【インタビュー】柳沼明日香さん 卵管癌 ステージ3 サバイバー

卵管癌(漿液性腺癌) ステージ3c サバイバー 柳沼明日香さんのインタビューです。

※ストーリーをまだ読まれていない場合は先に読まれることをおすすめします。

>>がん闘病「ストーリー」記事から読む

目次

基本情報

名前: 柳沼明日香さん >>5yearsプロフィール
年代: 30代、女性
病名: 卵管癌
病理: 漿液性腺癌
進行: ステージ3c
発症: 不詳
発生時年齢:35歳
受けた治療:開腹手術、周期的化学療法
(TC療法+アバスチン併用×6コース、アバスチン単剤継続投与3週に1回×22コース)

期間: 開腹手術:2015年3月、化学療法:2015年3月~2016年7月
合併症:なし
職業: 会社員
生命保険:医療保険(短期入院、通院、女性特定がん保険付)、介護保険

>>柳沼明日香さんの「ストーリー」はこちら

>>柳沼明日香さんの「がん経済」はこちら

妊娠検査薬で陽性を確認したあと、便秘、頻尿、そして下腹部の腫れ等の身体の異変がはじまります。うつぶせになった時、違和感があるほどだったと伺いました。このころ不安でしたか?

触ると硬い腫れ方は、過去に経験がなかったので、これは何だろうと不思議に思いました。しかも、いつの間にか大きくなっていて・・・。でも、「悪性」であるとは全く頭になかったので、その種の不安はありませんでした。

ネットで調べて卵巣嚢腫(良性)ではないかと想像します。この時のお気持ちを教えてください。

「卵巣のう腫」に関しては、友人にも経験者が複数いたので、特に不安はありませんでしたが、妊娠中の摘出時期や、出産への影響だけは気になっていました。

近所の産婦人科医院を受診し後、病気の可能性について調べましたか?

はい、何しろ妊娠中の身だったので、自分でも気になってインターネットで調べました。
条件検索で出てきた情報の多くは、やはり「卵巣のう腫」。卵巣がんというワードもあったのですが、「まさか、この年で癌なんて」という思い込みもあり、無意識に情報を取捨選択していました。特に深刻な気持ちはありませんでした。

東京慈恵会医科大学付属病院の産科でまず診察されましたが、同日、婦人科に行くように産科の医師から指示されます。婦人科の診察までの数時間、どのようなことを考えていました?

赤ちゃんの心拍が確認できたのに、「産科」から遠退いていくことへの不安が押し寄せていました。待合室で心臓の音を大きく感じていたことは覚えています。赤ちゃんも、私自身も、この先どうなってしまうのだろう、という漠然とした不安ですが・・・。

画像検査等の更なる詳しい検査をすることになります。このときご主人は何と言われていましたか?静岡のご両親はどのように言われていましたか?

夫も、両親も、「しっかり検査してもらいましょう」と明るく言ってくれたように思います。
「とにかく身体の異常に気がつけて良かった」と皆が前向きに考えてくれていました。
ただ、通常は行わない、“妊娠中”のX線や画像検査(MRI、CT)となったため、家族一同、非常に辛い時期ではありました。

赤ちゃんを諦めますと医師に伝えた時の状況を教えてください。

正直、夫と事前に相談していたわけではありませんでした。
「上のお子さん」という言葉に反応して、とっさに口から出てしまいました。
自分でも、今、誰がしゃべっているのだろう・・・という上手く言い表せない感覚でした。
夫は、泣いたりわめいたりのパニックもなく、隣でただ静かに聞いていてくれました。

担当医から「卵巣がんのことをもっと勉強してください」と言われます。どのように感じられましたか?

これがいわゆる「告知」というものなのかと・・・。以外とあっさりで、しかも、病気を勉強して下さい、と言われたこともビックリしました。怖くて現実から目を背けたいのに。
でも、医療が進歩していて不治の病ではなくなりつつある時代になっていて、治療の選択肢も拡大しているからこそだろう、と何故か他人事のようにも感じていました。

病院から帰宅して、どのようなことを考えていましたか?

人の命って本当に有限なんだ・・・とぼんやり考えました。よく耳にする、有名な言葉「神様は乗り越えられない試練は与えない」とあり、自分の人生を振り返ると、確かにその通りだなと思ってきましたが、今回に限っては、私には絶対に乗り越えられない、と思いました。

実家のお母さんと病気のことや中絶について話され、どのように感じられましたか?

妊婦の娘に重い病気が見つかって、母親も想像を絶するほど辛かったと思いますが、振り返ると、母は、少なくとも娘の私の前では、一切、悲壮感を見せませんでした。
いつも、「大丈夫、大丈夫」と明るい言葉で支えてくれ、暗い道に光を照らして先導してくれたように思います。私も娘を持つ母親として、娘が危難の時は、こんな風に力強く支えられる存在になりたいと心から思いました。

手術のスケジュールが決まってから、会社にはどのように報告しましたか。

妊娠のことと、悪性の可能性があることは、早い段階で職場の上司には伝えてあったので、あらためて、上司に時間を取ってもらい療養休暇の取得等について相談させて頂きました。
また、仕事で近しい同僚や同期にも全て事情を報告しました。突然不在になる私にできる唯一の礼儀なのかと考えたからです。でも、さすがに職場の全員に報告することは、気持ち的に余裕がありませんでした。
製薬企業ということもあり、皆が病気への理解があったように思いますが、目の前で泣いてくれた人もいて。皆一様に、驚きを隠せないようでした。何も言わず、お守りをそっと手渡してくれた人もいました。

中絶手術の前日のこと教えてください。

夫と二人でお腹の赤ちゃんに「ごめんね」と「ありがとう」をしました。
この妊娠がなければ、自然と腹部に意識が向かなかったかもしれない。
便秘を疑ったまま、産婦人科ではない他科を受診していたかもしれない。
こんなに早く、慈恵医大病院に繋いでもらえなかったかもしれない。
妊娠していたからなのか・・・食欲は旺盛だったし、毎日よく眠れた。
赤ちゃんは、色んな面で、母親を支え続けてくれたことに御礼しました。
夫は大泣きしました。夫がこんなに泣く姿は知り合って初めてみました。
その涙を見て、我に返りました。私は、病気が発覚してからずっと自分のことしか頭になかったと気付きました。掻爬(中絶)も即決してしまった・・・。家族みんなを悲しませていたと思うと、本当に辛かったです。

ご主人は、病気と治療に関する本をたくさん読まれて勉強されます。その光景を見て、どのように感じましたか?

手術前の頃は、夫が夜な夜な「がんの本」を読んでいるのを見て、夫に対して、「そんな本、よく読めるよね」と投げやりな言葉を使っていました。でも、最近になって、ふと思い立って、その本を手にとってみると、中には、蛍光ペンでいっぱいマーカーが引いてありました。確かに、不安になるような怖いことも本には書いてありましたが、そんなことよりも、あの一番辛かった時期に、夫はどんな思いで、たった一人で勉強していたのだろう、と思うと申し訳なくて涙が止まりませんでした。夫の、真の強さというものを知りました。

がん摘出手術の前夜、同じ病室の患者が声をかけてくれて、色々話してくれました。いかがでしたか?

大部屋だったのですが、カーテン越しに声をかけられ驚きましたが、嬉しく、心強かったです。その方は、卵巣癌の患者さんでした。
色々と話を聞いて頂き、情報収集もできて、逆に不安を解消することができました。
それから、「今からロビーで女子会やるけど、一緒に来ない?」って誘われました。
さすがに、手術前日だったので断りましたが(笑)、女は強いなって本気で思いました。
また、いつか、今度は病室でないところでお会いしたいなって思っています。

病理診断の結果、卵巣がんではなく、卵管がんと説明を受けました。どのように受け止められましたか?

恥ずかしながら、「卵管がん」という病気を知りませんでした。夫は理解していたようでした。主治医からは、最近は診断技術が進歩して症例が増えてきているようですが、閉経前の女性では、日本で、ほとんど症例がいないと説明を受けました。それから、妊娠していなかったら発見できなかったとも言われました。よりによって、何で私がそんな稀な癌に?!という複雑な気持ちでしたが、赤ちゃんは、私に病気を教えにきてくれた、と確信しました。

病理診断後、医師からの説明時に、臨床研究を兼ねた抗がん剤治療(TC療法+分子標的薬アバスチン)を紹介されます。この時の心境を教えてください。

第二の主治医と化した夫とも事前に色々治療の話をしており、抗がん剤治療を受ける心の準備はできていました。病期が3cだったことから、この治療に組み入れ可能ということでしたが、アバスチンが卵管癌に使えるということは夫も私も知りませんでした。ただ、アバスチンが高額ということは知っていたので、22コースという点で、お金のことは少し気がかりでしたが、ここまできたら、「立派なまな板の上の鯉になってやる!」という気持ちでした。

TC 療法(パクリタキセル+カルボプラチン)の副作用を教えてください。

自覚症状の面で、一番副作用がひどかったのは、1コース終了後だったように思います。
投薬したその日から、激しい倦怠感と膝関節の鈍痛に襲われました。歩くのも辛くて身体が鉛のようになりました。でも、何故か、2コース以降はその症状は全く出ませんでした。
血液の面では、4コース終了後に骨髄抑制があり2週間治療が延期になりました。
全般的には、熱こそ出ませんでしたが、治療中は毎月のように鼻・喉の風邪を引きました。吐き気は投薬3-4日後には治まり、制吐剤を飲まなくて平気でしたし、投薬3-4後からは健康なときと変わらぬ普通の生活が送れました。

抗がん剤治療(TC療法+分子標的薬アバスチン)はいかがでしたか?

TC療法では、それなりに副作用も経験しましたが、吐き気止めなど優れた支持療法があるのだと実感しました。私自身、アバスチン併用による副作用の増強は感じられませんでした。また、3剤投薬できる安心感もありましたが、アバスチンはやはり高額ですね。

髪の毛が抜け始めた時のお気持ちを教えてください。

おかしいかもしれませんが、髪の毛に申し訳ない気持ちでした。
それから、髪の毛が抜けるのは、薬(TC)がしっかり身体に入った証拠だと思えましたので、悲しい気持ちは不思議と起こりませんでした。卵巣癌の患者さんが、「髪の毛は治療後すぐに生えてくる」と、綺麗な丸坊主の頭を見せてくれたことも心の支えになっていました。

6クールという長い期間、入退院を繰り返し、抗がん剤治療を受けました。この頃の生活を教えてください。

抗がん剤治療のための入院は3泊4日と短期間で済んだため、退院後は、家族とともに過ごしていました。生ものの摂取以外は特に禁止事項もなかったので、副作用が落ち着くと、両親とともに体力づくりと称して、散歩をしたり、近所の区民プールで水泳もしました(髪の毛ないのは帽子で隠して)。時には東京観光にも連れて行きました。週末は、夫と娘も加わって、皆で遠くまでドライブすることもあり、普通の生活を送ることができました。

ご両親がみんなを支えるために上京し東京で一緒に生活していました。ありがたかったですか?

半年間、家族5人で東京暮らし。本当に感謝しかありません。両親の支えがなければ、夫も、娘も、私自身もどうなっていたことか・・・。恐ろしくて、今でも考えられません。母親の私が不在の期間は、娘の祖父母が母親代わりにもなってくれました。夫も、妻の両親との突然の同居で色々思うことはあったかもしれませんが、不満一つ言わず、明るく過ごしてくれました。
私自身は18歳で単身上京しているので、こんな形ではありましたが、思いがけずまた両親と一緒に暮らせる時がくるなんて!と一生忘れられない半年間になりました。

娘さんとお風呂に入るときは、帽子をかぶり、お腹の手術痕をみせないようにしていたと伺いました。この頃の心境を教えてください。

とにかく、隠すことで必死でした(笑)
当時まだ2歳だった娘は、わりと変化に敏感な方だったので、母親の「いつもとは違う姿」を見て、泣かれたら辛いなという気持ちだけですね。

6クールの抗がん剤治療(TC療法+分子標的薬アバスチン)を終えた時のお気持ちを教えてください。

「血管、ありがとう!よく頑張った!」という気持ちでした。点滴ルート取りには毎回苦労しましたから・・・。そして、これからは薬に頼らず、病気を乗り越えていかなければ・・・と気が引き締まるような思いでした。

2015年10月に復職します。当時の状況を教えてください。どのようにしてお仕事に復帰していきましたか?

復職にあたっては、アバスチン単剤の治療も続いていたので、がん患者の自分と一緒に仕事をする同僚はどう思うだろうか、絶対やり難いだろうな、同情や好奇心の目に晒されてしまうのだろうか、といった不安ばかりでした。本当は感謝だけあれば良かったのかもしれませんが。
勤務形態は、育児短時間勤務を取得させて頂きました(病気になる前と同様)。
復職前に行った会社の産業医面談で、半年間は全力で仕事しないように、無理しないようにと指導を受けていたので、主担当ではなく全て副担当という形で業務量は上司が調整して下さいました。周囲には、病気の上に時短勤務と、申し訳ない気持ちばかりで恐縮していましたが、少しでも早く仕事の感覚を思い出せるように、隙間時間を見つけては勉強もしました。出来る範囲で精一杯ですかね・・・。
それでも、最初の1週間は、通勤するだけでクタクタ。療養中は、家族や病院の方々、一部の友人しか会わない静かな生活だったので、「人」と関わることって(ほんの少しのコミュニケーションでも)こんなにもパワーとエネルギーを使っているのだと知りました。

復職したとき、職場の人たちはどのように接してくれましたか?

久しぶりの会社に到着すると、上司や同僚達が笑顔で集まってきてくれ、変わらずに接してくれました。私の机には、「Welcome Back!Asuka」 というメッセージが貼ってあり、涙が溢れそうになりました。この気持ちを忘れず、少しずつ、お世話になった方々に感謝の気持ちを返していきたい!と強く思った瞬間でもありました。

その後、通院でアバスチン22回の治療を続けます。仕事と治療の両立はどのようにされていましたか?

外来での治療を受けるため、3週間に1日の頻度で、会社から休暇(有給)を取得して通院していました。治療が続いていたので、復職時には、自分はがんであることと、治療がしばらく続くこと、リンパ節をとっているので長時間座るのがしんどいこと等を予め上司と同僚には伝えました。治療の経過や体調変化は上司にタイムリーに報告するようにしました。色んな感情は確かにありましたが、メリハリをつけて、出社している時は、集中して、誠実に丁寧に仕事をするようにしました。強がらず、素直な自分を見せていくことが大切なのかなと思いました。

がんから2年の日を迎えた時のお気持ちを教えてください。

「2年の日」は、待ちに待った!という感じではありませんでした。というのも、
先のことは考えずに、1日1日を全力で過ごしていたら、気付いたら2年経っていたという感じです。これからも、気を引き締めて、今この瞬間をまず大切にしてきたいです。

いま大切な日常生活に戻り、どのように感じられていますか?

病気を告知されてから日々のことを一生忘れずに生きたいと思っています。あの日々のことを思うと、今は感謝しかありませんし、不平不満もなくなりますね。笑
それでも、時に不安や心配の芽が出てきたり、季節や匂いなど、少しのトラウマも残っていますが、お空の赤ちゃんに「ママ、こんなに元気になって頑張っているよ」と報告できるような生き方をしたいと思っています。

2015年のがん体験を振り返り、どのように感じられていますか?

身体の面で振り返ると、病気発覚から今に至るまで、がんに起因する痛みなどの辛い自覚症状は一切ありませんでした。また、病気発覚後に受けた人間ドック(以前から予約してあった)でも、異常はなく(腫瘍マーカーは測定していませんが)、また、婦人科健診は毎年必ず受けていました。それでも、気付いたら患者になっていました。あらためて「卵巣・卵管」腫瘍の怖さを思い知りました。

心の面では、この病気になって、今まで見えなかった、知らなかった“景色”が見えてきました。これにより、すっかり人生観、価値観も変わりました。当たり前のことなんて何一つない、色んな人や物の支えあっての自分、生かされている自分に気付かせて頂きました。髪の毛も含めて、生まれ変われたのかなと少し思っています。

がん治療期間中、柳沼さんの夢・目標とはどのようなものでしたか?

夢:大切な人が、「病気」になりませんように(辛い思いは私一人だけで十分)
目標:来年の誕生日を笑顔で迎えること

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】

  1. ほんの小さな幸せを大きく喜べる心
  2. 家族の真の強さを知れたこと
  3. “ショートカット”の自分

【失ったもの】

  1. 赤ちゃん
  2. 大切な臓器
  3. 浅い付き合いの友人

大切にしている言葉

明日の自分に宿題を残さず、今日を生きる
遠回りしたっていい、人生無駄なことはなにもない

現在治療中の方々に伝えたいこと

父親に教えてもらったこの5yearsで、がん患者さんが再び社会に戻っていく勇敢な姿を知って、私自身、とても勇気付けられました。是非、希望の光となるようなマイヒーロー・ヒロインを見つけてみてください。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

私が、家族にしてもらって一番嬉しかったことをお話します。それは、普段通りに過ごし、少しでも毎日を楽しみ、積極的に彼らにリフレッシュしてもらうこと、でした。
最初、上京してきた私の両親は、東京にいても、今は東京観光を楽しむ気分に全然なれない、とつぶやいていたことがあり、これも全部自分のせいだ・・・と悲しく思っていた時期がありました。でも、ある時から、両親が隙間時間で東京観光を楽しみだしたのです。
例えば、私のお見舞いの後に美味しいものを食べてから帰宅することから始まり、最後の方は、娘が抗がん剤の投薬日でも、お見舞いの帰りに観光するようになったので(笑)、とても嬉しかったです。「くそー。絶対に治ってやる!」という気持ちになりました。
患者さんご本人は、自分が辛い顔をしたり、泣き言をぶつけたら家族が悲しむ、と思いこみ、感情を我慢してしまう傾向があるような気がします。もちろん、逆もそうかと思います。お互いに、家族以外にも、素直な気持ちを吐露できる何か・誰かを見つけるよう、
見つけられるよう、サポートがあればいいな、と僭越ながら思います。

柳沼さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。

  • 健康的な生活を楽しむこと(食事、運動、早寝早起き)
  • 本当に大切なものを見極め、シンプルに生きること(ストレスフリー)
  • 製薬会社社員のがん患者として、何か私でも少しでも世のために貢献させていただけることはないかと日々模索しています。なかなか答えが見出せていませんが・・・。

周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉

  1. 大丈夫
  2. 頑張ったね
  3. 普通の会話が嬉しいです

周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉

  1. 私も(病気にならないように)気を付けなくちゃ ← その相手との関係性にもよりますが・・・。
  2. 若いと進行早いんだよね
  3. 知り合いに(同じ)癌で亡くなった方がいてね・・・

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  1. 無理して笑うこと
  2. 焦ること
  3. 自分で限界や壁を勝手に作ること

がん患者がするべきこと(3つ)

  1. ボロボロの心、ぐしゃぐしゃな涙 を思い切り見せられる“何か・誰か“を持つこと
  2. 急行列車に飛び乗らず、鈍行列車を十分楽しむこと(比喩です)
  3. 普段通りの生活♪

>>柳沼明日香さんの「ストーリー(がん闘病記)」はこちら

>>柳沼明日香さんの「がん経済」はこちら

取材:大久保淳一

この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
>>NPO法人5yearsの組織概要はこちら



-Sponsored-