浸潤性乳管がん トリプルネガティブ 遺伝性乳がん(BRCA2異変)サバイバー 依田福恵さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】依田福恵さん 乳がん ステージ1 サバイバー(トリプルネガティブ)
- 第1話「乳がんの確定診断」
- 第2話「幼少から社会人になるまで」
- 第3話「母のがん」
- 第4話「交際相手のレントゲンに写る影」
- 第5話「交際相手のがん」
- 第6話「がんの転移」
- 第7話「唐突な知らせ」
- 第8話「全摘か部分摘出か」
- 第9話「始まったがん治療」
- 第10話「左胸の全摘と乳房の同時再建」
- 第11話「抗がん剤治療と復職」
- 第12話「色々なことが起こった2年を越えて」
第8話「全摘か部分摘出か」
20年余り夫のような存在として週末に一緒に暮らしてきた孝之さん(仮名)が肺がんになり、自らも乳がんの可能性があるとして検査を受けていた東京都東村山市在住の依田福恵さん(54歳、2014年当時49歳)は、国立がん研究センター中央病院の初診の前日に孝之さんの死亡を知らされた。
あまりにも唐突な「死亡」の知らせだった。
その社員の説明では、がんそのものではなく治療していた他の病気が悪化して息を引き取ったという。
会いたくても病院での面会が許されず、ついに1度も見舞いに行けなかった。
それなのに、もう2度と会えなくなってしまった。
静まり返った真夜中の部屋でただ茫然(ぼうぜん)として、何も考えられず眠りに落ちた。
依田さんは翌日予定通り国立がん研究センター中央病院に行った。
さっそく診察されしこりが確認される。
「きちんと検査して詳しく調べましょう」
医師からそう言われ、後日の検査スケジュールと手術予定(11月18日)が組まれた。
検査は、CT画像検査、超音波検査、マンモグラフィー、血液検査、3日間に分かれて行われた。
検査結果を聞く予約は10月30日。
この2週間のことはよく覚えていない。検査を受けているのだが孝之さんの死を信じられず、流されているような毎日だった。
そして迎えた検査結果を聞く10月30日。
呼ばれて診察室に入ると医師がちょっと驚いた顔をして言う。
「ひとりで来たの?」
孝之さんが他界したあとだっただけに、その言葉が胸に突き刺さった。
「じゃあ、検査結果が出たから結論を言うと悪性でした。がんです。でもそんなに大きいもんじゃないから手術して取りましょう」
左胸を全摘するか、部分摘出にするか依田さんがあとで決めることになった。
乳がんの告知。
もし孝之さんが生きていたらこんなつらいこと一人で聞かずに済んだ、一緒に聞いてくれただろうに。
それから病院内にある電話ボックスに入り泣いた。
あふれる涙が止まらなかった。
打ちのめされたような気分なのに、これから大事なことをたくさん決めなくちゃいけない。
手術は全摘にするのか、部分切除か?
乳房の再建はやった方がいいのか?
彼と一緒に生活したマンション、解約手配から家具の処分まで、全部やらなくちゃいけない。
何から手を付けていけばいいのか解らず、さらに気分が落ち込む。
絞り出すように5歳年下の従妹(いとこ)に電話した。
「急にゴメン。実はね、乳がんになっちゃったの…」
驚いた従妹は親身になって聞いてくれた。親戚関係者への連絡は彼女が手伝うが、父親への報告は依田さんが自分できちんとしなくちゃいけないと諭すように言った。
きびしい虚無感のなか、やらなきゃいけないことをやり始めた。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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