【インタビュー】乳がん(トリプルネガティブ) ステージ1 サバイバー 依田福恵さん

浸潤性乳管がん トリプルネガティブ 遺伝性乳がん(BRCA2異変)サバイバー 依田福恵さんのインタビューです。

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目次

基本情報

名前: 依田福恵さん >>5yearsプロフィール
年代: 50代、女性
病名: 浸潤性乳管がん トリプルネガティブ 遺伝性乳がん(BRCA2異変)
進行: Ⅰ期
発症: 2014年
治療: 左乳房全摘出同時再建手術・化学療法(AC+パクリタキセル)
    
期間: 2014年11月~2015年8月
合併症:抗がん剤中の帯状疱疹
職業: 契約社員(当時)
生命保険:かんぽ生命、アフラック医療保険、アフラックがん保険

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子供の頃、病弱なお母さんを身近にみて、どのようなお気持ちでしたか?

色んなことを我慢してきたので、自分が将来大人になったら運動会で一緒に走れるような元気なお母さんになってあげるんだと思いました。

お母さんが「乳がん」を患ったことをどのように受け止めましたか?

身近にがんの患者が居なかったし、まだ学生だったので怖い病気という観念がなかったかもしれないです。あまり覚えていないのですが、がん=『死』と言う文字は出てきませんでした。また入院か・・・というくらいだったと思います。

母親が受けた余命宣告を聞いたときのつらさについて教えてください。

この時はもう大人だったのですが、母の余命を聞いたときは何も考えられず・・・
父親の告知の仕方に腹が立ってしまって・・・時間とともにじわじわと『死』と言うものが迫ってきた気がします。
悲しい気持ちもあったけどいろんな意味で不安もあったと思います。本人には告知していないから隠さなくてはいけないというプレッシャーもあったし、母が亡くなったら父と二人で生きていかないといけないのが嫌でした。

家族の死というものは、どのように受け入れましたか?受け入れられませんでしたか?

とにかく母はいろいろな病気で入院している期間がたくさんあったので、葬儀をした後も亡くなったと言う気になれませんでした。まだ入院しているものと思い込むようにしていたのかもしれないです。

孝之さんの「肺がん」を聞いたとき、どのように感じられましたか?

1度目の検査では大丈夫と言われていたので早期発見できてよかったと思いました。

孝之さんの病院に付き添えないことは不安でしたか。

隠し事は出来ないし、ちゃんと話してくれると思ったので不安はなかったです。

抗がん剤によって孝之さんのがんの大きさが小さくなったと聞かされます。これは本当のことだったのですか?それとも心配させないように孝之さんが言われていたのだと思いますか?

嘘はすぐばれる人だったので(笑)本当だと思います。本人はすごくうれしそうでした。タバコもすっぱりやめていました。

孝之さんと連絡が取れなくなり、友人から脳への転移が見つかったと聞かされます。どんなお気持ちでしたか?

杖を突いてヨタヨタしている状態を見ていたのである意味納得しました。でも、絶対に良くなって帰ってくると思っていました。

お風呂に入ったとき、胸にコリコリしたものを見つけます。どのように感じましたか?

胸にしこりがあることは、はっきりしていたので、とにかく病院に行かなくては!!!と思いました。

大きな病院ではなく、近くのすずらんクリニックで診てもらったのはなぜですか?

どこに行って良いかわからなかったと言うのが一番の理由です。その年の初めに、その病院にかかっていたのもあってすぐ思い浮かんだんだと思います。

クリニックでエコー検査を受けて、もっと大きな病院で診てもらった方がいいと言われます。どのようなお気持ちでしたか?

母も同じ病気でしたが、乳がん自体は根治していたのでそんなに怖い病気と言うイメージはなかったです。早くちゃんと診てもらってはっきりしたいと思いました。

契約社員というお立場なのに、検査で病院に行くことが増えます。会社とのコミュニケーションで苦労されたことはありましたか?

その前の年にも膝の半月板損傷で手術をしていてお盆休みを挟み1ヶ月近く休んだり松葉杖で通勤した事があったので申し訳ない気持ちはありましたが、ちょうど工事が終わったところだったので、タイミングよくその時点では、会社とのコミュニケーションで苦労はありませんでした。

部下の方から夜中に孝之さんの死を知らされます。どのようなお気持ちでしたか?

次の日、初の病院だったのでベッドに入って寝るところでした。とにかく良くなっていると言われていたので信じられませんでした。泣きもせず何も考えられず寝てしまいました。

国立がん研究センター中央病院で詳しく検査されていた頃のことを教えてください。どんな状況でしたか?

子供の時から母について行って病院は慣れていたし、淡々と検査をしていたと思います。
彼の亡くなったことや自分の病気のことはあまり考えていませんでした・・・たぶん。
考えられなかったのか、考えたくなかったのか…解りません。担当の先生がまぁまぁイケメンとか、築地場内の食堂を制覇しようとか考えていました。

国立がん研究センター中央病院で「がん」の告知を受けます。その時の状況を教えてください。

乳がんかもしれないと言う事は会社の人以外誰にも話していなかったので、その日も一人でした。
先生に『一人で来たの?』と聞かれ普通は家族とか連れ立ってくるような大変なことなのかな?と思いました。
彼が亡くなっていなければ付き添ってもらえた・・・と思うと淋しかったです。
告知された後は、それまで1度も涙を流すことはなかったのですが、いろんな気持ちが一気に溢れて院内の電話BOXで初めて泣きました。

がんの告知を受け手術入院までの間、孝之さんの事務所の解約・整理等で忙しくされています。むしろ不安に思ったり、心配する時間が減って、よかったですか?

良かったです。平日は仕事をしていたけれど、休日は中学からの親友や会社の友達が手伝ってくれて一人で居ることが少なかったのがとてもありがたかったです。

がんの手術入院で休暇をもらいたいと会社に伝えたとき、どんな不安がありましたか?

当初、医師から同時再建をした場合でも入院は2~3週間くらいと言われていました。しかし、退院後すぐに仕事に戻れるかどうかが不安でした。ただ、翌年度の契約更新をしたばかりだったので少しホッとしていました。

依田さんにとって仕事とは何ですか?

生きていくための収入源。仕事は嫌いではないですが、やりたい仕事というわけではないので…。ただ職場のみんなが好きです。

全摘か部分摘出か?何を悩み、どのようにして決めましたか?

腫瘍のあった場所が胸の上部だったので、部分摘出での形を気にしました。
もともと胸が大きかったので、『そんなに引っ釣れたり、小さくはならないと思う』と主治医には言われたのですが、ジムに通っていたのでその時の服装などを考えました。
私の場合、インプラントでは大きさ的に無理があったので自家組織しか選択がなかったのですが、先生の『お腹もすっきりするよ』と言う台詞にもちょっと惹かれました(笑)。
また、部分摘出の場合は1ヶ月間毎日放射線を当てなくてはいけないのですが、病院が家から遠く朝一に通うにしてもラッシュの電車に乗るのは辛いのではないかと思いました。
一番の決め手は早期で全摘は局所再発の可能性が0に近いと言う事だと思います。

乳房の同時再建手術を選んだ理由はなにですか?

母は全摘のままでした。その傷も見ていたので、胸のない状況は考えられませんでした。
それに、下着にパッドなどを入れることも出来るのですが大きさ的にうまくいかないと思いました。後から再建するよりも1度で済むというのも良かったです。

乳房の全摘と同時再建を選ばれていかがでしたか?

部分摘出していたとしたらの状態がわからないので比べられませんが、やはり同時再建も大きくなると1度で皮膚がうまくつかなかったりしてお直しのプチ手術も何度もしてもらっています。
なので乳がんの方すべてに自信を持ってお勧めするか?と言われると悩みます。
今年も秋に再びお直しの手術をする予定です。自家組織なのでお腹の傷もかなりすごいです。ただ、ぬくもりがある事、私の場合再建後しびれ感はあるが感覚がある事、その点はお勧めです・・・傷を作りたくない場合はインプラントをお勧めします。
それと後からわかったことですが、遺伝性乳がんであったので、同じ乳房にもがんを発祥することもあるので全摘で良かったと思います。

依田さんにとって胸を失うと言うことは、どのようなつらさでしたか?

彼を卒業できても、がんで胸も1つなくて傷もたくさんあって・・・遺伝性と言うリスクもあって、もう自分を好きになってくれる男性は居ないだろうな・・・と悲しかったです。

手術のあと、体調がよくありません。その状況を教えてください。

まず手術の麻酔の副作用で、3日近く気分が悪く起きれませんでした。
3日後に自力でトイレに行きたくて尿管はずしてもらい起きられるようになりました。
その後もお腹の脂肪をかなり取ったからか下腹部の痛みがすごかったです。
たまにベッドで体勢を変えると激痛があったり、痛くてまっすぐに立てない感じです。
でも動かないのはいけないと思い、毎日すこしずつ病棟フロアーを歩いていました。

退院したあと、自宅に帰るとお父さんが頭を打って様子が変でした。どのように感じましたか?

親友が退院のときに車で迎えに来くれたので家までの移動は助かりました、それでも本調子ではなかったので家についたらすぐに横になりたい!と思っていたので『こんな時までこの人に辛い思いをさせられるのか・・・』と思いました。

患者でありながら、親の看護・介護をするのは、どういった大変さがありましたか?

看護・介護と言うほどのものはなかったのですが、とにかく初日が一番辛かったです。
自分の体が思うように動かないし体力もない状態で、救急車を呼び同乗し病院で検査を長い時間待つ。普通に座っていられませんでした。
病院も近所に空きがなく、1時間ほどかかる遠いところに入院してしまったのでそれも辛かったです。
洗濯物を持っていくのにも往復で2時間以上・・・とにかく体力がなくなっていたのでとても大変でした。

がん患者が親の介護・看護をするには、どういったことが大切になりますか?

今の自分ならある程度のことは出来ますが、手術後、抗がん剤治療中などは無理だと思います。
他の家族の手助けは必要だと思います。私は一人っ子なので近くに頼る人が居なかったのですが、それでも叔父に助けを求めました。
自分で何でも頑張ろうとしないことが大事だと思います。
甘えられるときは無理せず甘えることが大切です!

抗がん剤(AC)療法は、いかがでしたか?

手術後、会社の先輩から連絡が来て『私も同じ病気だよ』と言われ抗がん剤についても先に聞いていました。
ACは『赤い悪魔』と呼んでいたと言うので私も便乗しました。
私は結構トイレが近くなって点滴持ってトイレに行くのが面倒でした(笑)
そして聞いていたとおりに赤いおしっこがでるのにもびっくりしました。
抗がん剤のイメージはドラマの『おえっ』っと吐いてしまうものだったのですが、吐き気止めなど良いものが出ていて気持ち悪いと思うことはあっても、吐くことはなくて、これなら耐えられるなと思いました。
そしてあの脱毛・・・結構面白かったです!
これは本当にテレビよりすごくて・・・ちょっと変な感動を覚えました。
お風呂場のゴミ箱が山盛りの髪であふれました。痛くないのもまた不思議でした。
ハゲてもそこそこ見れるから、そんな不細工じゃないかな?とかお茶目なことおもったりしてました(笑)

抗がん剤治療を受けながら、仕事をすることは、どのような大変さ・つらさが有りましたか?

私の仕事は普通とちょっと違うのかもしれません。
とても幸せなことですが、事務所のメンバーが私の体調をわかってくれていたので無理せず仕事をしていました、
3週間に1度、金曜日のお昼で早退し、午後病院で抗がん剤、そして土日プラス月曜日に休みを取ってピークをやり過ごし、火曜日から仕事。
でも、やはりまだ気分が悪かったりするので辛いときは更衣室で横にならせてもらったり食事も食べたいときに食べたいものを食べさせてもらいました。
辛い体調をおしてしなくてはいけないような急ぎの仕事は無いので自分である程度計画を立てて楽なときになるべく進めてしまうようにしました。
あと、なぜか火曜日の朝通勤電車で座っているのに貧血状態になることが多々あり、それはかなり辛かったです。

ウィッグと帽子の使い分けを教えてください。

通勤はウィッグを使っていました。
仕事中ずっとウィッグだと蒸れたりして嫌だったので事務所についてからは帽子にしました。あと友達と出かけたりする時はやはりウィッグをかぶっていました。
私は安めの物を沢山買って、地毛では出来ないような髪型を楽しんでました♪
気分転換にスポーツクラブに行くこともあったのですが、体を動かすときは綿の薄い帽子をかぶってやっていました。外にいるときはウィッグ、室内は帽子と言う感じです。

再発の不安におびえていた頃の状況を教えてください。

おびえるまでのことは無かったかと・・・。死んでも彼が迎えに来てくれるかな~?とか考えていました(笑)

乳がん「トリプルネガティブ」についてどのように感じましたか?

彼の死があったので、始めは病気についてはあまり詳しく調べていませんでした。
なので単に、ホルモン剤が効かず、分子標的薬も効かず、抗がん剤しか治療が無い種類なのでしっかり抗がん剤治療をするしかないと思いました。(主治医の説明通りですが)
ただあとになってゆっくり調べていくと、私の場合遺伝性のものなので乳がんになる可能性は最高12倍、卵巣がんについては最高60倍というデータ見て、これからずっと気をつけていかないといけないんだな・・・と思いました。

治療中、リハビリ中、心の浮き沈みに、どのように向き合いましたか?

入院中は彼の死を忘れていられて良かったです。
とにかく朝晩主治医を含めたくさんの先生が診に来てくれるし、寂しくなかったです。
先生や看護師さん、同室の患者さんにも恵まれてもっと入院していたい!と思っていたので退院が近づくと精神的に不安定になりました
その時は、廊下で外を見ていても涙が出たりして、フロアーのお風呂を予約してもらってお風呂場で泣いたりしました。
とにかく辛かったら泣くことにしました。
そして楽しみを見つけるのも大事でした。
好きな先生とおしゃべりできるとか・・・築地でおいしいランチ食べるぞ!とか(こればっかり 笑)

女性のがんである乳がんと性的な尊厳について

難しい質問ですね。
乳房は女性の一番わかりやすい目立つ女性部分ではないかと思います。
それを失うのはやはり辛いこと。
私もこの年齢になってもやはり乳房を失うことは女性で無くなる様な気持ちになったこともあります。
胸があるなしで好き嫌いを判断する男なんてこっちから願い下げだ!って開き直っても、見られるのも怖いから恋愛も出来ない。
自分も乳がんと彼の死を克服して、新しい恋愛が出来たらいいな・・・と思います

2つ目の抗がん剤「パクリタキセル」治療はいかがでしたか?

こちらはACに比べると『らくちん』でした。
アルコールが入っているのでお昼過ぎの点滴でお昼寝爆睡状態(笑)
もっと寝ていたい気分でした。
気持ち悪くなることは無いのですが・・・手と足に痺れが出ていまだに少し残ってます。

再発の不安、その怖さについて教えてください。

なったらその時の最善のことをするだけだと思っています。
あまり辛いのは嫌だけど、病気にならなくても何が起こるかわからないし・・・。
たぶん、大恋愛をしていたらぜったい死にたくないから不安になるだろうな~。

愛する人を失うと同時に乳がんになったことをどのように整理していますか?

人は人生の中で辛いことがこれでもか!って重なるときがあるんだよって誰かに聞きました。
彼がやきもちをやいて乳がんにしたのかな~?と思ったりしましたけど、時系列的に無理だし・・・。
甘ちゃんの私に試練が与えられたのだと思っています。

乳がんが依田さんにもたらしたものはなにですか?

辛い出来事を乗り越える力?(乳がんだけではないと思いますが…)
あとは大切な友人の再確認が出来たことは幸せでした。

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】

  1. 友情
  2. 素敵な出会い

【失ったもの】

  1. 乳房

大切にしている言葉

やらずに後悔するなら、行動して反省しろ!

現在治療中の方々に伝えたいこと

乳がんは他のがんに比べて生存率も高く、怖い病気ではないと思います。
ネットなどでは間違った情報、たまたま悪い情報が目に付くことが多々あります。
たまたま進行した有名人が表に出るだけで、一般的に言ったら再発しない人のほうが断然多いです。
だから変に怖がらず、正しい治療をしっかりして欲しいです。
特に小さくして温存以外の術前抗がん剤はお勧めしません!
爆弾は早く取っちゃってください!
そして暗くなるのは一番だめですよ!

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

癌だからと暗くならないで欲しいです。
そして無理に頑張りを押し付けるようなこともしないで欲しいです。
必要以上に気を使わないで欲しいです。放っておいて欲しいときのほうが多いです!
普段通りに、風邪を引いた時にちょっと優しくなるような感じが私だったらうれしいと思います。

依田さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。

【やってること】
週一くらいで一人カラオケしてストレス発散!
一人なので泣きたくなったら泣けます♪
正直に生きてます!

【やりたいこと】
主治医にも言われてるのでダイエットしたいです(笑)
早く股関節の痛みと手足の痺れが取れてジムではじけたい!
前から思っていたのですが、カウンセラーまでは行かなくても、悩んでる人の助けが出来たらいいな・・・と

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  1. 無理すること
  2. 自分だけで解決しようとすること
  3. 人と比べること

がん患者がするべきこと(3つ)

  1. やりたいことをやる
  2. 楽しみを見つける
  3. 何でも話せる人を一人でいいから見つける

当時参考にした本

名医が語る最新・最良の治療 乳がん

>>依田福恵さんの がん闘病「ストーリー」はこちら

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この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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