【インタビュー】悪性縦隔腫瘍、転移性脳腫瘍、他 ステージ4 サバイバー 金内大輔さん

悪性縦隔腫瘍(胚細胞腫)、転移性脳腫瘍、放射線治療後の脳浮腫 ステージ4 サバイバー 金内大輔さんのインタビューです。

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目次

基本情報

名前: 金内大輔さん >>5yearsプロフィール
年代: 40代、男性
病名: 悪性縦隔腫瘍(胚細胞腫)、転移性脳腫瘍、放射線治療後の脳浮腫
病理: 不明
進行: ステージ4、その後脳転移
発症: 1992年9月
発生時年齢: 19歳
受けた治療:  ①抗がん剤治療(ブレオマイシン、エトポンド、シスプラチンの3剤併用(BEP))6クール/②外科手術 縦隔腫瘍に関するもの2回/③放射線治療(ガンマナイフ)2回/④脳浮腫に関わっての脳外科手術(大きなもの2回、小さなもの3回)
期間: 1992年9月~2014年3月(23年)
合併症: 脳浮腫、右片麻痺、
職業: 事務職員
生命保険: 学校生協(大学時代)

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19歳の頃、咳が出て風邪と思います。風邪の咳と肺疾患の咳とでは音が違うかと思いますが、当時、変だなとは思いませんでしたか?

それまでインフルエンザ以外大きな病気をしたことが無かったので、風邪以外疑いようがありませんでした。

大規模の病院ではCT検査が翌週ということはあると思うのですが、それが待てないほど症状として重かったのですか?

4階へ上がるために、1階ごとに休まなければ息が上がって苦しくなっていました。しかも、急激に悪化してきていることに気が付き出したことと、なんとなく嫌な予感も感じ始めていました。

小樽掖済会病院で治療に半年かかると言われた時のお気持ち

留年してしまう・・・それがあまりにも大きなインパクトで涙が出ました。病名すら聞いていない状況であったことや、治る病気しか経験が無いため、頭にあるのは復学の時期だけでした。

小樽掖済会病院から札幌市の札幌南一条病院に母親と一緒に救急車で移動したときの状況とお気持ち。

まさか救急車で搬送されるなんて・・・事の重大さに不安が大きくなっていました。まだ病名を知らされておらず、2人ともほとんど無言で高速道路からの景色をぼんやり眺めていた気がします。

札幌南一条病院で「生検」を受けた時の状況を教えてください。

注射すら予防接種くらいしか受けたことが無く、恐怖でいっぱいでした。仰向けで緑のシートを顔にかぶせられた状態で、6~7cm位刺すからとあらかじめ言われたものの、角度や深さを入念に探る時間が余計に恐怖をあおりました。

札幌南一条病院の呼吸器内科の先生から、夜、ナースステーションでがんの告知をうけた時、いかがでしたか

先生の言葉通り、自分の病気は悪性縦隔腫瘍というものなんだと思いました。努めてさらっと軽く聞いていました。とはいえ、“がん”という言葉は一切無かったものの、確か“悪性腫瘍=がん”じゃなかったっけ?とぼんやり思いましたが、敢えて確認せず、また誰にも聞かずまた調べもしませんでした。なので、しばらく悪性腫瘍と思い続けていました。

入院期間が半年くらいになるだろうと言われた時のお気持ち

やっぱり留年だと・・・。心の奥底にはこの病気が治るという意識が大前提としてありました。ただ、“薬が効かないと2週間が山場だ”と聞かされた時は、まさかそんなはずは無いと思いつつも、こころのどこかに引っかかっていました。

抗がん剤(BEP)治療はいかがでしたか?

最初の頃は、吐き気が強くても無理して食べていましたが、そのうち1週間食べなくても大丈夫だと自分で判断できたので、無理に食事を摂るのはやめました。また、4クール目位になると腕の血管でのルート確保にも手間取り、最終日の半ばでイライラも吐き気もピークに達し、鎮静剤を打ってもらいました。体力と精神力の限界でした。

19歳の少年が札幌市に一人で入院することの厳しさ

最初の1週間程は、治療や検査が苦痛でしたが、看護師さんの年齢が近いので、病室でおしゃべりできる時間など、毎日楽しいとさえ感じていました。逆に、退院の日にはとても寂しくなっていました。

大学1年生からがん治療で留年するということをどのようにとらえましたか?

もうしょうがない、まず早く治療して退院しようとだけ考え、3週間ごとの治療が伸びないように体調管理に気をつけることに切り替えました。

相部屋で高齢者患者の中に若者が一人というのはきつかったですか?

みなさんほぼ同じような病気(呼吸器のがん)だったと思いますが、明るい方も多く良く話しかけてくれたので辛くはありませんでした。しかし、退院された方が戻ってきた時は大きなショックを受けました。

テレビを見ていて「悪性腫瘍=がん」と知ります。その時のお気持ち

やっぱりそうだったかとショックでしたが、自分の思惑通り大きなインパクトにはなりませんでした。その時には抗がん剤も効いていることがわかっていたので。

若くしてがん患者となったことで家族に対する接し方は変わりましたか?

特に変わりはありませんでした。逆に家族は自分のことをどう思っているのかなあ・・・と思いましたが聞いたことはありません。

抗がん剤治療当時、死生観はありましたか?

特にありませんでした。

縦隔にある悪性腫瘍を取り除く手術は、肉体的・精神的にきつかったですか?

25cm位切った胸の痛みが強かったです。胸骨を切って内部にメスが入ったので、仰向けで寝ていても少し動いただけで、切った骨が“バキッ”動くような感覚と痛みがしばらく続きました。それでも起きあがって食事しなければならず大変でした。

腫瘍マーカーAFPが上昇し、追加の抗がん剤治療を勧められた時のお気持ち

まさか上がってくるなんて・・・。一瞬で落ち込みました。顔には出しませんでしたが、これまでの他の患者さんの状況等知識が増えていたので、この時の衝撃の強さが直後の右半身のしびれにつながったと今でも思います。 

自ら右半身のしびれを自覚し、脳への転移を疑った時のお気持ち

直前に”体のどこかにまだ腫瘍がある”と聞いたまさに直後だったので、すぐに頭だとわかりました。立っていられなかったので“このまま車いす生活になってしまうかも”と思いました。

治療前、放射線治療に対しどのようなイメージを持たれていましたか?

果たしてどれほど効果があるのだろうかと思いました。

脳に1cmの腫瘍があると言われた時のお気持ち

とりあえず1個だけで良かったと思いましたが、果たしてこれは治るのだろうかと思いました。

ガンマナイフという装置と放射線治療に対する感想

“最新で保険が効かないけどすごく良い装置だから”と言われるものの、事前に金属のフレームを4本のネジで頭蓋骨に固定させると聞いて、痛みへの恐怖が大きかった。“6歳の女の子もやったんだよ~”と看護師さんに何度も励まされたことを今でも忘れません。当時コンピューターの性能が低いためか、照射直前の位置を割り出までの時間や順番待ちの時間が長く辛かった記憶があります。

保険適用でなく130万円かかると言われた時のお気持ち

そんなにかかるなら、やらなくてもいいと親にちらっと言ったことがありました。両親には感謝しかありません。

ガンマナイフによる放射線治療を受けた経験について教えてください。

この装置が無ければ確実に今の姿の自分は無いでしょう。当時日本に2台しか無かったそんな装置が、入院していた隣の病院にあったのですから、ガンになったことを除くと、他は幸運の連続でした。

がん治療のあと弘前大学に復帰することへの不安について

髪の毛のみならず眉毛もすべて抜けてしまい、その姿のままでの復帰は嫌だと思いました。しかし、なんとか9月に復帰できれば留年は1年だけで済む目途がついていました。幸い、それなりに髪が生えてきた状態で復帰できました。

青森の弘前大学で学んでいながら定期的に北海道札幌市の札幌南一条病院と中村記念病院に経過観察で訪れることの大変さ

経済的に親には迷惑をかけてしまいましたが、体力的には全く問題なくバドミントン部にも復帰していました。

大学3年生のとき、脳にがんが再発します。その時のお気持ちを教えてください

治療の記憶もだいぶ薄れ、大学生活を楽しんでいただけに唖然としました。それでも、腫瘍は1つだけ、またガンマナイフが保険適用となっていたため、気落ちしながらも淡々と治療を受けました。

大学4年生の就職活動のとき放射線障害が出てきました。その時のお気持ちを教えてください

まさか?と思いました。足に障害が出る可能性はあると聞いていたものの、まあ大丈夫だろうと思っていたので、今後どうなるんだろうと思いました。

就職活動の際、がん治療を受けたことと放射線障害が出ていることを内緒にします。積極的に言わなくてもいい事でしょうが後ろめたいような気持ちはありましたか?

可能なら隠し事はしたくないので、内定をもらった企業に対して後ろめたさでいっぱいでした。そんなこともあって、あまり積極的に就職活動もできませんでした。

なぜアップルロードを走ったのですか?その時の状況について

歩道を歩くとつまずいたり、軽くジョギング程度に走ると股関節が痛くなりました。もう今後人生で走ることができなくなりそうだと感じた時、なぜかこれまで嫌いだった長距離走を走っておこうと思いました。5㎞ちょっとでしょうか?痛いので、1時間くらい走ったり歩いたりしました。

就職してわずか2ヵ月で入院します。何が起こったのですか

右腕にもわずかに麻痺が出てきて、職場で瓶を割ったりしてしましました。ガンマナイフでの放射線障害で脳が腫れてきて脳脊髄液の流れが悪くなり、流れが悪くなるからさらに脳が腫れるといった悪循環が起きているようでした。

退院後、会社から「無理しなくていい」と復職しないようにされます。その時のお気持ち

がん経験者が就職できるだろうか?という大学復帰当時の不安が的中した感じでした。また、その程度の会社にしか就職できなかった自分の努力不足や、体調の悪さは簡単には改善しないだろうとも感じていました。

右手・右腕が不自由になり左手を使わなくてはならなくなった時のお気持ちを教えてください

右手を使う練習を何とか続けようするのですが、指の隙間から箸やペンがすり抜けてしまうのです。病状からみて良くなる期待も持てないので、あるとき前を向くため、そして少しでも早く使えるようにスプーンは使わないと決め、箸は1か月で普通に使えるようになりました。

ハローワークで仕事を探されます。なぜ、なかなか次の仕事が見つからないのですか?

退院後間もなく行きましたが、“脳の腫れ”の改善は一時なものと思っていました。そんな中、担当者に“病気は治ったのですか”と言われたところで、自信を持って答えられませんでした。また、リハビリ補助という仕事を目指した病院の面接では、医師の院長自ら面接してくれたのですが、“うちの仕事には体力が必要、疲れて免疫力が落ちてまた病気になられると困る”と言われ、まさに八方塞がりといった感じでした。

金内さんにとって身体障害者手帳を申請するということはどういうことでしたか?

それを持つことの優位性がどれほどあるのかわからなかったことと、持つことの心情を考えてかなり葛藤がありましたが、大前提としてあった、自分の力で生きていくためにできることをした結果です。

1999年に脳浮腫の悪化により開頭手術を受けるとあります。どういういきさつで開頭手術を受けることになったのですか

露天風呂で入浴中突然右半身に大きな痙攣が起き、体が伸びきって溺れそうになりました。そのまま病院へ行き、少しでも改善させるためには大規模な手術の選択しかありませんでした。

理学療法士に憧れた理由

当時通っていた病院の担当の方と関わっているうちに、やってみたいなと思うようになり可能性を探りました。

理学療法士になるための専門学校を受験しようと勉強していた頃は、どんな仕事をされていたのですか

その頃は無職で予備校通いでした。言語聴覚士を目指していた3年間、日本自動車連盟(JAF)でデータ入力や電話応対のアルバイトをしていました。

理学療法士と言語聴覚士では、仕事の大変さがどのように違うのですか?

想像でしかありませんが、理学療法士は自分の体幹の強さが無ければ相手の体を支えることはできないと思います。対して、言語聴覚士は自身の肉体的強さより、心の支えをいかにできるだろうかという思いで目指す価値があると信じました。

北海道の職員試験も受けようと決めた時、どんなお気持ちでしたか?

目指す言語聴覚士養成校受験以外の勉強はしないと決めていましたが、受験勉強も3年目に入り、また年齢も30歳を超えてしまい後が無いと思っていました。合格できる訳が無いという思いでしたが、受験だけはしておこうと思いました。

北海道職員として合格した喜びについて

面接での試験官の反応から、“もしかしたらいけるのでは?”と思ったこともあってやっぱりと思う反面、“受かったよ~”と深く実感することになりました。

金内さんにとって仕事・働くということはどういうことですか?

仕事を通じてどこまで自分を成長させられるか。目指すのはそれに尽きます。

わずか19歳という若さでがんを発症し、その後の人生が変わってしまったことをどのように整理されていますか?

自分を成長させるために起きた“かけがえのないこと”のように思います。病気のおかげで、それが無かった場合の人生よりも遥かに成長させてくれました。ありがたいものだと思っています。

放射線障害に対する思いを教えてください

約20年悩まされましたが、ガンマナイフが無ければ今の自分は無いので、腐れ縁という感覚でしょうか。

理学療法士、言語聴覚士と何度にも渡り挑戦し続けました。当時の心境をおしえてください。

当時の唯一の希望でした。これに合格できさえすれば未来は開ける。だから努力を続けられたし、諦めることもありませんでした。また、同級生の状況と自分を比べてはいけないと言い聞かせていました。

小学校の事務職員という仕事を得て思うこと

たまに子供たちに話す機会があるのですが、これまでの経験を話すために自然と導かれてきたのかなと思っています。

児童たちと10分間走をされていかがでしたか

当初なんとか1周だけは走ろう、きっと子供たちの心に何かは残るだろうからとだけ考えて走っていました。4年の間に次第に麻痺は進行しましたが、手術後改善し2周以上走れるようになるなんて夢のようです。

いまある障害の状態と現在の体調について

当初に麻痺が出た頃の程度まで改善してきました。なんとか右手で字も少し書けるようになっています。

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】

  1. 読書の習慣
  2. 人生の目標(ミッション-使命)
  3. 人生には無駄なことは何一つ起きないという考え方

【失ったもの】

  1. 右半身の自由(一時的なものと思っています)

大切にしている言葉

  • 苦しみも悲しみも人生のスパイスだ。少しくらい辛いからといってそこから逃げるな。自分の2本の足で立て。(落合信彦)
  • ミッション-使命

現在治療中の方々に伝えたいこと

なかなか先を見通すことは難しいと思いますが、将来の自分の姿をイメージすることも力になると思います。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

難しいとも思いますが、努めて自然体でいてくれることもありがたいかもしれません。

金内さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。

スポーツクラブでの運動を続けています。マスターズ陸上にも入会したので、走り幅跳びへの出場とその記録の更新を目指しています。また、将来のマラソン完走を夢見て、いずれ5km程度のマラソン大会に出場するイメージを描いています。

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  1. 悪いイメージを持つこと
  2. “~しなければいけない”“~してはいけない”とこだわること
  3. 人と比べること

がん患者がするべきこと(3つ)

  1. 前向きの良いイメージを持つこと
  2. 自分の選択を疑わない、信じること
  3. 素直な心、自然体でいること

当時参考にした本

当時あまり読んでいなかったため、今まで読んだ本で良ければ・・・

  1. マスターの教え「ジョン・マクドナルド」
  2. J・マーフィーの教え 最高の自分を引き出す法「井上裕之」
  3. ③ 思考は現実化する「ナポレオン・ヒル」

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取材:大久保淳一

この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
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