【インタビュー】石川廣司さん 肝臓がん、悪性リンパ腫 サバイバー

肝臓がん ステージ3、悪性リンパ腫 サバイバー 石川廣司さんのインタビューです。

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目次

基本情報

名前: 石川廣司さん >>5yearsプロフィール
年代: 70代、男性
病名: 肝臓がん、悪性リンパ腫
病理: 悪性リンパ腫(濾胞性(ろほうせい)B細胞型非ホジキンリンパ腫)
進行: 肝臓がん(ステージ3)
発症年月: 2010年10月
発生時年齢:64歳
受けた治療: C型肝炎の治療(瀉血(しゃけつ)、薬「ウルソ」、ペグインターフェロン、リパビリン)、肝臓がん(肝細胞癌切除術、ラジオ波焼灼術、肝動脈化学塞栓(そくせん)術)、悪性リンパ腫(抗がん剤治療(リツキサン、ベンダムスチン、R-CHOP)
    
治療期間: 2010年10月~2018年4月
経過:  肝臓がん(再発を含め6回)、悪性リンパ腫(再発を含め3回)
合併症:
職業: 年金受給
生命保険会社:第一生命保険

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C型肝炎の発症を知った時、どのようにお感じになりましたか?ショックでしたか?

AST・ALT・γ-GTPなど肝機能の数値が悪かったので、やはりそうかと思うと同時に肝臓がんにならないようにと願っていました。

インターフェロンは、副作用が強いと聞き、定年まではその治療を受けないようにされます。お医者さんは何と言われていましたか。定年前に仮に試してみたらいかがとは言われませんでしたか?

C型肝炎が陽性とでた1995年頃は、インターフェロンの治癒率も低く、また、副作用も鬱になるなどと言われ、紹介された病院の医師も消極的でした。
また、上目線の嫌な感じの医師でしたので、近所の診療所で月に一回の検査を受ける経過観察にしました。

2006年、日本大学医学部附属板橋病院で「肝臓がんの疑い」を告げられます。「肝臓がん」=「死」のイメージがあったと言われましたが、なぜ、そのように思いこまれていたのでしょうか?

肝臓がん、肝硬変はサイレントキラーといわれ、気が付いたときは、末期で余命何ヶ月という場合が多いように思っていました。また、丁度その頃に、漫画家、はらたいら氏が肝臓がんで亡くなったことも影響しています。

2006年は、詳しい検査の結果、良性腫瘍と言われますが、そのまま何もせず大丈夫ということでしたか?それとも悪性転嫁する可能性があるから取りましょうとはならなかったでしょうか?

良性腫瘍においては、何も言われませんでしたが、ウイルスの数値が高く、肝機能の数値も悪いので、治療が必要だと主治医に言われました。

C型肝炎の治療、「瀉血(しゃけつ)」と薬「ウルソ」による治療はいかがでしたか?副作用、生活への影響など教えてください。

瀉血は、少し貧血気味になった程度で、ウルソの副作用は殆んどありませんでした。

2010年、日本大学医学部附属板橋病院で「肝臓がん(ステージ3)」の発症を告げられます。ある程度、知識があったから「死」をイメージはしなかったと伺いましたが、今後のことをどのように感じましたか?

まずは、当面の肝臓がんの外科手術に覚悟を決めて臨むことで、頭はいっぱいで、その後のことについては神経が回りませんでした。

肝臓がんの確定診断がおりた時、奥さまはどのような様子でしたか?スイッチが入ったとはどういうことでしょうか?

妻が書いたものを私が要約します「私は複雑な家庭環境で育ったために双極性障害になり辛い生活を強いられました。結婚しても伏している日が多く居場所がない感じでした。
8年前に夫が肝臓がんと悪性リンパ腫になり、外科手術を受けて、夫がしばらくの間歩けなくなったりして、私の介護を必要とするようになり、やっと私自身の存在価値を見い出せた思いで、やる気スイッチが入って、かなり張り切って介護をしました。
ただ、このやる気スイッチは、その後の夫の癌の再々発で何度も入退院を繰り返して、寛解しないので、私も疲れてきて、やる気が落ちて、精神の症状が悪くなってきています。」以上ですが、妻は状態が良い日もあれば躁や鬱の日もあります。
今年の2~3月頃は、抗がん剤の副作用もひどく、妻の躁状態も最悪でしたので、私にとって、がんを患って以来、一番辛く大変な時期でした。現在は比較的に安定しています。

2010年12月、肝臓がんの手術(肝細胞癌切除術)を受けられます。痛くて大変だったと伺いましたが、事前にどのような手術であると説明を受けて、実際、手術後の体調はいかがでしたか?

手術前の2週間強の検査入院は別として、入院した日に担当医師から事前説明と同意書の署名はありましたが、あわただしく事前説明の内容は覚えていません。
手術後に担当医師から肋骨と肋間神経を切っているので、半年間位は痛むと言われました。手術痕は非常に痛く、2ヶ月以上座薬で凌ぎました。
◆検査入院中は、良性か悪性かが退院日まで決まらず、気持ちが右・左に振られました。

2011年1月、日本大学医学部附属板橋病院・血液内科で「悪性リンパ腫」の発症を告げられます。この血液がんは、C型肝炎とか肝臓がんと関連があるのでしょうか?

C型肝炎と関係があるかもしれませんが、血液内科の先生は、関係はないのではないかと言っていました。

悪性リンパ腫の告知を受けて、「神様は、ここまで過酷なことをするのか」とがっかりされます。この当時、悪性リンパ腫に関してどのような印象を持っていましたか?

知人で亡くなった人がいましたが、悪性リンパ腫に関しては、殆んど何も知りませんでした。後に血液のがんで治りにくく、治っても再発率が高いことが分かりました。

悪性リンパ腫を発症しますが、それまでに兆候とか、症状とか出ていたのでしょうか?

しこりもなく自覚症状は全くありませんでした。腫瘍マーカーであるインターロイキンの数値とCT画像やPET診断で病巣の広がり具合で治療しました。
今のところ、見えない敵との戦いです。

2010年、リツキサンによる抗がん剤治療を受けられます。全4クール受けられたとのことですが、当時の生活はいかがでしたか?

入院期間中は、手術痕が痛く、不自由な入院生活をしました。2クール目からは通院での抗がん剤投与でしたが3回目のクールを終えた翌日に東日本大震災がありました。
そのショックと目を覆うほどの痛ましい光景の印象が強く、自身の闘病生活については、ほとんど思い出せないというのが実情です。

その後、C型肝炎の治療(ペグインターフェロン、リパビリン)を48回受けますが、当時、どのような生活をされていましたか?普通に生活できていましたか?

5回の注射でC型ウイルスが消えたので、再びウイルスがでないことを願っていました。手術痕もまだ痛く、治療中は安静にしていなければいけませんので、映画DVD、音楽、読書に慣れ親しみました。

2013年、経過観察で肝臓がんの再発を告げられます。当時のお気持ちを教えてください。

大手術をして、僅か2年で再発するとは思っていなかったので愕然としました。
主治医からは絶対に外科手術をした方がよいといわれ、また、あの厳しい手術を受けなければならないのかと暗然たる思いになりました。
そして、熟慮の末にラジオ波焼灼術で治療することを決意した。

肝臓がんを発症した後、タバコをやめられます。これは、肝臓がんの原因をタバコだと思われているのでしょうか?

タバコもアルコールも健康を害しますが、肝臓がんの原因とは思っていません。
90%以上がんだと言われましたが、あとの10%を祈ってタバコ・酒断ちをしました。
結果、誤診で良性のがんでしたので、その返礼の証しとしてタバコを断ちました。

肝臓がんの再発外科手術を避け、ラジオ波焼灼術を選ばれます。この選択は石川さんには良かったと思いますか?それとも、振り返って外科手術でもよかったと思いますか?

 6回も肝臓がんを発症していますので、ラジオ波焼灼術の選択は間違っていなかったと確信しています。

順天堂大学医学部附属練馬病院で受けられたラジオ波焼灼術について、痛み、怖さ、効果、治療後の体調等、どんな治療か教えてください。

肝臓がんに特殊な針を刺し、通電させることでその針の先端部から100℃程度の熱を発生させ、針先端周辺のがんを焼灼する治療法です。身体的負担が少なく、1週間もすれば普通に生活できます。がんに針が刺さる時など痛みはありますが一時的だと思えば我慢できます。不思議に怖さはありませんでした。

2015年、順天堂大学医学部附属練馬病院で悪性リンパ腫の再発を告げられます。この時の心境を教えてください。どのようなことを感じられましたか?

1年前から下腹部のCT画像で悪性リンパ腫が広がっていくのが分かっており、抗がん剤治療を覚悟していました。ただ、半年間に渡る抗がん剤治療において副作用があまり出なければよいと思っていました。

抗がん剤(リツキサン、ベンダムスチン)の副作用はいかがでしたか?

ベンダムスチンの点滴日から2~3日は若干の吐き気があり、あとはかゆみがあるくらいでしたが、点滴の針が巧く入らず苦労しました。
また、丁度真夏の酷暑時に便秘で非常に苦しい思いをしたので、その日以降は下剤などを使い、便秘にならないよう十分に注意しました。

2015年秋、肝臓がんの2度目の再発を告げられました。正直、どのようなことを感じられましたか?

半年間の悪性リンパ腫の治療を終えた直後でしたので、ショックが尚更大きかったです。また、肺の近くの横隔膜の近くで、治療が難しく、胸水を入れて肺を浮かしてラジオ波焼灼をしました。結果、一部焼き残しがあり、再度、胸水を1000cc注入して施術しました。

翌年、2016年秋、3度目の肝臓がんの再発を告げられます。なぜ、これほど短い期間に何回も再発したのでしょうか?お医者さんは何と言われていましたか?

1年前のがん細胞の近くにできているので、そこの部分にがんの病巣があるので、肝動脈化学塞栓術という肝動脈内にカテーテルを挿入し肝動脈内に抗癌剤と塞栓物質を投与して血流を遮断し、兵糧攻めにして癌を死滅させる方法で施術するが、一回目は私の血管が難しく曲がっており巧くいかず、違うカテーテルで再び試みて、今度は成功しました。
それから2週間後に再度、入院してラジオ波焼灼術を受けました。
主治医師からは、1回目の肝動脈塞栓術が巧くできなかった時に、肝細胞切除手術を受けた方がよいと言われましたが、早く死んでもよいからと言い、断りました。

さらに2017年、肝臓がんの再発(4回目)と悪性リンパ腫の再発(2回目)を告げられ、「同時再発」という言葉まで使われます。当時のお気持ちを教えてください。

告知された時は、ショックというよりもある種の空虚感で無気力になりました。
私は立ち直りが早いので、暫くしてから普通の状況に戻りましたが。

抗がん剤治療(R-CHOP)はいかがでしたか?体調と副作用を教えてください。この頃の生活はどんな感じでしたか?

リツキサンは3回目で身体が慣れたのか、初回の点滴後の熱も37℃強位の微熱で済みました。Chopも3クール位までは手足のしびれが多少あった程度でたいしことはなかった。初回時のchop投与後に脱毛し始めたので、床屋で丸坊主にしてスッキリさせました。ただ、chop投与は回を重ねるごとに手足のしびれがひどくなり、5~6回目の投与時には歩行も困難で辛かったです。
今は、その時からみるとよくなりましたが、まだ手足のしびれが残り、不便な思いをしています。

治療中に70歳の誕生日を迎えられます。この日はどのようにしてお祝いされましたか?

12月4日が私の誕生日で、昨年は3日前に退院して71歳になりました。
妻が懐石料理をごちそうしてくれました。

「肝臓がん(ステージ3)を8年間」、「悪性リンパ腫を8年間」生きました。すごいことですが、振り返りどのように感じられていますか?

考えてみるとよく生きたなと思いますが、何か死ぬのは運命だという気がします。
死ぬ時は死ぬので、あまり気負うことなく、自然体でこれからも過ごしていこうと思っています。

がん治療中に奥さまがしてくれたことで感謝していることは何ですか?

妻自身が双極性障害で大変なのに、そのようななかで、随分と頑張って介護してくれたと感謝しています。
その反動で2年ほど前から躁鬱の症状がみられるので心が痛みます。

これまで、度重なるがん再発という試練を、どうやって乗り越えましたか?

特別に意識していませんが、あまり頑張るとか深刻にならない方が良いような気がします。私の場合、恐らくがんとの闘いは死ぬまで続きます。
それ故に、長い道のりを歩むことになりますので、力を抜いて息を入れて過ごすようにしました。また、病と離れて趣味の映画や音楽に身を託し、心を癒したのが良かったと思います。

肝臓がんを発症した頃と、再発を6回も乗り越えた今とでは、がんに対するお考えがどのように変わりましたか?

過去5回の肝臓がんでは、どれもかなり際どい思いをしてきました。
その体験からも肝臓がんの生存率の低さが分かります。ただ、最初のがん発症時に思った肝臓がんイコール死というイメージはなく、致命的なところに発症しない限り、早期発見と治療の選択を見誤らないでいけば、充分に生きていけることを痛感しました。

治療中、リハビリ中、心の浮き沈みに、どのように向き合いましたか?

妻の精神状態が悪くなければ、あまり心が沈むことがありません。
それに関係なく、自宅にいる時は、音楽を聴きながら、天気の良い時は、自然に身を置き、自身の想像の世界に、過去の物語に身を委ねます。

石川さんにとって信頼できる医師とはどんなお医者さんですか?

患者の話によく耳を傾ける医師。治療方法や症状など明確に分かり易く説明する医師。
手術の場合、経験や技術力のある医師。結果において断言しない医師etc。

患者友達の方たちの存在意義を教えてください。

私は患者友達がいないのでよく分かりませんが、いてもあまり病を慰め合うような仲にはなりたくないです。残りの人生を、今をどう生きていくかなどを語り合えたら良いと思います。

ふたつのがんを経験して感じたことは何ですか?

悪性リンパ腫の抗がん剤治療は、免疫力を下げるので肝臓がんを助長させると感じています。
肝臓がんのラジオ波焼灼術の治療は悪性リンパ種が下腹部に広がっている時はできないなどそれぞれに相互作用があり、昨年、同時に発症したときは、やけにはならないが、まな板の鯉のような気持ちになりました。
ひとつだけでも大変なのにふたつとは、もう勘弁して欲しいというのが正直な気持ちです。

がんになって失ったもの、得たものは何ですか?

【得たもの】

  1. 普通に生活できることの喜びと尊さ。
  2. 身体や精神的な病に苦しむ人に対して、心から共感できるようになった。
  3. 感受性や想像力が高まり、人生、社会、世相など様々なことを深く考えられる。

【失ったもの】

  1. 健康な身体
  2. 普通の日常生活
  3. パートの仕事収入と治療費

大切にしている言葉は何ですか?

「今を生きる」現在を大切に生きることが、将来を切り拓くことになると信じています。先が分からない私自身はその日その日が笑顔で終われるよう心掛けています。

現在治療中の方々に伝えたいことを教えてください。

現状を冷静に判断し、信頼できる医師がいたらその医師に治療を任せ、自分は余計な心配をせずに落ち着いて治療に向き合ってもらいたいです。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいことを教えてください。

介護でいろいろ大変だと思いますが、決して介護疲れなどしないように穏やかな生活を送って欲しいです。患者さん自身もそれが心配で、そのような生活環境を望んでいます。

石川さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいことは何ですか?

今は新たな肝臓がんの発症がありましたので、その治療前にひと休止です。
手足のしびれがあるため自由に動けないのが残念です。
人は皆、物語やドラマを持っています。むしろ平凡な日常生活の中にこそ、真実の物語があると思います。そのような物語作りをすることを考えています。

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  1. がんは様態によって、個人個人それぞれに違うと思います。ネットなどで知ったことをむやみに当てはめない方がよいでしょう。
  2. 人生には運の流れがあります。暗く落ち込んでいると悪い方に流れていきます。
  3. 医師や看護師さんの前で「死んでもいい」と言わないこと。尊厳死の選択は別。

がん患者がするべきこと(3つ)

  1. 趣味に没頭すること。病から気持ちが離れている時が必要。
  2. 難しいができるだけ多くの人を好きになる。人と人とのつながりが必要です。
    相手が少ないと距離感を保つことが難しく、また、負担をかけすぎてしまう。
  3. 楽しく笑うことが免疫力を高めます。

周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉

  1. 友達から会いたいと言われるだけで嬉しいです。
  2. 坊主頭がよく似合いますね。(脱毛した時に気にしていたので)
  3. 私をみると明るく穏やかなので、勇気をもらいます。(褒めすぎですが病人でも人を喜ばすことができるのかなと嬉しい気持ちなります)

周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉

  1. がんになるなんて不幸ですね。(病イコール不幸ではない)
  2. 大丈夫だよ。(簡単に大丈夫といわれる類いではない)

当時参考にした本

  1. カズオ・イシグロ著作「日の名残り」
  2. 遠藤周作著作「わたしが・棄てた・女」
  3. 五木寛之著作「孤独のすすめ」

◆病の参考にはなりませんが、最近読んだ本で心に残る印象的な本です。

>>石川廣司さんの「ストーリー(がん闘病記)」はこちら

>>石川廣司さんの「がん経済」はこちら

取材:大久保淳一

この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
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