんてなくても大丈夫と今は整理しています。

がんの治療を終え、1年の節目をぶじクリアされました。今の気持ちをお聞かせください。

とりあえずホッとしました。しかし、私はがんという病気は乗り越えられる病気とは思っていないので、この先も不安な気持ちとは生涯付き合っていかないといけないのだと思っています。

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】

  • 生きる事への貪欲さ
  • 家族への信頼・愛情
  • 自分への自信

【失ったもの】

  • 乳房
  • 噂好きで頼りにならない友人
  • スーパー銭湯に行く習慣 (人が少ない温泉には行きます)

大切にしている言葉

「経験はひとを強くする」
「やさいとわらい」

現在治療中の方々に伝えたいこと

悪いのはがん細胞であって、あなた自身は何も悪くないということ。がんになったことは交通事故のようなもので、不運な出来事ではあるけれど、不幸な出来事にはしないこと。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

ただ、そばにいてできるだけ日常として過ごして下さい。がん患者もプライドがあるので変に病人扱いされると傷つきます。

関根さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。

今は、生活のリズムを取り戻せるよう、毎日慌ただしく日常を過ごしています。今後はマラソンにも挑戦したいし、スキーもうまくなりたいです。今はどういう形かまだ見えていませんが「がんと就労」というキーワードで何か携わっていきたいという気持ちもあります。

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  • 夜、寝ないこと
  • 自分を責めること
  • いろんな制限をすること

がん患者がするべきこと(3つ)

  • 同病の仲間を作ること
  • 家族や友人以外に相談できる第三者を見つけておくこと
  • 極力普段と同じ日常を過ごすこと

当時参考にした本

あまり本は読みませんでした

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取材:大久保淳一

この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
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