【インタビュー】山本めぐみさん 悪性リンパ腫 ステージ4 サバイバー

悪性リンパ腫(ホジキンリンパ腫と濾胞性リンパ腫の混合リンパ腫) ステージ4 サバイバー 山本めぐみさんのインタビューです。

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目次

基本情報

名前: 山本めぐみさん >>5yearsプロフィール
年代: 40代、女性
病名: 悪性リンパ腫 
病理: ホジキンリンパ腫と濾胞性リンパ腫の混合リンパ腫
進行: ステージⅣ
発症: 2015年6月~
発生時年齢: 41歳
受けた治療: 抗がん剤治療(R-CHOP×6、リツキサン×2、リツキサン維持療法×12)
期間:
R-CHOP 2015.7~2015.10
リツキサン 2015.11
リツキサン維持療法 2015.12~
合併症 : なし
職業  : 税理士事務所勤務
生命保険: メットライフ(医療保険、がん保険)、全労災(医療保険)

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お腹のマッサージをしていてカラーボールのような反発するものを見つけます。しかし、あまり気にならなかったのはなぜですか?

それ以外の症状が特になかったのと所謂「しこり」というものとは違う感触だったので、深刻な病気だとは思いませんでした。

インターネットで卵巣とか子宮が腫れるとウェストが太くなるという記載を見つけますが、病院には行かれません。不安ではなかったですか?

婦人科系の病気かもしれないなとは思いましたが、書かれていた病気はほとんどが良性のものだったこともあり、「近いうちに病院に行かないといけないなあ」とぼんやり思った程度でした。

幼少の時に、いつか自分が大腸がんになるかもしれないと思われます。怖くなかったですか?

怖くはなかったです。人は生まれたからには必ず死ななければなりません。その原因や年齢は人によって様々ですが、「私の死因はきっと大腸がんなんだろうな」といったもので、特別なことだとは思っていませんでした。

左耳の後ろにあったボコボコとは、どのようなものですか?教えてください。

腫瘤なのですが、ボコボコとしか表現できなくて・・・。

乳がんについては検診を受けられています。大腸がんとか他のがんの検診も受けられていたのでしょうか?

基本的に職場の健康診断のみなので、標準的なものだけ受けています。がん検診というわけではありませんが、胃カメラは飲んでいました。他に年齢によって乳がんや子宮頸がんの検診を受けた年もありました。

金沢大学附属病院・消化器外科で3つの可能性の内、リンパ腫の可能性も言われます。どのように感じられましたか?

まったく予想していなかったので、そんな可能性もあるのかとびっくりしました。

何かの末期がんじゃないかと思われていたときのお気持ちを教えてください。

死ぬのは仕方ないけど、痛いのと苦しいのは嫌だなあと思っていました。
病気のことよりも、自分が死んでしまったら主人と息子がどうやって生きていくのか?とか、突然休職することになったので仕事がまわるのかといった事を心配していました。

会社(税理士事務所)の上司に、がんの可能性を告げましたが、周囲の方々にはどのように説明されましたか?

職場の同僚には「末期がんで多分もう戻ってこれないと思うので、後のこと(仕事)はよろしくお願いします」と話しました。

6月22日、婦人科の医師から「ただならぬことになっている」と言われた時の状況とお気持ちを教えてください。

PETの結果を聞くために診察室の前で待っていたのですが、前の順番の人を抜かして呼ばれたので、驚きました。また、他科を受診する際には自分で前日までに予約をとらないといけないのに、先生の方で当日血液内科を受診できるように手配してくれていた事にも驚きました。それだけ進行しているということなのだろうと思いました。

1回目の生検を受けていた頃の体調について教えてください。

腹水がたまって食事をとるのがつらかったです。突然気持ちが悪くなったり息苦しくなったりするので、運転するのが怖くなっていました。

2歳の息子さんに自分が病気であることを伝えます。伝え方で気を付けたことは、何ですか?

特に伝える際に気を付けたことはなかったと思います。まだ2歳なので、難しいことはわからないだろうし、死の概念もないだろうと思い、「ママは病気になったから、病院でお泊りしないといけなくなった」という事実を伝えました。
ただ、母が「おりこうさんにしていたら、ママよくなるよ」というような事を言った時には、そういうことは言わないように頼みました。もし、私が死んだときに「自分がおりこうさんにしていなかったからママが死んだんだ」とは思ってほしくなかったからです。

生検の結果を聞きに行ったら、再検査(2回目の生検)の必要性を告げられます。この時、どんなお気持ちでしたか?

その日、結果がでて、その日か翌日には入院して治療をしてもらえると思っていたので、手術まで1週間以上待ち、その結果が出るまでに更に1週間待たなければならないことに落胆しました。

ご実家に一人移ったときの、ご自宅の状況を教えてください

私だけが実家に行き、主人と息子は自宅で生活していました。一人暮らしをしていた主人の母に来てもらい、約3か月自宅で(義母にとっての)息子と孫の世話をしてもらいました。これは本当に助かりました。

7月13日、胸水が溜まり、病院で診てもらいます。この頃は、どのような体調でしたか?

仰向けにまっすぐ寝ることができず、クッションを背中にあてて少し体を起こした状態で横になっていました。腹水がたまって、おなかは妊娠7~8か月くらいに膨れていました。

体調が悪化しているにもかかわらず、まだなかなか治療が始まりません。どのようなお気持ちで過ごされていましたか?ご家族の様子はいかがでしたか?

本当にじれったい思いでした。例えば生検のための手術にしても、必要であれば緊急オペでその日や翌日に行うこともできたと思うのですが、そうしないのは「まだ大丈夫」だからなのか「どちらにしてももう手遅れ」だからなのか、どっちだろう?と考えていました。
家族はただただ心配していたと思います。

15分も椅子に座っていられないというのは、どんな状況だったのでしょうか?教えてください。

体力が落ちて、15分も体を起こしていると、ぐったりしていました。 当時は酸素の管をつけ、24時間心電図モニターをつけていました。データが常にナースセンターに送られ、心拍数が上がったりすると看護師さんがとんできました。

胸水を抜く作業はどのようにして行われましたか?身体への負担も教えてください。

背もたれのない、丸椅子に座り、少し高くした処置台に前傾姿勢でもたれるようにして、背中から針を刺しました。針を使って管を刺した後は、その管が抜けないように同じ姿勢を保っていなければならず、動けないのが辛かったです。1時間ほどだったと思うのですが、肩や腕が痛かったです。

R-CHOP療法はいかがでしたか?

CHOPを投与した日の夕方頃から吐き気があり、食欲がなくなりました。1週間後には倦怠感が酷くて起き上がることができず、体が重くてベッドに沈み込んでいるような感覚でした。3週間で1クールなのですが、副作用で苦しむのは数日だけだったので比較的に楽な方だったのかなと思っています。

アルコール綿で気を失ってしまったときの状況を教えてください。

ベッドに腰かけた状態で血液検査のために採血をし、針を抜く時にふっとアルコールの臭いがしました。その瞬間に一瞬で気持ち悪くなり、「なんか急に気持ち悪くなってきた・・・」と言ったあと、目の前が真っ暗になりました。「山本さん?!山本さん?!」と声をかけられて気が付いたときには看護師さんの数が増えていて、騒然としていました。

死後の世界とか、死生観について、どのように考えられていましたか?

クリスチャンなので、死後はイエス様に迎えられて天国に行くのだと信じていました。(今もです)なので、死ぬこと自体に恐れはありませんでした。

8月、治療効果が出ていて胸水が減ります。どのようなお気持ちでしたか?

胸水が減ったことは単純に嬉しかったです。息苦しさが減り、酸素の管をつけていたのですが、酸素の量も少しずつ減りました。ただ、おなかのリンパ腫自体は小さくなっていなかったので、手放しで喜べる状態ではありませんでした。

「悪性リンパ腫、ステージ4、ホジキンリンパ腫と濾胞性リンパ腫の混合リンパ腫」との確定診断が出たとき、どのように感じられましたか?

ステージ4の悪性リンパ腫だろうとは思っていたので、そのこと自体は特に何とも思わなかったのですが、ホジキンリンパ腫と非ホジキンリンパ腫の両方があるということに驚きました。そのせいで診断に時間がかかったのかと納得したり、標準治療といわれるものが無い状況になったので、厄介だなあと思っていました。

なぜ、絶食されていたのですか?栄養はどのように摂取していたのですか?

気を失った時に腸炎を起こしていて、悪化すると手術が必要となり、危険度が高くなってしまうという理由で絶食となりました。腹水の影響であまり食事をとることができなかったので、入院当初から点滴で栄養を入れていました。

GFOについて教えてください。

見た目は粉を水に溶かして作るスポーツドリンクのようなものです。食物繊維等が入っていて、食事をとるための準備として流動食にうつる前に飲んでいました。

恵寿金沢病院に転院して、主治医は替わったのでしょうか?連携は上手くされていましたか?

病院が変わったので、もちろん主治医は変わりました。本来、1回目の生検の翌日からこちらの病院に入院する予定で情報共有されていたらしく、大学病院で入院していた際の経過もすべて把握されているようでした。連携は上手くされていたと思いますが、主治医の性格の違いなのか、特に食事については扱いが全く違っていたので初めは戸惑いました。

なぜ、恵寿金沢病院では、食事に制限がなくなったのですか?

私にもわかりません。体調が落ち着いたのでOKになったのだと思いますが、主治医の考え方の違いによるものかもしれません。

初めて、外泊して実家に帰られた時のお気持ちを教えてください。ご家族の様子はいかがでしたか?

家に帰ってこれた!という喜びと、大丈夫かな?という不安の両方がありました。家族は家に帰ってこれるまでになったと喜んでいました。特に息子は嬉しそうでした。

CVカテーテルを取ったのは。なぜですか?

CVだと詰まらないようにするためのフラッシュ(水通し)を短期間で行わなければならないことと、お風呂に入るときには防水のカバーが必要になるので、CVを入れたままで何日も家に帰ることはできないからです。CVを取り、ポートにすることでどちらの問題も解決して家に帰る事ができるので、ポートを勧められました。

抗がん剤(R-CHOP)が効きました。当時、どのように感じられていましたか?

2クール目までは「効いていないわけではないけど、効いているとも言えない状況」と先生から言われていたので、別の抗がん剤に変える必要があるのかなと思っていました。ただ、抗がん剤を投与する度に体が楽になっていたので、ある程度はほっとしていました。

寛解を言われた時の状況と心境を教えてください。

5クール目のR-CHOPを受けるために入院しました。1週間前に受けたPETの結果によっては5クール目からは別の抗がん剤に変更することになるので、入院する前に診察をして今後の治療方針について相談することになっていたのに、いつも通りに病室に案内されたので不思議に思っていました。人事異動でこの日から主治医が変わったので、引継ぎが上手くいかなかったのかと思ったりもしていたのですが、病室に来た新しい主治医から「寛解でした」と言われました。
すぐには信じられない気持ちで、ほかの人のデータと間違えているんじゃないかと半信半疑でした。
4クール目を受けた時点ではR-CHOPを6クールまでやっても寛解にはならないだろうと思っていたので、神様が治してくれたのだと感謝しました。

寛解の知らせを聞いたご家族の反応を教えてください。

家族も、喜ぶよりも信じられないという反応でした。その後、よかったよかったと喜んでいました。

8週間に1回、リツキサンを投与する維持療法を続けると伝えられ、どのように感じましたか?

ああ、そうなんだ。まだまだ先は長いなー。という感じでした。

職場に復帰したときの状況を教えてください。

「とりあえず半日だけでも出てこないか?」と、声をかけてもらいリツキサン維持療法の1回目の翌日から午前中のみの半日勤務で復帰しました。会計事務所は12月から5月が繁忙期なのですが、1月後半から3月前半までが特に忙しく、そのサポートのような形でした。

がんから1年の日を迎えた時のお気持ちを教えてください。

既にがんになる前とほとんど変わらない生活になっていたので、1年前には死にかけていたのが信じられないような気持ちでした。また、通常は寛解後1年に1回のPETを半年に1回受ける等、慎重に経過観察していますが、再発せずにこれたことを嬉しく思いました。

がんを経験して、いま感じていることを教えてください

なんでもない普通の生活がとても幸せなことだと感じています。
「5年後も生きているかもしれないけど、1年後に生きていないかもしれない。」そう考えて生きていると感謝することが増えたので、これも悪くないなと思っています。

がんになって失ったもの、得たもの

【得たもの】

  1. がんサバイバーという肩書
  2. どこで話しても関心をもって聞いてもらえる話題

【失ったもの】

  1. 長めの髪(一度髪が無いのを経験したら、すごく楽だったので。もう伸ばせないと思います。)
  2. 保険の見直しをする機会

大切にしている言葉

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。(聖書)

現在治療中の方々に伝えたいこと

ひとりで思い悩まないで欲しいです。

現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと

限定的なことで申し訳ないのですが。。。
食欲がない患者さんに、食べろ食べろと言わないであげてください。私は絶食期間が長かったため、それほど苦労しませんでしたが、同室になった方たちが苦労されていました。
食べなければならないのはよくわかっているのです。でも、どうしても食べられないのです。そして、家族がごはんを食べるように言っているのは、元気になって欲しいからだということも十分理解しています。だからこそ、食べられないのが苦しいのです。
食べられないのに「食べなきゃだめ」と言われ、食べようとしても食べられず・・・。そのことがとてもストレスになっている方がたくさんいました。
あるとき、お隣さんの主治医が「『食べなきゃいけないのに食べられない』のがそんなにストレスになるなら、食べなくていい!そっち(ストレス)の方が(食べないことよりも)ずっと体に悪い!」とおっしゃっていました。お隣さんは、食欲がないときは食べなくてもいいのだと思ったら、気持ちが楽になったそうです。

山本さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。

税理士試験を受験して、税理士の資格をとりたいです。

がん患者がしてはいけないこと(3つ)

  1. がんになった原因を探して自分やまわりの人を責めること。
  2. 頑張りすぎること・無理
  3. 自分の中に閉じこもること

がん患者がするべきこと(3つ)

  1. 感謝すること
  2. 笑うこと
  3. 社会とつながっていること

周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉

祈っているからね。

周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉

特にありません。

当時参考にした本

聖書

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>>山本めぐみさんの「がん経済」はこちら

取材:大久保淳一

この記事の著者

(5yearsプロフィール)

日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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