浸潤性乳管がん トリプルネガティブ 遺伝性乳がん(BRCA2異変)サバイバー 依田福恵さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】依田福恵さん 乳がん ステージ1 サバイバー(トリプルネガティブ)
- 第1話「乳がんの確定診断」
- 第2話「幼少から社会人になるまで」
- 第3話「母のがん」
- 第4話「交際相手のレントゲンに写る影」
- 第5話「交際相手のがん」
- 第6話「がんの転移」
- 第7話「唐突な知らせ」
- 第8話「全摘か部分摘出か」
- 第9話「始まったがん治療」
- 第10話「左胸の全摘と乳房の同時再建」
- 第11話「抗がん剤治療と復職」
- 第12話「色々なことが起こった2年を越えて」
第2話「幼少から社会人になるまで」
椎間板ヘルニア、骨化症、乳がんと次々と病気を患う母親をみて育ってきた東京都東村山市在住の依田福恵さん(54歳、2014年当時49歳)は、多感な幼少の頃に我慢することが多かった。
昔から「自分がしっかりしなくちゃいけない」と感じ子供らしいやんちゃな時を過ごせなかった依田さんも20代の社会人になった。
大人だねと言われて育ってきたためか成人した自分に違和感を感じたこともあった。
以前、アダルト・チルドレンという幼少の頃に機能不全の家庭に育った人が成人してもトラウマに悩む話を聞いたことがある。
機能不全の家庭に育ったわけではないが、もしかしてそれに近いのかなと感じた。
そして25歳になった時。
骨化症が悪化した母親は、手術を受けたがその後自力で立って歩けなくなってしまった。
まだ50代半ばにもかかわらず車椅子の生活になる。
母親は依田さんとは対照的な人で自分の感情を表に出し、よく泣いていた。
そんな母親をみて半分うらやましと思うときもあった。
精神的に強い人が精神的に弱い人に対しいだくような感情。自分でも不思議な気持ちだった。
母親が不自由な車いすの生活になってから、父の生活も変わった。
それまでは伝統的な仕事いっぺんやりのモーレツ・サラリーマンだったのに、時短勤務の仕事に変更し妻の面倒を見る夫になった。
家族のために自分のキャリアの進路を変えた人だったが、相変わらず依田さんとの会話はなく、いつも一緒にいて気まずい関係のままだった。
依田さんは、学校を卒業してから電子部品を専門に取り扱う商社に入社した。
その後、いくつかの会社を経験し、25歳の時に今の会社に派遣社員として入り、後に契約社員となる。
大手の建設会社の契約社員で、プロジェクト的に新規の建設案件が始まるたびに設置される現場事務所の事務員の仕事だった。
プロジェクトは1年未満の短期なものから数年がかりのものまであり、その都度、現場事務所が移り替わる。依田さんの通勤場所もそれに伴い替わると言う環境変化の多い仕事だった。
入社して6年目の31歳の時、依田さんの人生に大きな衝撃を与えることが起こる。
車いす生活の母親が「胆管がん」を発症したのだ。
乳がんに続く2つ目のがんで、見つかったときはかなり進行した状態だった。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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