【インタビュー】比屋根恵さん 乳がん ステージ4 サバイバー

    右乳がん(硬癌 浸潤がん) ステージ4 サバイバー 比屋根恵さんのインタビューです。

    ※ストーリーをまだ読まれていない場合は先に読まれることをおすすめします。

    >>がん闘病「ストーリー」記事から読む

    目次

    基本情報

    名前: 比屋根恵さん  >>5yearsプロフィール
    年代: 40代、女性
    病名: 右乳がん
    病理: 硬癌 浸潤がん
    進行: ステージ4
    発症: 2015年2月
    発生時年齢:45歳
    受けた治療: 抗がん剤(パクリタキセル、エンドキサン)
    ホルモン療法(タモキシフェン、レトロゾール)
    骨吸収抑制剤(ランマーク)
    期間: 2015年3月〜現在。
    職業: 牧場経営
    生命保険:第一生命

    >>比屋根恵さんの「ストーリー」はこちら

    >>比屋根恵さんの「がん経済」はこちら

    2009年春にテレビで乳がんの番組を観て、右胸にしこりを確認します。当時の心境を教えてください。

    今まで病気とは無縁の生活だったので、がんは他人事のように思っていました。しこりはさほど気になりませんでした。

    しこりを確認しましたが仕事が忙しく、月日が過ぎていきます。病院に行かなくてはと感じてはいませんでしたか?不安ではなかったですか?

    だんだん不安になっていました。
    ただ、専門医のいない離島では病院に行くにも飛行機ですし、泊りがけになるので足が遠のいてしまいました。それと生き物(牛)相手の仕事なので、自分のことはいつも後回しでした。

    入院して、牧場を離れると畜産農家としての勘が鈍るとはどういうことですか?

    子牛は体が弱くとても繊細な生き物です。普段とは違う表情や行動など小さな変化にいち早く気づかなければ命取りになります。
    だから毎日牛と接していないと、そのサインを見落としてしまいます。

    2010年にかりゆし病院で生検を受けることになります。生検を行うと言われ、当時どのようなお気持ちでしたか?

    この頃から、もしかしたらガンかもしれないと思っていたのでこの検査ではっきりしたら、もう逃げられないなと思いました。

    生検の結果、良性なのか、悪性なのか判断つかないと言われました。グレーゾーンとはどういう意味だったのですか?

    医師からの説明も曖昧なものでした。だから今でもよくわかりません。

    グレーゾーンと言われた時のお気持ちを教えてください。

    え?グレーゾーンてなんだろう。と思いました。
    そして、ちゃんと検査してもらえたんだろうかと不安に思いました。
    以前から都会と離島の医療には格差があると感じていたのでその場では納得するしかなかったです。

    その後、新潟県の総合病院で診察してもらいます。繊維腺腫と言われ、悪性に変わることは無いと医師が言います。当時の状況を教えてください。

    検査はマンモ、エコー、簡単な触診でした。
    良性と聞いてほっとしましたが、できれば生検もしてほしかったです。悪性に変わることはないと言われたので生検をしてほしいと言い出す勇気はありませんでした。
    医師を信用することにしました。

    なぜ、半年後に予定してあった“かりゆし病院”の予約をキャンセルされたのですか?

    キャンセルするかどうかは、ギリギリまで悩みました。
    悪性になることはあり得ないと言う医師の言葉を信じ、病院より仕事を優先させてしまいました。

    その後、乳房の形が変わってきたと伺いました。どのようになっていったのでしょうか?

    しこりがある皮膚の周囲がくぼみ出し、皮膚が引きつられるように変形し乳首の位置も中央からだいぶずれていきました。

    しこりが複数になり、ゴロゴロしてきて、出血も起こります。この時のお気持ちを教えてください。

    この頃になると、もう怖くて乳房は見ないようにしていました。
    やっぱり悪性だったんだと絶望し、誰にも気づかれないように度々お風呂で泣いていました。

    病気の確率が半々と思いながらも、まだ、病院に行くことができません。どういう状況だったのでしょうか?

    半々と思いながらと言うよりは、今更ガンだとわかっても家族になんと言ったらいいのか。
    ほとんどの仕事を任されていたので治療で牧場を離れるなんて許されないと思いました。
    牧場に行けば牛たちに癒され、仕事に没頭する毎日でした。

    胸の中で何かがはじけたように感じたとあります。その時の状況を教えてください。

    夜、寝ていたら胸に激痛が走り飛び起きた。
    乳房全体が熱くなり、脇の下も激痛で脈を打つのがわかりガンが広がってしまったと感じた。
    あまりの痛みに寝ている夫を起こそうとも思ったが、仕事で疲れ切っている夫を巻き込みたくなかったので黙っていました。
    しばらく耐えていたらそのうちに眠ってしまい朝には痛みもなくなっていました。

    2015年1月から咳が出始めます。どのような咳で、いつ、どれくらいの頻度で出ていましたか?

    最初は風邪かなと思っていました。日が経つにつれて咳は激しくなり息苦しさも増しました。
    1ヶ月を過ぎた頃から、横になると呼吸するのも苦しくて睡眠は布団の上に座ったままウトウトする程度だったので辛かったです。
    あとでわかったのですが、咳で左肋骨が骨折していました。

    2015年2月14日、頭痛で八重山病院に救急で運ばれます。当時の状況を教えてください。

    その日は子牛のセリがあり、朝5時から夕方まで食事も取れない程忙しい1日でした。
    セリが終わって、牛の給餌を始めたとき突然頭に激痛が走りました。
    この痛みは尋常じゃなかったです。
    病院に着くと意識がだんだん遠のいていきました。体は限界だったと思います。
    ただ、あれだけ咳が止まらなかったのにこの日はなぜか治り不気味でした。

    胸水を抜かれ、診察ベッドで横になっている間、「これで、ゆっくり休める」と感じた時のお気持ちを教えてください。

    心も体も限界を超えていたのだと思います。

    ご主人が、泣きながら「もっと早く病院に連れていって受診させてあげればよかったのに」と言われた時のお気持ちを教えてください。

    こんなに取り乱して泣いている夫を見たことがなかったので驚きました。
    事の重大さに気付かされた感じがしました。
    そして、私はもう助からないんだと死を覚悟したときでもありました。

    石垣島を出て新潟に移る頃、ご家族(ご主人、義理のご両親)は、どのように言われていましたか?

    義理の両親は、何が起こっているのか理解できない様子でした。
    私はもう戻ってこれないと覚悟していたので、最後の挨拶をしました。
    こんな形で牧場を離れることになり申し訳ない気持ちでいっぱいでした。牛たちの顔はまともに見れませんでした。
    夫は口数も少なく、なんて声をかけていいのかわからない様子でした。

    新潟県立がんセンター新潟病院で「胸膜播種」と診断された時のお気持ちを教えてください。

    半ば諦めていたので「両側胸膜播種」と言われても、あーそうなんだ、くらいの気持ちでした。それにしても、よくこんなに悪くなるまで放っておいたなぁと我ながら呆れました。

    抗がん剤治療を始めるまでの1週間で、体調が改善したと伺いました。何が起きて、どのように改善したのでしょうか?

    実家に戻り、抗がん剤が始まるまでの間、私は死んだように眠り続けました。
    嫁いでから、初めてゆっくり眠れたような気がしました。
    何が起きたのかはわかりませんが、急速に改善した感覚は確かにありました。
    咳もおさまり、なぜか元気でした。

    乳がん、ステージ4、ルミナルB,HER2・陰性と診断がおりた時のお気持ちを教えてください。

    あー、やっぱりもうだめなんだなと思いました。
    それから全身の力が抜けてぼんやりしていたら、医師が「カテゴリー5です!」と大きい声を出したので我にかえりました。
    余命のことも言われましたが、悪い情報はもうこれ以上聞きたくなかったです。
    告知のショックと言うより、最近は本人の意思確認をしないままずいぶん残酷なことをはっきり言うんだな、と思いました。涙は出なかったです。

    抗がん剤(パクリタキセル)の治療はいかがでしたか?副作用はいつごろ、どのようなものが出てきましたか?

    医師からもう治ることはないとはっきり言われていたので、抗がん剤を投与することに少し迷いはありました。
    それでも抗がん剤にわずかな望みを持ちたいと、どのくらい効果があっていつまでやるのか尋ねると、「あなたの場合、現状維持でもすごいことなんですよ。抗がん剤は一生続けますよ!」と強い口調で言われ、やる前から気が滅入ってしまいました。

    結局、毎週木曜日3週1休を1クールとして、9ヶ月間投与しました。
    副作用は、投与後からすぐに表れ、倦怠感と手足の痺れがすごかったです。
    足の痺れは今でもほとんど改善されていません。
    パクリタキセルはアルコールで溶解するそうなので、ひどい2日酔いのような感覚が2〜3日続きました。お酒に弱い私は呂律が回らなくなることもありました。

    脱毛は3週間目から始まり、あっと言う間に全身の毛が抜けました。
    あとは、味覚障害、食欲減退、下痢、便秘、発熱、関節痛、筋肉痛、爪の変色、足の爪は巻き爪になって膿がでたりしました。
    血管痛は副作用にはならないかもしれませんが、使える血管がだんだんなくなり抗がん剤を投与する度、血管の確保に苦労しました。
    蒸しタオルとカイロで腕を温めると痛みは和らぎました。

    腫瘍マーカーNCC-ST439が陰性化し、CT画像上がんの影が小さくなります。嬉しかったですか?ご家族は何と言われていましたか?

    画像上では、原発の変化より転移していた肺がどんどん良くなっている状態でした。
    それは本当に嬉しかったです。残された命が少しは延びたかなと思いました。
    家族もとても喜んでくれました。久しぶりに家族の笑顔を見て幸せを感じました。

    PET-CT画像検査でも「劇的に良くなっている」と言われます。当時、どのように改善していったのですか?

    最初は肺の形がわからないほど白く、中に無数のガン細胞がプカプカ浮いている状態だと説明されました。それを確認するのが困難になるほど改善していきました。
    4回目のPET-CTでは、FDGの集積は原発に僅かに残る程度にまで改善しました。

    抗がん剤治療中に、石垣島に戻られたのは、なぜですか?

    直感的に石垣に戻ったら、よくなると思ったからです。
    戻りたいと言うより、牛たちのために戻らなければいけないと言う使命感もありました。

    昭和大学病院でセカンドオピニオンを聞きます。どのような説明でしたか?

    抗がん剤は今の段階でこれ以上やらなくてもいいことや、ホルモン療法でも十分やっていけると言う説明でした。
    ただ、薬の選択には慎重でした。
    ホルモン療法は、閉経前と後では使用する薬が違い、選択を間違えると火に油を注いでしまうほど症状を悪化させてしまうことがあるそうです。
    私の場合、抗がん剤によって閉経し、抗がん剤をやめたことで生理が再開してしまう可能性があったので、閉経前か後かどちらとも取れない状態でした。

    ホルモン療法(タモキシフェン)はいかがでしたか?副作用はいつごろ、どんなものがありましたか?

    抗がん剤より副作用は軽いだろうと安易に考えていましたが、これが結構きつかったです。
    倦怠感は抗がん剤のときよりひどい日もあり、精神的にも情緒不安定になりました。
    ホットフラッシュが起こったかと思えば、冷蔵庫の中に入ったように寒くなったり、それが一日中交互に起こるのです。想像以上に辛かったです。

    ホルモン療法(レトロゾール)はいかがでしたか?副作用はいつごろ、どんなものがありましたか?

    レトロゾールはエンドキサンと併用なので副作用はよくわかりませんが、タモキシフェンより軽く済んでいるように思います。

    なぜ、抗がん剤(エンドキサン)の投与が始まったのですか?

    タモキシフェンは確か閉経前に使用する薬でしたが、ちょっとずつ腫瘍が大きくなっていました。
    そこで、閉経後に使用するレトロゾールに切り替え、セットで使用することにより効果的なエンドキサンも使用することになりました。
    また抗がん剤を始めなければならないのかと落胆しましたが、主治医を信頼していたのですぐに気持ちを切り替えることができました。

    がんの骨への転移はありましたか?

    腸骨と場所は忘れましたが2ヶ所に転移していました。

    石垣島から東京の病院への通院は、とても大変と思います。どのようにして通院されていますか?

    通院には飛行機を乗り継いで、診察日の前日に都内で前泊しています。
    正直なところ時間もお金もかかり大変です。
    でも、もっと苦労している人はたくさんいると思えば大したことではありません。

    ご家族がしてくださったサポートについて教えてください。

    普段と変わらないように接してくれましたが、姉は頑張りすぎていたので、体が心配でした。

    胸膜播種から2年半が過ぎ、元の生活に戻られています。今のお気持ちを教えてください。

    私はネガティブ思考なので(笑)未だに悩んだり落ち込んだりしています。
    楽しく仕事をする日もあれば、まだ残っているしこりを触っては落ち込んだり、、、。
    抗がん剤治療もいつまで続くのか先は見えません。
    だけど、今このとき、元気でいられることに感謝して1日1日を精一杯生きたいと思います!

    比屋根さんにとって畜産のお仕事は、とても大切だと思います。仕事と牛たちはどのような存在ですか?

    牛は私にとって、かけがえのない存在で命を懸けても守りたいものです。
    命を懸けれるほどの仕事に出会えて、幸せ者だと思っています。

    がんを経験して思うこと

    がんになったことは不運だと思いますが、がんになって学んだことはたくさんあります。
    がんは自分が成長できるチャンスを与えられたのだと思いたいです。
    がんは私の人生の一環ですから。

    がんになって失ったもの、得たもの

    【得たもの】

    1. 時間。ありとあらゆることを考える時間。
    2. がんにならなければ知り合えなかった人とのご縁。
    3. ちょっとは成長した?自分(笑)

    【失ったもの】

    1. 特になし。

    大切にしている言葉

    今を生きる。
    人生の意味は一つしかない。生きるという行為、それ自体である。(ドイツの哲学者エーリッヒフロム氏の言葉です)

    現在治療中の方々に伝えたいこと

    どんなことでもいいので生きがいを見つけていただきたいです。
    人と比べるのではなく自分に正直に生きていただきたいです。

    現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

    がん患者の家族は第二の患者だと思います。自分を大切にして下さい。あまり頑張りすぎないでほしいです。

    比屋根さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。

    今の生活をこのまま続けられたらそれで満足です!!

    がん患者がしてはいけないこと(3つ)

    1. 他人思考になること。
    2. こうじゃないといけないという執着。
    3. 後悔すること。

    がん患者がするべきこと(3つ)

    1. 自分を信じること。
    2. 感謝する気持ちを忘れないこと。
    3. 主治医の先生を信頼すること。

    周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉

    1. ありがとう。
    2. よくがんばってるね。

    周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉

    強いて言えば、根拠のない大丈夫。

    当時参考にした本

    乳がんのガイドラインや専門書くらいです。

    >>比屋根恵さんの「ストーリー(がん闘病記)」はこちら

    >>比屋根恵さんの「がん経済」はこちら

    取材:大久保淳一

    この記事の著者

    (5yearsプロフィール)

    日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
    2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
    現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
    >>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
    >>NPO法人5yearsの組織概要はこちら



    -Sponsored-