悪性縦隔腫瘍(胚細胞腫)、転移性脳腫瘍、放射線治療後の脳浮腫 ステージ4 サバイバー 金内大輔さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】金内大輔さん 悪性縦隔腫瘍、転移性脳腫瘍、他 ステージ4 サバイバー
- 第1話「止まらない咳」
- 第2話「命にかかわる病気」
- 第3話「悪性縦隔腫瘍(胚細胞腫)」
- 第4話「5クールのBEP療法」
- 第5話「外科手術と肺転移」
- 第6話「がん病棟で迎えた二十歳の誕生日」
- 第7話「脳転移」
- 第8話「ガンマナイフによる放射線治療」
- 第9話「再びの大学生活」
- 第10話「放射線治療の後遺症と病気差別」
- 第11話「思うようにいかない毎日」
- 第12話「繰り返して再挑戦」
- 第13話「1通の通知」
- 第14話「報われない努力はない」
第10話「放射線治療の後遺症と病気差別」
大学1年生の時に発症した悪性縦隔腫瘍(胚細胞腫)から3年後に脳に再発し2回目の放射線治療を受けた北海道余市郡在住の金内大輔さん(44歳、1997年当時24歳)は、就職活動中に放射線障害が出てきて悩んでいた。
1997年3月、金内さんは弘前大学を卒業した。
そして支店が小樽市にもある酒類販売の会社に就職した。
自宅から車で10分程の職場だった。
いよいよ新社会人スタート。
しかし入社して2ヵ月後の6月、右脚の麻痺が悪化し、更に脳の腫れも症状として出てしまい入院。
ガンマナイフによる放射線治療の後遺症だった。
2週間ほどの入院で症状が改善したので復職しようと思い札幌市の本社に電話した。
いつから職場に戻ったらよいか指示を仰ごうと思ったからだ。
この時の会社の人事部の対応を一生忘れることはできない。
「金内さん、僕たちは君の病気のことを知らなかったよ。身体が第一だからさ、無理をしなくていいよ。もう無理することはないからさ」
その一点張りで、明らかに辞めさせたいという対応だった。
それでもと思い熱意を見せたが、繰り返し無理しなくていい(=復帰しなくていい)と言われ、会社に戻らせないようにされた。
悔しい…、これじゃ病気差別じゃないか。
だがこの状態でこの会社に復職しても毎日つらい目にあわされ自分は幸せになれないと感じた。
だから、会社の思うつぼだったが、6月末で辞表を提出し退職。
わずか2ヵ月の会社となった。
一方、体調はというとあまり良くなかった。
右半身の麻痺がじわじわと進み、利き腕の右手で箸を持つことができなくなっていた。
当然、字も上手く書けない。
だから使い慣れていない左手を使えるように練習を始めた。
なんだろう…、どんどん先の見えない生活になってきた。
実家で日中は母と一緒。
母親が用意してくれるお昼には、スプーンが出ていることがあり複雑な気持ちになった。
仕事は何でもいいと思い、ハローワークで再就職活動を始めたが、そこでも病気が治ってからにしたらと言われるし、自分もいまいち積極的になれず上手くいかない。
心のどこかで右腕と右脚に麻痺があることを負い目に感じていた。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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