悪性縦隔腫瘍(胚細胞腫)、転移性脳腫瘍、放射線治療後の脳浮腫 ステージ4 サバイバー 金内大輔さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】金内大輔さん 悪性縦隔腫瘍、転移性脳腫瘍、他 ステージ4 サバイバー
- 第1話「止まらない咳」
- 第2話「命にかかわる病気」
- 第3話「悪性縦隔腫瘍(胚細胞腫)」
- 第4話「5クールのBEP療法」
- 第5話「外科手術と肺転移」
- 第6話「がん病棟で迎えた二十歳の誕生日」
- 第7話「脳転移」
- 第8話「ガンマナイフによる放射線治療」
- 第9話「再びの大学生活」
- 第10話「放射線治療の後遺症と病気差別」
- 第11話「思うようにいかない毎日」
- 第12話「繰り返して再挑戦」
- 第13話「1通の通知」
- 第14話「報われない努力はない」
第5話「外科手術と肺転移」
弘前大学1年生の夏に咳が止まらなくなり、その後病院を転々として札幌南一条病院で悪性縦隔腫瘍(胚細胞腫)と診断された北海道余市郡在住の金内大輔さん(44歳、1992年当時19歳)は、1992年9月より抗がん剤治療(BEP療法)を受けていた。
抗がん剤治療は順調に進んだ。
週末になると必ず両親が見舞いに来てくれた。
髪の毛が抜け、嘔吐を繰り返す。
つらく、しかも単調な抗がん剤治療の毎日が続いていた。
ある日、担当の先生から「薬の効果がでているよ」と言われたが嬉しいというよりも当然だと感じた。
そうでなければやっていられない。
秋から続いていた入院だったが年末は小樽に帰って家族と一緒の時間を過ごせた。
年が明けて1993年1月中旬。
金内さんは合計5クールの抗がん剤治療BEP療法をすべてやり遂げた。
真冬の1月、受験シーズン。
思い返せば1年前、浪人して一生懸命勉強し青森県の弘前大学に合格した。
にもかかわらず、最初から病気治療で留年。
何ともやるせない思いだった。
2月に入り担当の医師が呼吸器外科に替わった。
次は、いよいよ手術だからだ。
その先生は背が高いがっちりした感じの男性医師でいつもハキハキと話してくれた。
1993年2月中旬。
縦隔にある腫瘍を取り除く外科手術が行われた。
当日は、父親、母親、妹、叔母が見守るなか6時間近くかかった。
手術室から病室に戻り目が覚めた時、周りに家族がいるのがわかりホッとした。
「これで手術が終わったんだから、もうゴールは近いのかな…」
入院生活が始まり6ヶ月目となり、期待を込めた気持ちだった。
手術後数日たって、呼吸器外科の先生から取り除いた組織について説明があった。
「手術して開けてみたら中の腫瘍が水風船のようにドロドロになっていたよ」
よかった…、薬が効いて“がん”がドロドロになったんだ、そう思った。
今回の手術では右肺の1/3も切除したという。肺転移が見つかったからだ。
そのこと自体は多少ショックだったが病気が治ることを前提にしての手術だったと前向きにとらえた。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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