【インタビュー】阿部久美子さん 乳がん ステージ2(ルミナルA)サバイバー

乳がん ステージ2(ルミナルA) サバイバー 阿部久美子さんのインタビューです。

※ストーリーをまだ読まれていない場合は先に読まれることをおすすめします。

>>がん闘病「ストーリー」記事から読む

目次

基本情報

名前: 阿部久美子さん >>5yearsプロフィール
年代: 40代、女性
病名: 右乳房上内側部乳癌
病理: ホルモン受容体・陽性、HER2・陰性タイプ(ルミナルA)
進行: 病理診断時ステージ1(しこり1.5㎝)、切除術ステージ2(しこり2.2㎝)
発症: 2015.11触診~2016.1病理確定~2016.4摘出
発生時年齢:42歳
受けた治療:ホルモン療法(リュープリン注射、タモキシフェン服用)
    
期間: 2015.11触診発見~2016.1病理診断確定~2016.4乳がん摘出術~2017.1乳房再建術
合併症:無し
職業: 金融業(ファイナンシャル・プランナー)
生命保険:神奈川県民共済、ひまわり生命、あんしん生命、富士生命

>>阿部久美子さんの「ストーリー」はこちら

>>阿部久美子さんの「がん経済」はこちら

2009年、36歳の時の乳がん検診で、乳腺の密度が高いと言われます。それは、乳がんの発症と関係あると考えていらっしゃいますか?

あると確信しております。乳腺の密度が高いという事は、女性疾病のリスクが高い…乳がんが発覚してから何故私が乳がんになったのだろう?と原因を追究している場面もあり、調べました。乳腺密度が高い事は、いかようにもなりえるわけですので。健診では、乳腺で指摘が出ていたので、今思えばあの時から用心しておくべきでした。

子宮筋腫については、その後問題なかったのでしょうか?

子宮筋腫は、問題ないと産婦人科の医師から言われています。現在、体癌検診を年に2回と頸癌検診を年に1回行っており、子宮筋腫が一つかと思っていたら二つあったのでびっくりしました。
リュープリン注射は生理を止める作用が働くので、閉経すると子宮筋腫も小さくなる為、若干小さくなったと医師から言われました。乳がんと子宮筋腫は女性疾病として密接に関わっているので、注意しながら生活を送っています。

2008年から2012年までの間、乳がん検診の結果はいかがでしたか?

乳がん検診は1度だけ受けただけでした。問題ないという結果でした。
私には関係ないという気持ちで、通常の健康診断は行っていても乳がん検診までやらなかったです。

激務が続き、太陽の光がまぶしくて見られない状態になられます。当時どんな体調だったのですか?

不規則な生活が続き、夜仕事から帰ってきてお腹いっぱい食べ、寝不足が続きました。栄養不足もあったと思います。疲れ果てて、身体にムチをふるってやっと起き上がり会社に行く日々でした。

2012年・夏に心療内科クリニックを訪れます。何か治療を開始したのでしょうか?

とにかく、寝る事でした。眠かったらとことん寝て下さいと医師に言われました。
薬は好きではなかったのと副作用もあったので、一切服用しませんでした。
大好きなお客さまや友人と、よくお茶をしたり旅行など楽しんでおりました。

会社を辞めて、独立します。不安でしたか?当時、どのようなことを感じていましたか?

本格的に1年間独立の準備をしました。ですが、給与が激減すると予想し計算していたので、生活をしていけるのかどうか不安で押しつぶされる事もありました。お客さまや仲間たちが背中を押してくれたので、大手の会社で馬車馬のように働くのは疲れ果てていたので、独立の道しかなかったと言い換えても良いと思います。不安よりも期待値が大きく、とにかくガムシャラでした。

独立したために、健康診断を後回しにしていたと伺いました。2013年から2015年の間、一度も健康診断、乳がん検診、子宮がん検診を受けられなかったのでしょうか?

一度も行いませんでした。

それまで行っていた入浴中の胸の触診は、いつごろまで、どんな頻度で行っていたのですか?

乳がんと生命保険を学ぶ事があり、35歳の頃からほぼ毎日触診していました。
そして、乳がんが発覚する半年前から忙しくて自分の身体を気遣ってあげられなかったので、触診さえしておりませんでした。

2015年11月26日に、スーツから着替えようとした時、右胸のしこりを見つけます。どんなお気持ちでしたか?

ハッ!!!やってしまった!!!
かなり忙しい日々でしたので、心のどこかに身体に何かあってもおかしくないという変な想いがありました。そうか、私の不安は乳がんになってしまったか・・・
そんな想いでした。

お母さまに電話したとき、勘違いされ、そのままにしてしまいます。なぜ、ご自分のことであると言わなかったのでしょうか?

きちんと検診をしてからでないと、母に言えないと思いました。
余計な心配をかけてしまうと、思ってしまいました。
ですが、言いたかったのが本音です。

インターネットで検索し、翌日、病院に行かれます。どうやって病院を選びだされたのですか?

婦人科 病院 横浜市都筑区(当時住んでいたエリア)というキーワードで探しました。

最初のクリニックで「良性か、悪性かは半々の確率」と言われた時、どのように感じられましたか?

半分半分なので、良性であってほしいと思いました。ですが、心のど真ん中では悪性であると分かっていました。
夢であってほしいと、願う心境もありました。

「なぜ、自分が“がん”になるのか…?」と嘆かれます。どのような心境でしたか?

私の何が悪いのか?行状で何か悪い事をしたのか?よりによって、ガンなんて…信じられませんでした。
同時に、誰もがガンになるリスクはあるのだと学びました。

やがて医療よりも美容のことが気になりだします。なぜ、そのようになっていったのですか?

もともと美と健康には大変興味があり、勉強もしておりました。身体に良い事は試して結果も出ていたので、少し自信がありました。

美容を優先していたとき、死生観のようなものはありましたか?

全くありませんでした。どちらかと言うと、メスを入れる方が死生観だと思っておりました。

生検したら、針でがんが飛び散るかもしれないと思われたのは、なぜですか?

友人で、健康分野に特化した人が沢山おりました。色々とアドバイスがあり、また本を読んだり健康セミナーへ出かけたりする事が多かったので、針生検は危険だと思っておりました。

標準治療を勧める主治医と歯車が食い違いだします。辛かったと思いますが、当時、どのようなお気持ちで医師と話していましたか?

病院へ行く事は、仕事の一環だと思い込んでおりました。そう思わないと動けないと感じました。あまりにも速い展開で、担当医師からは、早く入院をして早く手術をして早く治療をする…納得のいく説明は一切なく、日程の仮押さえをしなければ帰してくれない状況でした。正論なのでしょうが、心が付いていけず落ち着きませんでした。悲しみと不安とやるせなさが勝っておりました。そして担当医師のスピードにはついていけずに喧嘩ばかりしました。何故、患者側の心を解ろうとしないのだろうと、ズキズキと頭が痛くて、ワーストシナリオを毎回突き付けられストレスマックスになる日々でした。初めは部分摘出で良い筈だったのに、検査を続けていく中で温存は出来ず全摘出と言われた時には真っ暗になり、病院で1時間以上動けずに涙を流し続けました。身体が動けなかったので、その後の仕事はキャンセルをしました。

がんを簡単に終わらせる方法を探していろいろ試されます。どのようなことを考え、迷い、どんなお気持ちでそれを行っていましたか?

一時ですが、藁にも縋る気持ちを体験しました。ガンが無くなるかもしれない!この治療法ではガンが無くなった人がいるようだ!こっちの治療法も良い筈…
奇跡を信じましたが、ガンは無くなりませんでした。
途中から、お金の心配が出てきました。免疫治療はやり続ける事が必要である事、高額である事。仕事柄、自分の行動を整理する事が出来た事が幸いで、免疫治療は何が目的でどこまでやるのか、全ての人が救われるわけではない事、ガンは儲け事業にも繋がっている事を体感し分かりました。
仕事と併用しながらでしたので免疫治療に行くだけで、疲れる思いもしました。段々と、それがストレスになっている事が分かったので、標準治療の良さも次第に分かり健康保険の対象内で治療できるメリットを考え始めました。
生命保険の保険金も給付されるので、経済的な不安は取り除かれる想いが芽生えました。
悪いものを取り除き、症例数がきちんと出ている標準治療をまずはやってみる気持ちになっていきました。

大晦日の夜に、両親に乳がんを打ち明けます。なぜ、そこまで遅れてしまったのですか?

とにかく、忙しかったのです。殆どの方には告知せず、仕事と免疫治療と病院通いに精一杯でした。両親からは信用されていたこともあり、告知が遅れたから責められると思っていなかったのが、本音です。

民間療法に使われた金額の合計を教えて頂けますか?

一カ月に30万円くらいです。一カ月半やってみましたが、他の治療をやるとなるとプラス50万円が必要でした。

抵抗されていたのに、結局、生検を受けられたのは、なぜですか?

ハッキリとした方向性がほしいと思うようになりました。乳がんを病理確定させて、次に進みたい気持ちが強く表れました。悪いものは手術で取り除く方が、気が楽になりました。

生検の後、病理診断が下り、ホルモン受容体・陽性、HER2・陰性タイプ(ルミナルA)と伝えられます。抗がん剤治療が無いことは嬉しかったですか?

正直、ホッとしました。苦しまないかなと思いました。

ホルモン療法を10年間行うと言われ、どのように感じましたか?

人生が終わったと感じました。女性である機能が失われ、諦めるライフスタイルになる事を受け入れるのは、本当に辛かったです。産婦人科の担当医師の前で、初めて医者の前で涙を出せました。担当医師からは、あなたは子宮があるだけで幸せなのよと言われて、世の中には大変な人がいるのだから、受け入れて前に進まなくてはと徐々に受け入れていきましたが、当時の気持ちを振り返ると今でも涙が溢れ出します。

主治医と不仲になり、つらかったと思いますが、転院はいつごろ、どうやって決めたのでしょうか?

生検後、2回ほど通ってセカンドオピニオン含めて紹介状を依頼しました。友人のカイロプラクターからは、長い付き合いになるのだから気持ちが通じ合う医者を選ぶように、そして症例数のある病院を選ぶようにと、アドバイスをもらいました。ネットで調べてましたが、通えるエリアである症例数のある聖マリアンナ医科大学を選びました。
受付けも早く予約が取れて、他の病院も検討しましたが3~4カ月待ちでしたので、ぼやぼやしているとガンが育つ事も恐れました。

温存も出来るという事でしたが、全摘にるすか?部分摘にするか?悩まれます。どのような観点から全摘出を選んだのでしょうか?

悪性なものだけをとって、皮膚と乳首は残せると言われたのが嬉しかったです。
部分摘出であれば、その後放射線を使う説明を受けました。部分摘出は出来なくはないと新しい担当医から言われてともて嬉しかったのですが、根治を希望しましたので迷わず全摘出にしました。

がんが確定していく過程で、今の彼氏とお付き合いを始めます。どのタイミングで乳がんのことを、どのように伝えたのでしょうか?その時、何と言われましたか?

お付き合いを初める前から、乳がんである事を伝えました。誰かに話したかった心理でした。その時彼は、乳がんでもあなたが変わるわけではないでしょう?と言われました。
私は、これから治療も始まるしお付き合いをするどころではなくなると伝えました。
彼は、ただそばに居たいと言いました。信じられない気持ちで、彼は変な人だと思いました。何度も断りましたが、そばに居てもらい、病院で動けなくなった時に迎えに来てくれて、支えてくれました。

ホルモン療法を行うことで、子供が望めないことになります。治療のため、子供ができないかもしれないことを彼氏には伝えられましたか?

最初は私もしっかりと理解出来ていませんでした。産婦人科で、卵子を凍結しますか?と聞かれますが、とにかく命を救う事から手術をする事で頭がいっぱいでした。採血で、卵子の数が32歳の年齢の数に匹敵するので、極めて良い状況だと産婦人科医から説明を受けて喜びました。しかし、ホルモン療法で子供が産めないとしっかりと理解出来た時に覚悟をして彼に伝えました。命と覚悟であれば、子供を産む事も視野に入れるけどどうしようかと相談しました。彼は命を最優先してくれました。

エキスパンダーを入れる同時再建を選ばれたのはなぜですか?

リスクを伴うと形成外科医から説明を受けました。聖マリアンナでは二次再建である事、時間をかけて綺麗な出来栄えにする事が目的だったので理解をしました。
素晴らしいプロセスだと思いました。

エキスパンダーを入れた状態は、いかがでしたか?

最悪でした。鉄板が胸に入っているようで違和感だらけでした。少ししてから、腕が後ろにも前にも動かなくなりリハビリを続けました。精製水を毎月少しずつ入れますが、片方の胸よりも手術前は3倍以上にも膨らませたので、アップアップして最後の月は動くのが大変でした。

ホルモン療法(リュープリン注射、タモキシフェンの服用)はいかがでしたか?

イライラ、発汗、発熱、倦怠感、おばあちゃんの症状のようでした。60歳代や70歳代の方と特に症状が似ていて話が合いました。更年期の症状でした。
眠れずに苦しい時もあり、動悸息切れも頻繁でした。

リュープリン注射を1年、タモキシフェンを9ヵ月で止められた理由はなぜですか?主治医とはどのような話し合いでしたか?

リュープリン注射はもともと1年だけやる約束でした。主治医からは、アメリカのガイドラインと日本のガイドラインの違いを教えてくれました。タモキシフェンは身体が正常になるまで続けると決めました。薬はある程度までにして、自然に治癒したいと願っておりました。主治医へ1年経って注射を止めると言った時、珍しくワーストシナリオを言ってこられました。1週間考えて答えを出すと約束をしました。主治医からは、患者と医者の間で治療が合わずに去っていく人もいると言われましたが、私は止めるにしても続けるにしても話し合って自分で治療の選択をしたいと申し出ました。主治医からは、こうやって議論がしたいと言われました。止める事を決断して主治医へ伝えたら、そういうと思っていたよ!仕方がないな、付き合ってやるよ!再発したらその時はその時に考えよう!涙がボロボロこぼれて、何度も頭を下げ感謝の気持ちでいっぱいになりました。

ホルモン療法の副作用は、つらかったですか?どのように対処しましたか?

毎日が辛くて自分の意志と裏腹に症状が出来ます。身体を冷やしたり、気持ちを落ち着かせるように深呼吸をしたり、氷とウチワはかかせませんでした。症状を緩和する漢方薬を処方してもらいました。飲むと楽になりました。

遊離皮弁術(乳房再建術)を受けると決めた理由は何ですか?

何事もなかったようにしたかったからです。乳房再建術をしない選択肢は一切ありませんでした。

遊離皮弁術(乳房再建術)のあと、退院するまで、どのように回復していきましたか?

手術直後は自家組織の乳房再建術を大変後悔しました。初めの1週間は寝たきりでした。身体を丸めてエアーベッドで寝食と排泄と清拭をしてもらい日々を過ごしました。一人では食べる事も何をする事も出来なかったので、看護師さんと母と妹に最大限お世話になりました。筋力もなくなっていき痩せ方も病的でした。エアーポンプもありましたが、足首の運動をやりました。絶えず良くなって歩けるイメージをランボーに例えて、ランボーの曲を頭に流してイメージトレーニングしました。母と妹にはマッサージをしてもらい、病院食では足りないので沢山作ってきてもらい、それを食べてました。
右乳房の腕が徐々に動くようになっていき、フォークを持ち頑張って食事を摂る事が出来るようになりました。管が7本繋がっていましたが、ドレーン4本の排液は早い勢いで減り医者と看護師もビックリしており驚異的な回復だったようです。
薬のせいもあったので脊柱に入れる強い麻酔の関係で1週間悪夢でした。現実と悪夢が分からなくなりました。ゆっくりと休み、とにかく疲れたので日中も沢山寝ました。
比較するのは違うかもしれませんが、乳がん摘出術よりも乳房再建術ははるかに大変で、17時間に及ぶ大手術でした。自家組織でお腹を36㎝切ったので腹筋は使えずに特に寝たきりのままのトイレが大変でした。後に円形脱毛症になり肌のかぶれなど、術後のアフターケアは想像以上に大変でしたが、日々良くなりました。
退院するまで、看護師へ自分の意思を伝えて計画性をもって一日過ごす事を目的としました。自分で出来る事を増やしていき、生きる事に精一杯の日々で充実しておりました。
寝たきりの1週間後にベッドから立ち上がり歩けたので、母は蔭で泣いていたようです。その時の心境は屈託のない笑顔になり、ランボーをイメージしておりイメージトレーニングの成果が表れたので本当に嬉しかったです。翌日からは清拭とトイレも自分の役割になり、午前中に済ませる事を目標にして楽しくやり続けました。髪の毛を洗ってドライヤーも出来、シャワー浴半身も出来、普通の生活を徐々に訓練しました。お見舞いも仲良しの友人たちが来てくれて有難い気持ちでいっぱいでした。お腹が突っ張るので、笑うと痛くてそれも痛く楽しい思い出です。1カ月弱後に退院しましたが、前日に歩行器が外れて猫背でゆっくりと歩きました。

がんを経験された阿部さんにとって、仕事観・職業観はどのように変わりましたか?

仕事をしてキャリアを積む事は大切ですが、人生の目的ではない事に気が付きました。健康で希望に満ちて楽しい生活を送ってからこそ、仕事で力が発揮できる事が分かりました。以前は力で仕事をしている事が多かったと思います。独立する事は特に人間性も問われますが、やっていたつもりの事に気が付きました。心から感謝をして、私がこうしてお客さまのお役に立てる事は、生きる価値観をお金や物質ではなく、心にあてた事です。この経験が生かされるファイナンシャル・プランナーであって良かったと思います。

仕事への復職を考えるうえで、どういったことが大切だと思いますか(ご本人と周囲の対応)?

少しでも身体を動かし過ぎると、直ぐに反応が出て身体が動かなくなります。
今出来る事を意識しました。私の場合は身体が動かなかったので、頭だけはシッカリしようと思い、特にメールとラインで時にはお電話でやり取りをしてお客さまをケアさせていただきました。どんな状況になっても、やれる事はあると思います。やれる事だけを1日5分でもやり続ける事が大切だと感じます。やれていた頃に焦点を当てるのではなく、今出来る事に焦点を当てた考え方をすると、自然に今この瞬間に集中出来ました。
遠い未来ではなく、日々のちょっとした事に目標を持つ事を意識しております。

体調の回復途上では、どのようなことに気を付けられて生活していましたか?

睡眠とリフレッシュをする事、楽しい人生にする事を意識します。
人と比較をするのではなく、今を生きて今何が出来るのか?
食生活も以前から心がけていたので、自然治癒するのであれば食生活と睡眠と趣味を楽しむ事を目的とします。

乳がんを経験して、いま感じられていることはどのような事でしょうか?

物に執着しなくなりました。今、生きている事で良いと感じます。
世の中はとても忙しく、気をそらされる事が多いと思います。
生活をシンプルにして、お金の使い方は特に変わりました。
先の事は良く分からないので、深く考えても仕方ないと思うようになりました。

阿部さんはとても頑張り屋の努力家だと感じます。不屈の精神とどん底から這い上がるバイタリティーはどこから湧いてくるのでしょうか?弱気になったときの気持ちの持ち方についても教えてください。

そう想っていただける事は、とても嬉しいです。今この瞬間を、もし今日が良くない事を想っていたとしても、自分を愛してあげる事にしています。生きている!
私は弱い人間で一人では何も出来ないので、バイタリティーは私が周りの方々からいただき周りの方々の想いや行動をパズルのように組み立てているように感じます。
そうは言っても、出来ない事もあり弱気になったら仲間や友人たちに正直に話します。
良いも悪いも自分の判断だけではなく、時には受け入れて出来ない自分を愛してあげる事が必要だと思います。

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】

  • 生きる大切さと日々の感謝の気持ち
  • 心からのリラックス(睡眠と遊び)
  • 人の温かい心

【失ったもの】

  • 術後の神経が通っていない
  • 出産
  • どちらも悲しい出来事ではないです

大切にしている言葉

今を生きる!今日も生きている!

現在治療中の方々に伝えたいこと

不安は沢山あります。都度、壁がやってきます。どんな時でも心が穏やかになれるよう、リフレッシュ出来る環境を作り、我慢せずにその時の感情を打ち明けられる仲間を持つ事は、とても励みになります。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

笑顔で今までと同じように接して下さい。不安な感情を患者へ伝える事は、患者側は辛く悲しいものです。共有していただき、時には一緒に泣いてあげて下さい。そして趣味をもって人生を楽しんで下さい。それを見ている事で患者は救われます。

阿部さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。

こうして周りの方々へ告知をしていく事をやっています。
仕事に於いては、お客さまへ乳がんになった体験をお話しています。
生命保険の大切さを実感したので、保険の見直しだけではなく治療法によって保障内容次第で保険金が給されるか否か決まるので、確認をする事が必要だと伝えているので、仕事に役立たせております。
今後は、乳がんセミナーを私の目線で伝えていき、まずは知識を養いガンを理解する事を目的として、それが私のミッションと感じています。
また、現在ガン治療をしていて社会復帰を目指している方々、ご家族側の心境も含めて少しでもお役に立つ事が出来たら、そんな想いで、人に寄り添うFinancial Plannerでありたいと願っております。

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  • 我慢
  • 思い込み
  • 必要以上にネット検索

がん患者がするべきこと(3つ)

  • リフレッシュ
  • 笑う事
  • 楽観的に考える事

周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉

  • これからの事、必要な事を一緒に考えようね
  • 人のために一生懸命に尽くしていたのだから、あなたのガンの事を聞いて心が痛い
  • 生きていてくれていたら、それでいい

周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉

  • 約束が出来ないね (ガンになったら普通の生活が送れないと思われた事)
  • この本を読んで! (個人の考え方を言われた事)
  • この治療がいいみたいよ! (治療法が違う情報を一方的に伝えられた事)

復職する際に大切なこと

  • 焦らずにゆっくりと自分のペースを保つ事
  • 収入は減るので、1~2年は特に気持ちに余裕を持つ事
  • 仲間とお客さまへ少しずつ話して協力をいただく事

当時参考にした本

忙しすぎて本は読みませんでした。

>>阿部久美子さんの「ストーリー(がん闘病記)」はこちら

>>阿部久美子さんの「がん経済」はこちら

取材:大久保淳一

この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
>>NPO法人5yearsの組織概要はこちら



-Sponsored-