小児がん(神経芽腫) ステージ4 サバイバー 赤荻深雪さんインタビューです。
目次
- 1 基本情報
- 2 当時、小児がんの患者家族が、病棟に住み込んでいたと伺いました。これは、お母さま方が一緒の入院ベッドに寝て過ごしていたのでしょうか?それとも別室があったのでしょうか?
- 3 入院当時、小児がんの子供たちがいた大部屋(相部屋)には、何歳くらいから小学校何年生くらいまでの子供がいたのでしょうか?
- 4 治療を受けていた頃、ご自分はどんな病気だと理解されていましたか?
- 5 入院中は、意外と楽しかった思い出しかないと伺いました。とても驚いたのですが、子供たちの病室の雰囲気は、暗くなく、むしろ明るい感じだったのでしょうか?
- 6 当時、お父さまは単身赴任だったとのことですが、休みを取って見舞いに来られるとか、お母さまの交代役を週末されたとかあったのでしょうか?
- 7 抗がん剤治療により、3歳の女の子なのに髪の毛がなく、祖母にかつらをお願いします。自分の髪の毛が抜けてなくなることをどのように理解されていましたか?
- 8 母親が主治医と廊下で真剣に話している光景が記憶にあると言われました。お母さまが泣かれているとか、暗く沈んでいるような記録はありますか?
- 9 退院後、保育園に戻った当初は、集団行動に馴染めなかったと伺いました。2年も経つとお友達の雰囲気は、全然違っていたのでしょうか?
- 10 小学校2年生の時、自身が小児がんを患い、当時、入院していたときのお友達で生き残っているのは深雪さんともう一人だと母親から知らされます。その時、友達の死をどのように感じましたか?ご自分の将来に不安を感じましたか?
- 11 成人していく過程で、身体にある手術のあとをつらく感じたというような経験はあるのでしょうか?
- 12 成人してから、小児がん手術の影響で「ホルネル症候群」があると説明された時のお気持ちを教えてください。
- 13 26歳の頃、頭痛で悩まれます。これは、小児がんの治療の影響が20年以上たって現れたとお考えですか?
- 14 29歳になった時、当時、入院病棟に研修医としていた医師とふとしたことで再会します。その経緯を教えてください。
- 15 お母さまは2015年の夏から体調を崩されますが、吐血されるまで病院には行かれなかったのでしょうか?
- 16 医師から「スキルス胃がん(ステージ4)。肝臓、卵巣に転移。腹膜腫播種有り」余命が1ヵ月と言われます。その時のご家族の心境はいかがでしたか?差し支えない範囲で教えてください。
- 17 抗がん剤治療(TS-1、シスプラチン)が効果を示し、外科手術も無事に終わります。その後、お母さまは仕事に復帰されますが、ご家族は、もう大丈夫だろうと安心されていたのでしょうか?
- 18 その後、再発の知らせを聞いたとき、どのように感じられましたか?
- 19 大切なお母さまをがん(スキルス胃がん)で失い、がんに対するイメージは、どのように変わりましたか?
- 20 取材させて頂いたとき、小児がんの患者は、とかく可哀そうに思われがちであるが、ご本人たちは意外と病室で楽しそうにしているとか、深雪さんの場合、楽しかった思い出が多いと言われていました。世間が想像するイメージと、実際の子供たちの状況について、ズレているとお考えでしょうか?
- 21 インターネット検索をしたとき、がん治療の後、元気になった人の情報が少ないと感じられ、今回の取材にご協力頂きました。やはり、がんになるとご本人もご家族も、勇気づけられる情報が欲しいものでしょうか?
- 22 改めて、小児がんを経験されて、いま感じることは何でしょうか?
- 23 がんになって失ったもの、得たもの
- 24 大切にしている言葉は何ですか?
- 25 現在治療中の方々に伝えたいことを教えてください。
- 26 現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいことを教えてください。
- 27 深雪さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいことは何ですか?
- 28 がん患者がしてはいけないこと(3つ)
- 29 がん患者がするべきこと(3つ)
- 30 周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉
- 31 周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉
基本情報
名前: 赤荻深雪さん >>5yearsプロフィール
年代: 30代、女性
病名: 小児がん(神経芽腫)
病理: 神経芽腫
進行: ステージ4
発症年月: 1986年
発生時年齢:3歳
受けた治療: 抗がん剤(シスプラチン、エンドキサン)治療、外科手術(左縦隔神経芽腫摘出術(左開胸))
治療期間: 1986年~1988年(3歳~5歳)
合併症: C型肝炎、ホルネル症候群
職業: 会社員
当時、小児がんの患者家族が、病棟に住み込んでいたと伺いました。これは、お母さま方が一緒の入院ベッドに寝て過ごしていたのでしょうか?それとも別室があったのでしょうか?
当時は付き添いの保護者用の施設などはなかったと聞いています。いつも私が寝付くまで絵本を読んで寄り添ってくれていましたが、そういえば一緒のベッドで眠ったという記憶がありません。点滴も常時していたので、そういった事は不可能だったんでしょうね。
入院当時、小児がんの子供たちがいた大部屋(相部屋)には、何歳くらいから小学校何年生くらいまでの子供がいたのでしょうか?
大体自分と同じ3歳~小学校低学年ぐらいのお子さんがいらっしゃったと思います。年長の子はみんなからも「お兄ちゃん」と呼ばれていた記憶があります。
治療を受けていた頃、ご自分はどんな病気だと理解されていましたか?
どんな病気か詳しくはわからないけど「自分は病気」「病気を治さないとお母さんとずっと一緒にいれない」という理解のみだったと思います。
入院中は、意外と楽しかった思い出しかないと伺いました。とても驚いたのですが、子供たちの病室の雰囲気は、暗くなく、むしろ明るい感じだったのでしょうか?
毎日遊んで暮らしていました(笑)抗がん剤治療中などは、きっとそれどころじゃなかったと思いますが、後に残ったのは結局楽しい思い出だけです。ベッドの上で同室の子と戦隊ごっこをしたり、おままごとや折り紙、お母さんからは文字の読み書きも教えてもらいました。小学生の子たちはテーブルで勉強をよくしていました。都合の良いことばかり覚えているだけかもしれませんが、こうして明るいイメージだけ残っているのも、きっと周りの方々に優しくして頂いたおかげだと思います。
当時、お父さまは単身赴任だったとのことですが、休みを取って見舞いに来られるとか、お母さまの交代役を週末されたとかあったのでしょうか?
週末交代してなどはなかったと思います。一度か二度お見舞いに来てくれたり、途中外泊の時に家にいたかなってぐらいは覚えてます。
抗がん剤治療により、3歳の女の子なのに髪の毛がなく、祖母にかつらをお願いします。自分の髪の毛が抜けてなくなることをどのように理解されていましたか?
髪の毛がなくなった当初は、病院では周りの子はみんな同じ丸坊主ですし、気にしてなかったと思います。外泊許可が出て外に出た時に「あの子丸坊主なのにスカートはいてる!」って言われたのがショックで落ち込んでいたというのを母から聞きました。
母親が主治医と廊下で真剣に話している光景が記憶にあると言われました。お母さまが泣かれているとか、暗く沈んでいるような記録はありますか?
私の母は気丈な人だったので、私の前で泣いたり弱音を吐いたりすることはありませんでした。その廊下で見た光景が唯一、母が泣いている場面です。この印象がとても強く、早く元気にならなきゃと子供ながらに思ったのを覚えています。
退院後、保育園に戻った当初は、集団行動に馴染めなかったと伺いました。2年も経つとお友達の雰囲気は、全然違っていたのでしょうか?
まったく知らない子たちと突然の集団生活だったので、とにかく馴染めなかった記憶があります。私は病後身長も伸びず入院中も運動をしていなかったので、自分より体格が良い子たちに戸惑ってしまったのもあるかもしれません。
小学校2年生の時、自身が小児がんを患い、当時、入院していたときのお友達で生き残っているのは深雪さんともう一人だと母親から知らされます。その時、友達の死をどのように感じましたか?ご自分の将来に不安を感じましたか?
まだ子供なので人の死に対するイメージが曖昧で、ショックよりも戸惑いが強かったです。お友達が亡くなっていたことは、やはり悲しくわんわん泣きました。
「がんだった」ということはうっすらわかっていましたが、そこまで深刻だったとは…という気持ちと、なんで私は治ったのかなと純粋に不思議だった気持ちは覚えています。
成人していく過程で、身体にある手術のあとをつらく感じたというような経験はあるのでしょうか?
たまに引きつれるような痛みがありますが、普段は意識せず過ごしています。左脇から肩甲骨をぐるりと切ったので、自分からは見ようと思わないと見えない位置だったのが幸いだったようです。
成人してから、小児がん手術の影響で「ホルネル症候群」があると説明された時のお気持ちを教えてください。
頭痛を診てもらおうと訪れた神経内科の先生に、開口一番に「君、ホルネルだね!」と言われた時はびっくりしました。見る人が見れば「あ、この人ホルネルだ」ってわかる顔をしているのかなと少し恥ずかしい気持ちになったのも覚えています。でも今まで不思議に思っていた体温の左右差や、縮瞳、発汗低下などの症状にちゃんと名前があったことは少し安心しました。
26歳の頃、頭痛で悩まれます。これは、小児がんの治療の影響が20年以上たって現れたとお考えですか?
もともと頭痛には悩まされていましたが、特にひどくなって来た時に、薬も効かず何が原因かもわからず、いっそがんの影響だったら諦めるのにと思いました。
自分のちょっとした体調不良が、がんのせいなのか、そうでないのか、切り分けることができずに悩んでいました。
29歳になった時、当時、入院病棟に研修医としていた医師とふとしたことで再会します。その経緯を教えてください。
姉に息子がいるのですが、甥が風邪をひき近所のクリニックを受診したとき、そのお医者さんのお名前と経歴をしり、恐らく当時、自分の妹を治療されたお医者さんじゃないかと思ったそうです。姉は愛知県の祖父母のもとに引き取られていたので、そのお医者さんとは接点がないのですが、母親から聞いていたので、そのお医者さんに確認してくれました。そして、私と母親に教えてくれたのです。
【ここからは、お母さまのスキルス胃がん(ステージ4)について教えてください】
お母さまは2015年の夏から体調を崩されますが、吐血されるまで病院には行かれなかったのでしょうか?
病院には行ったらしいのですが、結局夏バテだろうという診断だったらしいです。
医師から「スキルス胃がん(ステージ4)。肝臓、卵巣に転移。腹膜腫播種有り」余命が1ヵ月と言われます。その時のご家族の心境はいかがでしたか?差し支えない範囲で教えてください。
母はそれまで大きな病気をしていなかったので、まさかという気持ちでした。母が亡くなるなんて考えたこともなく、ショックでした。
抗がん剤治療(TS-1、シスプラチン)が効果を示し、外科手術も無事に終わります。その後、お母さまは仕事に復帰されますが、ご家族は、もう大丈夫だろうと安心されていたのでしょうか?
最初の抗がん剤治療の経過が良く、昔、母親から「深雪は抗がん剤が良く効いたんだよ」と聞かされていたので「私達、きっと抗がん剤と相性が良いんだね!」と笑いながら話していました。仕事人間の母はとにかく職場復帰が嬉しかったようで、私も一安心かなと少し油断していました。
その後、再発の知らせを聞いたとき、どのように感じられましたか?
電車で再発の知らせをメールで受け取ったときは、心臓が止まるかと思いました。体調が徐々に悪くなっているのはわかってはいたのですが、再発したらもう駄目という意識はあったので、目の前が真っ暗になりました。
大切なお母さまをがん(スキルス胃がん)で失い、がんに対するイメージは、どのように変わりましたか?
自分ががんを克服しているので、がんに対する意識が甘かったのかもしれないと思いました。当たり前のことですが、がんで本当に人は死んでしまうんだと…。母はずっと「私はがんで死ねて幸せ。ちゃんとお別れする時間がもらえるからね」と言っていました。亡くなる日まで身の回りの世話をさせてくれて、親孝行させてくれた母には感謝しかありません。
【ここからは、再び深雪さんについて教えてください】
取材させて頂いたとき、小児がんの患者は、とかく可哀そうに思われがちであるが、ご本人たちは意外と病室で楽しそうにしているとか、深雪さんの場合、楽しかった思い出が多いと言われていました。世間が想像するイメージと、実際の子供たちの状況について、ズレているとお考えでしょうか?
あくまで私の感想なので、全てのお子さんたちが同じ感想かはわからないですが…。私の場合は目立った後遺症が少なく、手術跡も背中なので意識せず過ごせたのが大きかったです。自分でもなぜ楽しい思い出しか残ってないのか不思議だったのですが、それを当時担当して頂いた先生にお話したら「子供は健気だね」と言って頂きました。辛いことも勿論あったと思いますが、きっとそれを覚えていてもしょうがないから楽しい思い出で上書きしちゃったんだと思います。そして上書きできるくらい楽しい思い出をくれた同室の子や看護師さんたち、そして母には感謝しきれません。
インターネット検索をしたとき、がん治療の後、元気になった人の情報が少ないと感じられ、今回の取材にご協力頂きました。やはり、がんになるとご本人もご家族も、勇気づけられる情報が欲しいものでしょうか?
インターネットでがんについて調べたのは、母が胃がんになってからでした。ステージ4と聞かされたとき「でも、治った人もいるはず!」と縋る思いで検索していました。自分の母もそうなるとは限らないけど、それでもがんを克服したという人の話を読むととても勇気づけられました。
改めて、小児がんを経験されて、いま感じることは何でしょうか?
私は物心ついた頃からがんと共にありました。幸運にも再発することなく今年で退院してから30年です。自分では特別な努力をして今日まで至ったという自覚はありませんが、母を始めとする家族、当時治療にあたって下さった先生たち、たくさんの人の支えで今を生きているという思いがあります。治らないがんもあるけど、治るがんもある。がんを経験しても、明るく普通に生きている。母に救ってもらったこの命を、大事にしていこうと思います。
がんになって失ったもの、得たもの
【得たもの】
- 手先の器用さ
- 母との絆
【失ったもの】
- 身長
- 髪の毛
大切にしている言葉は何ですか?
七転び八起き
現在治療中の方々に伝えたいことを教えてください。
私は入院中、雑誌のおまけの付録を組み立てたり、パズルやレジのおもちゃが大好きでした。ボタンを押して動くものが好きで、大人になった今もコンピューターを使ったお仕事をしています。きっと病気をしていなかったら、違うものに興味をもって全然違う仕事をしていたかも。治療中は大変なこともたくさんあるけど、そんな中でも自分が好きなものを見つけられるといいですね。
現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいことを教えてください。
自分は子供だったので、ただ母に甘えて過ごした二年間でしたが、当時の母の苦労は私には計り知れません。看護のために退職するなど、生活の面でも大変な思いをしていたはずです。きっと同室の友達の保護者の方も、母と同じような思いをしていたと思います。特に小児がんの子どもたちにとっては、家族の存在は闘病の大きな支えです。家族の存在はかけがえのないもので、きっとその思いは大きくなっても覚えていてくれるはずです。
深雪さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいことは何ですか?
母の発病をきっかけに、自身の体についてもちゃんと考えることが増えました。
健康診断の結果を流し読みせず、自分が健康でいることは家族のためでもあるという意識で生活していこうと思います。
昨年は大腸ポリープ手術を受けたので、今年は何もありませんようにと願っています。
がん患者がしてはいけないこと(3つ)
- おもちゃを独り占めすること
- ベッドで跳ねてはいけない
- 勉強中の子がいるときは静かに
がん患者がするべきこと(3つ)
- たくさん遊ぶこと
- 本を読むこと
- 食べられるときはちゃんと食べる
周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉
- お母さんががんを見つけてくれて良かったね(お医者さんから)
- がん治ったなんてすごいじゃん!
- 頑張って良かったね
周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉
- かわいそう
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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