浸潤性乳管がん トリプルネガティブ 遺伝性乳がん(BRCA2異変)サバイバー 依田福恵さんのストーリーです。
このストーリーの目次
- 【ストーリー】依田福恵さん 乳がん ステージ1 サバイバー(トリプルネガティブ)
- 第1話「乳がんの確定診断」
- 第2話「幼少から社会人になるまで」
- 第3話「母のがん」
- 第4話「交際相手のレントゲンに写る影」
- 第5話「交際相手のがん」
- 第6話「がんの転移」
- 第7話「唐突な知らせ」
- 第8話「全摘か部分摘出か」
- 第9話「始まったがん治療」
- 第10話「左胸の全摘と乳房の同時再建」
- 第11話「抗がん剤治療と復職」
- 第12話「色々なことが起こった2年を越えて」
第1話「乳がんの確定診断」
「とても残念なんですが、亡くなられました…」
部下の人から彼氏が死亡したと伝えられた。
それから2週間後、医師から自分の乳がんの確定診断を受けた。
頭のなかがごちゃごちゃして混乱していた。
東京都東村山市在住の依田福恵さん(54歳、2014年当時49歳)は、自分の母親が昔から病弱な人だったと振り返る。記憶しているだけでも大きな病気を4つも患った人だ。
先ずは「椎間板ヘルニア」。
依田さんがまだ幼稚園にも通っていない3歳の頃、持病の椎間板ヘルニアが悪化して手術を受けていた。
その後も腰痛に悩まされていたため「お母さんを困らせるようなことはしちゃいけない…」と思い自ら我慢をしいた。
3歳の子供だから甘えたい気持ちはあっても「うちのお母さんは腰が痛いんだ。だから、だっこしてとか、おんぶしてとか、言っちゃいけないんだ」そんな風に我慢して育ってきた。
依田さんが中学1年生の時、今度は難病指定されている骨化症を発症する。
脊椎を構成している組織の一部が自然と石灰化する症状が母親に現れた。
なかなか良い治療方法がない中、手術を受けたが病気の進行そのものを抑えるまでには至らない。
一人娘で兄弟のいない依田さんにとって病気がちの母親をいつもそばで見ていることはつらく、厳しいことだった。
「私が、しっかりしなくちゃいけない」
いつの間にかそんな自意識が芽生え、母親が体調を崩すたびにその意識が自然と根をはっていった。
当時東京都杉並区に住んでいた依田さん一家には、自宅に風呂がなかった。
だから近所の銭湯に行くのが3人の毎日の生活だった。
しかし病気がちな妻のことをふびんに思ったのだろう。
父親が家の敷地に風呂場をつくり、その後は銭湯ではなく自宅の風呂になったのを覚えている。
依田さんが中学3年生になって間もないころ、母親が乳がんを患う。
まだ45歳という若さで発症したがん。
左胸を全摘する手術を受けた。
父親はタクシー会社で庶務の仕事をしていたサラリーマンだった。
年中無休の会社のため、休日出勤も時々していたし仕事と会社中心の人で家族との時間は少なかった。
しかも幼い娘との接し方が解らなかったのか、昔から会話の少ない父と娘だった。
多感な幼少のころ、そして10代の頃、家族との関係はちょっと寂しい状態だった。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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