【インタビュー】池田実さん すい臓がん ステージ4 サバイバー

すい臓がん(膵体部癌) ステージ4サバイバー 池田実さんのインタビューです。

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目次

基本情報

名前: 池田実さん >>5yearsプロフィール
年代: 70代、男性
病名: 膵体部癌
病理: 腹腔動脈、脾動脈周囲、神経叢、脾動脈への直接浸潤、脾前方被膜浸潤、後腹膜浸潤、門脈浸潤、リンパ節転移2/15、他臓器転移-なし
進行: 進行性すい臓がん ステージ4a
発症年月: 2012年8月
発生時年齢:69才
受けた治療: 手術「遠位側膵切除(脾合併切除)、腹腔動脈幹、門脈合併切除」、抗がん剤治療(ジェムザール)合計11クール

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会社務めを辞めてから、健康診断を受けていませんでした。不安ではなかったですか?なぜ、受けられなかったのですか?

これまで大きな病気はしたことがなく、体調も良かったから不安を感じませんでした。それに多忙で常に心の負担を抱え、健康診断そのものが念頭になかったです。

2012年8月、胃腸の調子がイマイチで不快感があります。どんな感じの体調だったのでしょうか?悪化していたのでしょうか?

不調と言ってもほんの僅かで、ほとんど自覚症状言えるような物はなく元気でした。膵臓がんは、多くの場合自覚症状は無く、そのため相当進行してからの発見になるようですが、自分もそうでした。

奥様が病院に行かれる予定があったので、一緒に千葉徳洲会病院に行かれます。何と診断されると思っていましたか?

胃腸の不調をかすかに感じていたので、整腸剤の調合ぐらいかと思っていました。

内科で女性医師に診察され、さまざまな検査を受けられます。担当した医師は、当初からがんを疑っていた様子ですか?

たぶん、そうだと思いますが、詳細はわかりません。ただ、そのおかげで膵臓がんの発見と確定が非常に早かったと思います。

検査結果を知らされるまで1週間空きますが、普通に会社に行っていたと言われました。体調はいかがでしたか?

不調を全く感じることなく、普通に勤務していました。

1週間後、病院に行くと、進行したすい臓がんと告げられます。この時のお気持ちを教えてください。

自分の家系には癌で亡くなった人はいないので、まさかと思うと同時に、ある種の死の覚悟が必要だと思いました。先に義兄が膵臓がんで亡くなっていたので、その時の様子が脳裏に浮かびました。

即日、入院してほしいと言われた時、会社のことを思い、入院を翌日にしてほしいと医師にお願いします。お医者さんは何と言われていましたか?

特に反対はなく、快く了解していただきました。ただ、膵臓癌は進行が速いので、素早い対応が重要と言う説明がありました。

病院で、奥さまにがんの事実を伝えました。奥さまは何と言われていましたか?どんなご様子でしたか?

余りの驚きに、声がでなかったです。妻も義兄の膵臓がんでの末期に立ち会っていたので、余計に衝撃だったと思います。

会社に出社し、みんなに「すい臓がん」であると伝えます。会社の皆さんは、どんな雰囲気でしたか?もうこの会社は終わりだというような雰囲気にはなっていませんでしたか?

突然なので当然驚いていましたが、会社のことは心配せずに療養に専念して欲しいという頼もしい反応でした。

入院し検査が続きます。「まな板の鯉」状態という心境について教えてください。

医療に関しては、医師以外はだれも立ち入れない領域なので、じたばたしてもどうしようもない、運を天に任せる時が来たのだと感じました。

内科医が奥さまに余命宣告をされる一方、高森医師が手術をすると言われます。池田さんは、この時どのようなお気持ちでしたか?

一般に癌治療では実績が多い有名病院が推奨されますが、そうした施設はリスクが高い対応は避ける傾向があると聞きます。
高森医師 肝胆膵外科(当時 千葉徳洲会病院 病院長、現在 五井病院 病院長)は、他の医師の反対意見もある中で自分の判断に従い手術を決断したので、自分はその高森医師に全てを委ねようと思いました。
親戚など縁者からは、もっと有名な病院への転院を勧める声もあったのですが、自分は高森医師に深い信頼感を抱き、それらの意見に従わなかったです。
この信頼感は、予後を含め良い結果をもたらすための大きな力になったのではないかと思います。

健康に自信があったにもかかわらず、すい臓がん(ステージ4)という事実を、その後、どのように受け止めらいかれましたか?

なってしまったからには、あれこれ考えたり悩んでもどうしようもない。やれることをやるだけ、と思いました。

手術「遠位側膵切除(脾合併切除)、腹腔動脈幹、門脈合併切除」が無事終わったのに、体調が優れなかったと言われます。どんな体調だったのでしょうか?詳しく教えてください。

食欲不振、全身衰弱、軽い鬱状態、不眠、食後の腹痛や強い不快感、神経叢の廓清による激しい下痢などです。

病院の窓の向こうに見える自宅の方向。「もう、あそこには生きて帰れないのではないか…」という心境について教えてください。

体の衰弱が激しく、夜も寝られず不安感が募り、自分はもう長くは生きられないのではないかと密かに思ったこともありました。

「急性無石胆嚢炎(胆のう炎)」は、手術の合併症だったのでしょうか?

合併症ではなく、余りの食欲のなさなどの異常から発見されたと思います。初めは内科的な対応として、滞留した胆汁を体外に排出するドレナージを1週間ほど行ったのですが、結果が思わしくなく、胆のうの全摘出手術を実施しました。

入院してから退院するまでに、体重が63kgから45kgまで減ります。なぜ、そうなってしまったのでしょうか?

大きく体力を奪う手術が短期間に連続的に行われ、その上食欲が全くなく食事が取れないため栄養剤の点滴を行っていました。しかし、それでも補えなかったです。

当時、骨と皮だけのような人になってしまったと伺いましたが、体調はいかがでしたか?

気力は失っていなかったのですが、押せばすぐ倒れるのではなかと思うほど衰弱していました。その後、多少回復した時点で重いスツケースを持ち上げようとして、そのまま激しく転倒したこともあります。
健康な時の気持ちと、その時点の体力が完全に乖離していたように思います。

「がん(すい臓がん)で死ぬのは、人生の終わり方として悪くない」という心の整理は、年齢が69歳だからそのように考えたのでしょうか?もし、40代、50代であれば、そのように心を整理されなかったと思いますか?

おそらく、もっと若ければ違うと思います。責任も執着も沢山あるので、簡単には整理できないのではないでしょうか? 子供が小さいとかであれば、なおさらだろうと思います。
そう考えると、かなり年を取ってからの癌の発病だったので気持的に大分楽だったはずです。

インターネット検索をして、情報を集めていると嫌な気持ちになったと言われましたが、詳しく教えて頂けますか?

膵臓癌は手術できるケースが少なく、できても予後が非常に悪いなど、何処にも良い情報はないです。容易に病後の希望を持てるような病でないことを強く認識させられました。この先に待ち受けるであろう苦難を思うと嬉しくはなかったです。
また、結構多くの癌関係のブログが、書き手の死亡によって終わっている事実も衝撃でした。

退院して、自宅にいた時、どのように過ごされていたのでしょうか?

食事をするとその後から腹痛や不快感があり、食欲もなく摂食に時間がかかりました。軽い散歩以外は、3度の食事でほぼ一日が終わっていたと思います。

義兄(姉の連れ合い)をすい臓がんで亡くされた奥さまは、さぞ心配していたと思います。当時、兄のがんと池田さんのすい臓がんと比較して、何か言われていましたか?

義兄の罹病当時は、膵臓がんに適応する抗癌剤もなく、しかも手遅れで手術もできませんでした。その上、本人の希望で鎮痛剤の使用を控えていたため、悲惨な終末でした。

それに引き替え、今回は手術ができた上に抗癌剤もあるから大丈夫と、妻は励ましてくれました。
その裏で、初期の時点で内科医から妻には、余命2から3か月と告げられていたので、内心はさぞや不安で大きな葛藤があったと思います。

抗がん剤(ジェムザール)の副作用について教えてください。

元来、ジェムザールは比較的に副作用が軽いということで、食欲不振、倦怠感や脱毛がありましたが、さほど重篤ではなかったです。
ただ、看護師からは家でもトイレは必ず2度流す、小用も必ず座って行うなどの注意があり、抗がん剤の毒性の激しさに驚かされました。

通院で週に1日、ジェムザールを投与する治療は、いかがでしたか?

午前中の半日間だけ点滴時にベッドに寝ているだけなので抗がん剤の投与は楽でした。ただ、血管が細いため、点滴の針を刺すのを良く失敗して何度かやり直すことがありました。

途中で脊髄抑制により赤血球が減り、輸血を行ったり休薬期間を設けた事もありました。また、現在も貧血は続き造血剤の服用を続けています。

抗がん剤治療中、毎日、どのようにして過ごされていたのでしょうか?

鬱的な気分になる傾向があったので、大好きなミュージカルの「オペラ座の怪人」のDVDを見たりして楽しむ一方、ニューヨークを再訪して本物の舞台を見たいなど、前向きの思いをかきてるようにしていました。

すい臓がんから、無事「3ヵ月」を迎えられた時の心境を教えてください。

高森医師から3ヶ月が1つの山になることが多いと聞いて、やはり厳しい病であることを再認識しましたが、それを超えられたことが素直に嬉しかったです。

治療中、お二人の生活のお金については、どのようにされていたのでしょうか?

会社の給与と年金の受給がありました。

約1年間の抗がん剤(ジェムザール)治療をやり遂げた時のお気持ちを教えてください。

良くもここまで来たものだとおもいました。自分は幸運に恵まれたようだと感じました。

ただ、膵臓癌では、手術後に転移や再発が高率で発生するので、全く安心はできないという認識があり、これで大丈夫なら良いのだが・・そうはいかないだろう、とも思っていました。

70歳になり「再び、生まれた」というお気持ちについて教えてください。徐々に元気になってきたから、老いているというより、生まれていると感じられたのでしょうか?

極度の衰弱や多分助からないだろうという絶望感など、いわば最低からの回復、再スタートだったので、万物の全てが輝かしく希望に満ちて見えました。
それは健康であれば得られないような、青春時代に劣らない素晴らしい追体験でした。

会社に復職したとき、会社が変わってしまったと感じたのは、どのような事でしょうか?差しさわりのない範囲で教えてください。

同じ目的に向かって、長年心を一にして活動してきたはずが、ある日を境に相反する見方になって互いに敵対心を抱くようになっていました。
直接的に利害が対立することよりも、互を理解できない関係に至った事が残念でした。

体調がイマイチで、30年以上も走っていないのに、東京マラソンに応募されたのはなぜですか?

体力も非常に徐々に回復してきて、ここで何かに挑戦したいと思っていましたが、自分にできることは、まず走ることでした。
幸いに東京マラソンの抽選に当たったのを契機に、徐々に本格的な練習を始めました。

再発・転移なく「がんから2年」を迎えた時の心境と状況について教えてください。

夢中で過ごす内にもう2年もたったのかと驚いたことと、同時に難しいと言われた手術をやり遂げて、重篤な合併症も生じなかった高森医師への感謝。また、これまで支えてくれた家族への感謝の念がわきました
同時に、皆に生かしてもらっている、という自然にわき起こる感謝の思いでした。

東京マラソン、スキーと復帰されます。がんを経験していなかったら、再開しなかったでしょうか?

多分、再開はなかったと思います。元気であれば、相変わらず会社第1で走り回っていたと思います。病後のスポーツの再開は、健康な時より楽しみは大きくて深いように感じます。

日光白根山を登頂したとき、「この世に戻ってきた」と思われたと伺いました。このお気持ちについて教えてください。スキー、マラソン復帰の時にも「このように戻ってきた」と感じていたのではないでしょうか?

死の淵まで行っていた自分が、今は自分の意志と足で自由に動きまわることができ、山の頂に立ち、雪の斜面を滑り降り、フルマラソンを走り切る。
その喜びと感慨の瞬間は、再びこの世に舞い戻った実感を私にもたらしました。それだけでなく、見慣れた変哲もないブナ林だってそうです。
自然の中にいるだけで復活の喜びを感じられるようになりました。

いま、がんを経験していない73歳の方より、お元気に見受けられます。何が、健康の秘訣でしょうか?

自分なりに目標を持ち、それに向かって活動することではないかと思います。自分の趣味のどれも、長い間中断していた物で、普通ならそろそろ止めようという年です。
しかし、病後の自分にとってはそれらが、かけがえのない目標であり生きがいになっています。不思議なことに、数十年来の手慣れた事物のはずだがですが、全てが10代での初めての経験のように瑞々しく新鮮です。

進行したすい臓がんを経験して感じたこと

生物を構成する細胞は、生存期間がプログラムされており必ず死に、新しい細胞が生まれ、それに取ってかわります。人間も細胞からできており、必ず死ぬことを免れません。
そうであれば、生への執着が強すぎるのは不幸ではないでしょうか。
自分は、抗らえない場合は、あきらめ(安心立命)の境地を目指したいと思います。
少なくとも死の間際には全てから解放されて安寧でありたい、そうでないと救われないのではないかと思います。
今は、そのゴールを目指すために与えられた時間だと思っています。

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】

  1. 家族の絆
  2. 残された時間の質を高めることを考える
  3. 生きていることは、それ自体が素晴らしいことを知る

【失ったもの】

  1. 体力
  2. お金、財産貯蓄
  3. 時間

大切にしている言葉

Keep on going(日野原 重明氏の言葉)

現在治療中の方々に伝えたいこと

できるだけ、前向きに明るいことを考えること。できる範囲で体を動かし運動をすること。自分なりの新しい発見をすること。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

自分の健康も考え、できるだけ息抜きをすること。明るいことを考え、笑うこと。できたら趣味を継続する、または、新たに始めること。

池田さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。

現在、リュック(バックパック)の新製品の開発を進めています。特許の申請を行い、今後の事業化を目指しています。
この業界は、安価な製品は中国やベトナムなどに市場を奪われ、付加価値が高い製品は欧米が席巻していて、空洞化が激しく製造技術も失われつつあります。

日本から競争力を備えた新製品を生み出したい。その思いで、資金不足や経験不足を創意と工夫で乗り切り、ぜひ成功させたいと思っています。

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  1. 希望を失う
  2. 標準治療以外の療法では極端に走らないよう注意する(食事、サプリや民間療法)
  3. 何かに頼りたくなるが、盲信しない(常に冷静に判断力を働かせる)

がん患者がするべきこと(3つ)

  1. 良く動く、食べる、寝る、笑う
  2. 癌に関する医療や施策の最新情報を知る
  3. 社会との接点を持つ

周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉

  1. 自分の存在が大切だと思わせる言葉
  2. 以前より元気に見える、すごいね

周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉

なしーどんな言葉に対しても不愉快に感じない自分の感性を育てよう

復職する際に大切なこと

  1. 休職前と後の職場などの環境変化に注意する
  2. いきなり100%発進は避けた方が良い
  3. 以前と現在の自分を比較しない

当時参考にした本

  1. 癌に利く生活 ダビッド・S・シュレベール
  2. 絶望から復活した15人 中山 武
  3. いま、希望を語ろう ポール・カラニシ

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取材:大久保淳一

この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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