慢性骨髄性白血病 サバイバー 久田邦博さんのインタビューです。
目次
- 1 基本情報
- 2 神奈川県への転勤に伴いかかりつけの病院を替わります。最初の病院で血液検査をしたあと医師から「白血球の値が高いので病院に戻ってきてほしい」と連絡がありました。その時の心境を教えてください。
- 3 病院に戻り紹介状を書いてもらったあと、その医師から真剣に「絶対にすぐその病院にかかってください」と言われます。その時の状況を教えてください。
- 4 医師から血液内科で診てもらうように言われ、紹介先の病院に連絡すると翌日の受診となります。その日自宅に戻り “ヤバい”という気持ちがあったと伺いました。どういう心境ですか?
- 5 「白血球3万」でインターネット検索していたときの状況とお気持ちを教えてください。
- 6 調べて出てきた「慢性骨髄性白血病(CML)」に対する最初のイメージはいかがでしたか?
- 7 紹介先の総合病院で担当医師から「(病名は)何だと思っていますか?」と聞かれた時の心境を教えてください。
- 8 久田さんが「慢性骨髄性白血病(CML)だとおもいます」と答えた際、「たぶん、そうでしょう」と返された時のお気持ちを教えてください。
- 9 精密検査である骨髄穿刺を受けるまでに数週間ありました。どのような心境でどのように過ごされていましたか?
- 10 なぜ、骨髄穿刺の検査よりも会社の会議を(一旦)優先されたのですか?
- 11 骨髄穿刺の検査を受けていたときの状況について教えてください。
- 12 骨髄穿刺の検査のあと1時間安静にしている時間、色んなことを振り返り悔しい思いをします。その心境を教えてください。
- 13 治療法を骨髄移植ではなく、インターフェロン注射を選ばれた理由を教えてください。
- 14 2週間の入院はどのようなものでしたか?
- 15 奥様に「これからは自分のやりたいことをしてほしい」と言われた時、どのように受け止められましたか?
- 16 母親に白血病を打ち明けた時の状況を教えてください。
- 17 テレビゲームに夢中になっていた頃の生活を教えてください。
- 18 名古屋への転勤にともない、新たな医師から分子標的薬への切り替えを勧められます。どのように受け止められましたか?
- 19 分子標的薬(グリベック)に替えていかがでしたか?
- 20 その後、研修のお仕事に替わります。当初どんなご苦労がありましたか?
- 21 「あれから10年間を生きた」という記念日の日を迎えられました。その日は、どのようなお気持ちでしたか?
- 22 奥様は、久田さんという患者さんにどのように接してくれましたか?
- 23 がん患者になりご家族がしてくれたことで感謝していることは?
- 24 長く付き合うことになる「慢性骨髄性白血病(CML)」を患い、いま、これまでを振り返りどのように感じていますか?
- 25 今後も治療を続けるにおいて、次の10年間についてはどのように考えられていますか?
- 26 がんになって失ったもの、得たもの
- 27 大切にしている言葉
- 28 現在治療中の方々に伝えたいこと
- 29 現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと
- 30 久田さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。
- 31 がん患者がしてはいけないこと(3つ)
- 32 がん患者がするべきこと(3つ)
- 33 当時参考にした本
基本情報
名前: 久田邦博さん >>5yearsプロフィール
年代: 50代、男性
病名: 慢性骨髄性白血病
病理:
進行: 慢性期
発症: 2001年8月31日
発生時年齢:38歳
受けた治療:2001年9月 インターフェロン、
2002年4月~ グリベック
合併症:なし
職業: 会社員
生命保険:生命保険加入、がん保険加入
神奈川県への転勤に伴いかかりつけの病院を替わります。最初の病院で血液検査をしたあと医師から「白血球の値が高いので病院に戻ってきてほしい」と連絡がありました。その時の心境を教えてください。
とてもドキドキしました。「なんだろう?」という気持ちでした。
病院に戻り紹介状を書いてもらったあと、その医師から真剣に「絶対にすぐその病院にかかってください」と言われます。その時の状況を教えてください。
医師の真剣な目を見て本当にすぐ掛からなければと思い、病院の玄関まで下りて紹介された病院に電話しました。しかし、既にその病院の外来は終了していて、翌日来てくださいと言われました。「仕方がない」そう思いました。
医師から血液内科で診てもらうように言われ、紹介先の病院に連絡すると翌日の受診となります。その日自宅に戻り “ヤバい”という気持ちがあったと伺いました。どういう心境ですか?
心の中では医師の真剣な表情からして悪性の血液疾患じゃないかという思いが頭をよぎっていました。
「白血球3万」でインターネット検索していたときの状況とお気持ちを教えてください。
絶対に違うと思いたくて、ネット検索で白血球が増加する軽い病気を探しました。
探せば探すほど、一番重い疾患の情報が飛び込んできたのです。慢性骨髄性白血病ではないと信じながらも、その病気の治療法や予後を調べていたのを覚えています。
調べて出てきた「慢性骨髄性白血病(CML)」に対する最初のイメージはいかがでしたか?
この病気は、移植するしか助からない、そんなイメージでした。
紹介先の総合病院で担当医師から「(病名は)何だと思っていますか?」と聞かれた時の心境を教えてください。
自分にとって最悪の病名を伝えて、医師に否定してもらおうと思いました。
久田さんが「慢性骨髄性白血病(CML)だとおもいます」と答えた際、「たぶん、そうでしょう」と返された時のお気持ちを教えてください。
CMLが初めてリアルに感じた時でした。信じたくない気持ちと白血病なんだと思う気持ちがぐらぐらと揺れ動き始めた時でした。
精密検査である骨髄穿刺を受けるまでに数週間ありました。どのような心境でどのように過ごされていましたか?
上記のような揺れ動く気持ちが続き、不安感に常に襲われ、耐え切れず周りの仕事仲間に状況を話していました。
なぜ、骨髄穿刺の検査よりも会社の会議を(一旦)優先されたのですか?
(常に)スケジュール管理をして行動していたため、その習慣に従っていました。自分の命より仕事を優先する愚かさに気付きました。
骨髄穿刺の検査を受けていたときの状況について教えてください。
胸に針を刺すという不安、医師が針先に全体重を掛けてくる痛み、骨髄液を抜くときの何とも言えない不快感を覚えています。
骨髄穿刺の検査のあと1時間安静にしている時間、色んなことを振り返り悔しい思いをします。その心境を教えてください。
口惜しさ、怒りに包まれていました。白血病になる理由を探し続けましたが、答えは見つからず、もやもや感が残りました。
治療法を骨髄移植ではなく、インターフェロン注射を選ばれた理由を教えてください。
骨髄移植の場合、治癒を望めますが、移植そのものにリスクがあり、そのリスク要因は当時、(自分の)年齢(40歳以上)と非血縁者ドナーでした。一人っ子かつ38歳であったため、強い不安を感じました。医師が判断する根拠のような文献を探したところ、「患者に確実に何年生きたいかを聞くといい」と書かれたものを見つけ、自分に問いかけました。そしてその答えは、私の場合10年でした。長男が10歳だったため、彼が成人するまで生き抜き、バトンタッチしたいと考えたのです。7年が治療選択の分岐点で、それより短い場合はインターフェロンと書かれていたのですが、リスクを考えインターフェロン治療を選択しました。そして、その後医師と相談し決定しました。
2週間の入院はどのようなものでしたか?
毎日、インターフェロンを自己注射していました。最初に数日間は夜に悪寒を伴う発熱に悩まされましたが、睡眠薬と解熱剤ですぐに眠れました。日中は特に何も症状はなく、暇つぶしにポータブルゲームをしていました。途中から味覚が変化し食事がまずく感じはじめ、配食カートの音を聞くことが辛くなりました。妻にマクドナルドを買ってきてもらいましたが、やはりおいしくなかったです。
奥様に「これからは自分のやりたいことをしてほしい」と言われた時、どのように受け止められましたか?
(彼女が)半年くらいで死ぬのだろうと思っていると感じたため、3年半生きることを伝えようと思いました。
母親に白血病を打ち明けた時の状況を教えてください。
逆縁になることと、一人っ子であったことから、どんな反応をするか不安で親戚に相談しました。親戚も同様な意見を言う人もいましたが、大丈夫という背中押しを受けて話しました。実際に話してみると、「死なないから大丈夫」と言われあっさりしたものでした。
テレビゲームに夢中になっていた頃の生活を教えてください。
毎朝、注射を打つため、(会社に)10時出社にして頂き、18時頃まで外勤活動をして家に帰り、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーを初期のものからどんどんクリアしていきました。最新作まで全部終えると、野球ゲームを始めてプロ野球と同じように130試合行い優勝することを目指して打ち込んでいました。夕食時間以外はすべてを注ぎ込んでいました。半年経った時点で、人生の残り時間が短いにもかかわらず無駄な時間を消費したことに気が付き、馬鹿だなぁと思いました。そしてその日以来ゲームから卒業しました。
名古屋への転勤にともない、新たな医師から分子標的薬への切り替えを勧められます。どのように受け止められましたか?
インターフェロンで検査結果が良かったため不安でしたが、治療成績が良い点、作用機序がCMLの病態に適していることを丁寧に説明して頂き、最終的に判断を任せてもらったため、この医師への信頼感が高まり、意を決して新薬に掛けてみることにしました。
分子標的薬(グリベック)に替えていかがでしたか?
インターフェロンの自己注射は毎朝面倒だったので楽になりました。また(インターフェロンは)外泊時に保冷バックで持ち歩きホテルの冷蔵庫に入れていく必要があったため、部屋に冷蔵庫があるか調べてホテルを予約する手続きから解放され、出張が身軽になりました。
副作用についても疲労感はあるもののひどい疲労感から解放され、歩いたりすることも楽に感じるようになりました。
その後、研修のお仕事に替わります。当初どんなご苦労がありましたか?
人前で話すことは営業時代から慣れていたため、出来ると思っていたのですが、実際にやってみると教えるということは次元が異なり全然できなかったです。質問にも答えることが出来ず研修を行う日が来ることが怖かったです。
「あれから10年間を生きた」という記念日の日を迎えられました。その日は、どのようなお気持ちでしたか?
その日を出張中に迎え、ホテルに宿泊し眠っていたのですが、突然、吐き気と腹痛に襲われ目を覚まし、トイレに駆け込むと冷汗が噴き出しました。しばらくトイレから出ることが出来なかったのです。その後、死ぬかもと思い、救急車を呼ぶためフロントに電話を掛けようと受話器を持ち上げた瞬間「10年経った日」だと気が付きました。
その瞬間、「死ぬときはこんな感じでお迎えが来るんだ」と思ったのを覚えています。そして、神様にお願いした10年間を生き抜くことが出来たのだから、これ以上命ごいすることは止めようと決めました。
今日は感謝する日だと思いました。10年間自分らしくしっかり生きたので思い残すことはなかったのです。ベットに這い上がり合掌し「ありがとうございます」というとすっと眠りにつけました。翌朝は何事もなかったかのように目覚め気持ちはスッキリしていました。生きなければという重荷から解放されたのだと考えています。
奥様は、久田さんという患者さんにどのように接してくれましたか?
それまでと何も変わらず接してくれました。(彼女が私に)患者として接したことはほとんどなかったです。
がん患者になりご家族がしてくれたことで感謝していることは?
何も変わらなかったことだけです。
長く付き合うことになる「慢性骨髄性白血病(CML)」を患い、いま、これまでを振り返りどのように感じていますか?
自分にとって最も大切なものは「家族」であることを教えてくれました。日々を充実さして生きることの大切さを教えてくれました。人材育成という天職に導いてくれました。多くの仲間と出会わせてくれました。がんサバイバーという大きなキャリアにより講演活動の依頼を受けることが相次ぎ、普通のサラリーマンでは味わえない世界に招待してくれました。
白血病になったことに心から感謝しています。
今後も治療を続けるにおいて、次の10年間についてはどのように考えられていますか?
白血病になった時に今後の人生が気になりネット検索し続けました。どんな状態で生活するのか?仕事はし続けるのか?運動は出来るのか?など。
今後の人生は、後輩のがん患者に夢を与え続けるサバイバーモデルを目指すことにしています。抗がん剤治療中でも長期間生存し元気でバリバリ働いて、しあわせな日々を毎日送っている人がいればきっと希望が膨らむからです。
そのためにどのように乗り越えてどのような考えを持っているかを伝える活動をしていきたいです。一番のコツは「しあわせです。感謝」という言葉をいつも最後につけることを習慣化すること。このことを普及させていきたいです。
がんになって失ったもの、得たもの
【得たもの】
- 家族が最も大切存在であることを知ったこと
- 多くの方に支えられて生きていることに気付き感謝の気持ちを常に持てるようになったこと
- がん患者講演で知り合った多くの仲間
【失ったもの】
- 出世というちっぽけな夢
大切にしている言葉
しあわせです。感謝。
現在治療中の方々に伝えたいこと
がん細胞は命を縮めることはあっても、気持ちの変化には影響を与えないです。すべて自分が決めているのです。告知直後はしっかり落ち込むことは必要ですが、その後は残された人生をいかに楽しむかに焦点を当てて欲しいです。そのためにも「しあわせです。感謝」と呪文を日々唱えて欲しいです。
現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと
その人らしく生きることをサポートして欲しいです。出来ることを奪わないで欲しいです。本当に出来なくなるので。
久田さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。
「しあわせです。感謝」普及活動。がんになっても楽しく生きられることを伝えて生きたい。
がん患者がしてはいけないこと(3つ)
- 自己判断で行動を制限すること
- 自己判断で離職すること
- 自分だけが死ぬと考えること。生きているものはみんないつか死にます。
がん患者がするべきこと(3つ)
- 残された人生をどうすれば充実させられるかを考えること
- 最後まで積極的に生きることを選択すること
- 出来ることと出来なくなったことを冷静に整理すること
当時参考にした本
- 思考は現実化する
- がん六回、人生全快
- 史上最強のリーダー シャクルトン ― 絶望の淵に立っても決してあきらめない
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
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