大腸がん(下行結腸がん)ステージ2~3 サバイバー 岩井ますみさんのインタビューです。
目次
- 1 基本情報
- 2 2007年の健康診断で「便潜血・陽性+」と報告されていたにもかかわらず様子をみることになります。なぜ詳しい検査を受けることにはならなかったのですか?
- 3 翌2008年にも健康診断で「便潜血・陽性+」となり、医師から精密検査を受けるように言われます。対応に差がありますが、前の年と何が違ったのですか?
- 4 2008年は貧血症状があったと伺いました。どれくらいの頻度で起こりましたか?不安でしたか?
- 5 大野中央病院で大腸内視鏡検査の際、慌ただしい雰囲気から(毎年健康診断でA判定の岩井さんが)「がんかな?」と感じられたのはなぜですか?
- 6 がんかもしれないと感じたにもかかわらず、冷静に質問を考えていたときのお気持ちを教えてください。
- 7 大腸内視鏡検査の当日、両親にがんの可能性を伝えたのはなぜですか?
- 8 手術を受ける病院を選ぶよう言われます。どういった観点で病院を選ばれましたか?
- 9 翌週、生検の検査結果が出て大腸がんの告知をうけた時のお気持ちを教えてください。
- 10 順天堂大学医学部附属浦安病院にはなぜお一人で行かれたのですか?でご両親に付き添いをお願いされましたか?
- 11 開腹手術ではなく腹腔鏡手術を選ばれた理由
- 12 カルチャースクールの講師などのお仕事を、がんの治療(手術)のために休みたいと先方(相手先)に伝えた時の状況・雰囲気を教えてください。
- 13 大腸3D-CT検査について教えてください。大変でしたか?
- 14 入院中、手術後の食事の取り方を教えてください。
- 15 お腹の中に膿が溜まり激痛が走ります。そして膿を出す処置を毎日受けました。当時の状況を教えてください。
- 16 手術後、右脚がしびれます。どんな感じでしたか?
- 17 退院後まだ体調がイマイチの時に『色彩教材の発表会』(日本色彩学会主催)に参加しました。なぜそこまで参加にこだわったのですか?
- 18 2009年3月に休講したカルチャースクールの補講をします。大変だったと思いますがいかがでしたか?
- 19 腹腔鏡で下行結腸の手術をした後、食事をするたびに下痢をされノートをとったと伺います。どういう食事が良くなかったのですか?
- 20 「がんなんてなかったことにしよう」としていた時の心境を教えてください。
- 21 2009年・秋にがんの肝臓転移を知らされた時のお気持ちはいかがでしたか?
- 22 父親に「俺が代わってあげたいよ」と言われた時のお気持ちを教えてください。
- 23 TS-1による治療はいかがでしたか?
- 24 肝臓の手術が近づいてきたと思い先に仕事を断ってしまったにもかかわらず、抗がん剤(TS-1)治療が延長されてしまったときの状況を教えてください。
- 25 肝臓の手術のあとは、前向きな気持ちがぐっと落ちたと伺いました。それはなぜですか?
- 26 ゼロックス治療はいかがでしたか?
- 27 ゼロックス治療中の生活はどのような毎日でしたか?
- 28 UFTによる治療はいかがでしたか?
- 29 その後、ゼローダ単体で治療を受けていますが、当時は、どんな生活でしたか?
- 30 全ての抗がん剤治療を終え、肉体的なきつさは減っていきますが、仕事を再開するまでに到りません。その頃のお気持ちを教えてください。
- 31 岩井さんが考える「認知症予防」について教えてください。
- 32 治療後、「地元」を意識され活動します。そのことを教えてください
- 33 「イリデセンス(https://iridescence.jp/)」について教えてください。
- 34 『働く女性のためのがん入院・治療生活便利帳』(講談社)を執筆されたいきさつ
- 35 岩井さんにとってキャリアとは何ですか?
- 36 これまでされた仕事の中でやりがいを感じた仕事とあまり前向きになれなかった仕事についてお聞かせください。
- 37 フリーランスの働き盛りの人が、がん治療と仕事を両立させることの大変さについて教えてください。
- 38 思わぬ長期間のがん治療となったことを振り返って思うことは何ですか?
- 39 がんになって失ったもの、得たもの
- 40 大切にしている言葉
- 41 現在治療中の方々に伝えたいこと
- 42 現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと
- 43 岩井さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。
- 44 がん患者がしてはいけないこと(3つ)
- 45 がん患者がするべきこと(3つ)
- 46 当時参考にした本
基本情報
名前: 岩井ますみさん >>5yearsプロフィール
年代: 50代、女性
病名: 大腸がん(下行結腸がん)
進行: 進行がん ステージ4
発症時年齢: 44歳
受けた治療: 腹腔鏡手術 大腸がん 転移の肝臓がん
抗がん剤治療 TS―1、ゼロックス療法 UFT ゼローダ
期間: 手術入院(2009年1月~2月)、抗がん剤治療と2回目の手術入院(2009年11月~2012年5月) 抗がん剤治療 約3年
合併症:手足症候群 帯状疱疹 突発性難聴→メニエール症候群
職業: カラーコーディネーター(https://iridescence.jp/)
生命保険:国民共済保険
2007年の健康診断で「便潜血・陽性+」と報告されていたにもかかわらず様子をみることになります。なぜ詳しい検査を受けることにはならなかったのですか?
父の体調が悪く、自分のことは後回しだったからです。また、これまで検診でずっとどこも悪くなかったので、おおごととは捉えていなかったです。
翌2008年にも健康診断で「便潜血・陽性+」となり、医師から精密検査を受けるように言われます。対応に差がありますが、前の年と何が違ったのですか?
医師の対応が違ったというのは語弊があります。2007年には強くは言われなかったのかもしれませんが、あまり覚えていないのです。
ただ、便潜血が2回とも陽性だったからと貧血状態がさらに悪化していたからです。
2008年は貧血症状があったと伺いました。どれくらいの頻度で起こりましたか?不安でしたか?
自覚は全くありません。数値が貧血状態を示していただけです。
大野中央病院で大腸内視鏡検査の際、慌ただしい雰囲気から(毎年健康診断でA判定の岩井さんが)「がんかな?」と感じられたのはなぜですか?
大野中央病院ではすでにがんの精密検査で行っていました。当日のその検査中のただならぬ様子を見れば多分誰でも「これはおかしい」と気がつくと思います。
がんかもしれないと感じたにもかかわらず、冷静に質問を考えていたときのお気持ちを教えてください。
自分のことなのできちんときいてその後の対応を考えなければいけない、聞くべきことを聞かなければとおもっていただけで、どんなきもちだったか?と問われるとよくわかりません。
ただただ、ちゃんと自分のことを把握しなければという思いだけです。
大腸内視鏡検査の当日、両親にがんの可能性を伝えたのはなぜですか?
なぜ?検査に行くことを伝えているわけですから話すのは当たり前のことと思いました。
先生の説明から、がんであることはわかったのですぐに入院先を決めなければいけないし、手術をすることは明らかでしたから「がんの可能性」とは捉えていませんでした。
手術を受ける病院を選ぶよう言われます。どういった観点で病院を選ばれましたか?
通院しやすいこと、評判が良いこと、検査を受けた病院で「腹腔鏡手術」を勧められたので、その術数が多いことを考えて選びました。
翌週、生検の検査結果が出て大腸がんの告知をうけた時のお気持ちを教えてください。
「あ〜、やっぱり」という感じでした。
順天堂大学医学部附属浦安病院にはなぜお一人で行かれたのですか?でご両親に付き添いをお願いされましたか?
付き添いという考えは全くありませんでした。十分に大人ですし、一人で行くことに疑問はありませんでした。
自分が面倒を見ている高齢の親ですので、両親の病院に自分が付き添うことはあっても自分に付き添ってもらうということは今まで考えたこともありません。
私には、なんだかとても不思議な質問です。
開腹手術ではなく腹腔鏡手術を選ばれた理由
これは、私が選んだことではありません。
精密検査を受けた病院では腹腔鏡手術を勧められましたが、順天堂では手術の説明のときから「腹腔鏡手術」で行うこと、場合によっては手術の途中で開腹になることもあることを説明されたのでスタンダードだったのだと思います。
カルチャースクールの講師などのお仕事を、がんの治療(手術)のために休みたいと先方(相手先)に伝えた時の状況・雰囲気を教えてください。
無責任なことはできない 責任を果たすためにはきちんと伝えて、何ができるか・できないか相談して決めようと腹をくくってそれぞれに伝えていきました。
1日に何件も伝えるには辛すぎたので、1日に1件づつこなしていきました。
担当者により随分と対応も違い、励まされることもあれば、打ちのめされて寝込みそうになることもありました。
大腸3D-CT検査について教えてください。大変でしたか?
それまでこれと言った大きな検査を受けた経験がなかったので、どの検査も緊張感も加わり大変でしたが、この検査の日は誕生日と重なっていたので余計に辛い気持ちになりました。
前日の夜から食事を抜き、私は造影剤にアレルギーの可能性があるため、CT検査の1時間前からステロイドの点滴を受けます。
CTの検査台に横たわり造影剤を注入しますが、初めて造影剤の入ったシリンダーの様な大きな注射器を見たときは驚きました。
造影剤は体がかぁっと熱くなり心臓がドキドキしてきます。その後、腹部に空気を入れお腹を膨らまし、細かな部分まで撮影できる様にして検査を受けます。
入院中、手術後の食事の取り方を教えてください。
大腸の手術の後は、2、3日は食事なしで点滴のみ、その後白湯をスプーンで1杯づつ含み、漏れなどが起きないか確かめながら、徐々に飲む量を増やしていきます。
私の場合は、白湯の次はマグカップが2つにふえ、3つに増えとだんだん味の付いたものにかわっていきました。味の違うマグが3つ。主治医から全部飲むのではなく、少しづつ始めるよう注意を受け、5口、半分、1杯と慣らしていきました。
美味しく感じてほっとしたのはだし汁でした。他はほとんど口をつけただけでした。
3週間入院しましたが、退院するまでご飯はおかゆのままでした。
そのせいか今でも白粥は大嫌いです。
お腹の中に膿が溜まり激痛が走ります。そして膿を出す処置を毎日受けました。当時の状況を教えてください。
膿が溜まったことはわかりませんでした。また激痛はなかったです。処置が毎回激痛だったのです。
入浴許可が下りた翌日だったので、また入浴できなくなってしまい、ショックでした。
毎日、3回くらい手術後の傷跡を確認しにきますが、自分でも赤く腫れ上がってきているし、熱を持っているなと思い、自分で看護師に伝えました。
すぐに主治医が来て、その場で、傷口を止めていた透明のテープをはがし、処置することになりました。
主治医、研修医2名看護師2、3人体制で、入院している自分のベッドで処置を行いました。くっつき始めた傷口をもう一度開かなければならず、またその傷口の両脇を押して膿を押し出す処置は、今まで経験したことのない激痛で知らずに処置をしている研修医の手をはらい飛ばして悲鳴をあげてしまったほどです。
看護師に「腕を抑えていましょうか」と言われましたが「大丈夫です」と言ってベッドの縁を握りしてめて払いのけないようにしていました。
それから退院までの毎日外来が終わると先生たちが来てその処置が行われましたが、毎回激痛との戦いでした。退院の頃には、膿も減り痛みも減って来ました。
退院後も2週間、毎日近所の病院に傷口の処理に通院しました。病院が休みの日は救急外来に通いました。
手術後、右脚がしびれます。どんな感じでしたか?
食事をするときは、体調が悪くて横になっている時でも、起き上がり、ベッドを起こすだけよりも、足を下に下ろした方が良いと言われていたので、ベッドに腰掛け、食事を取るようにしていましたが、右足はすぐにだるくなってしまい下ろしていることができず、すぐに右足だけ上に上げていました。
右膝の側面から始まり足裏の縁まで重だるさがひどく、さらにひどくなると坐骨まで痛みが広がります。
退院後まだ体調がイマイチの時に『色彩教材の発表会』(日本色彩学会主催)に参加しました。なぜそこまで参加にこだわったのですか?
がんが発覚する前に登壇者として申し込んでいたものであり、元気な時に苦労して特許を取得した色彩用具を少しでも広げたいと早くから準備をしおり、キャンセルをしたくなかったです。
すぐに仕事復帰するつもりだったので、退院後にこんなに体調が悪くなるとは想像もしていませんでした。
2009年3月に休講したカルチャースクールの補講をします。大変だったと思いますがいかがでしたか?
想像以上に大変でした。当時のスケジュール帳を見ると、3月はほぼ休みがなく真っ黒でした。1日に2つ掛け持ちの日もありました。
腹腔鏡で下行結腸の手術をした後、食事をするたびに下痢をされノートをとったと伺います。どういう食事が良くなかったのですか?
私の場合は、もっとも合わなかったのは油でした。特に動物性のものです。
牛肉とか豚肉なども。鶏肉や魚は問題なかったです。
野菜が体に良いだろうと、バーニャカウダを食べたときは、気を失いそうでした。あぶらなのか、ガーリックなのか。。。多分、刺激物の入った油という最悪の組み合わせだったのでしょう。
アイスクリームや生クリーム、冷たいものは抗がん剤治療が終わってしばらくして、食べられるようになりました。
「がんなんてなかったことにしよう」としていた時の心境を教えてください。
最初の大腸の手術の後は他の治療がなかったので、元のようにすぐ戻って働きたいという気持ちです。
2009年・秋にがんの肝臓転移を知らされた時のお気持ちはいかがでしたか?
腰が抜けそうなほどのショックでした。何もかもがガラガラと崩れていくような感じでした。
父親に「俺が代わってあげたいよ」と言われた時のお気持ちを教えてください。
情けないというか、親不孝だという気持ちでした。
そんなことを言わせてしまう自分の取った態度にも、腹立たしい気持ちでした。
TS-1による治療はいかがでしたか?
最初は、これならば仕事もできるかなと思いました。
回数を重ねる毎に副作用が抜けづらくなり、体に蓄積している感じがしました。
顔色も肌も白目もだんだん黄色くなって黄疸症状が出ていました。
肝臓の手術が近づいてきたと思い先に仕事を断ってしまったにもかかわらず、抗がん剤(TS-1)治療が延長されてしまったときの状況を教えてください。
主治医に「もう仕事キャンセルしちゃった…」と伝えると「え?ことわっちゃたの?」といわれ、拍子抜けしたというか「が〜ん」という感じです。こんな事が次々起こるんだと後から思い、一方、いまさらやっぱり(仕事)できますとも言えないし、どうしたらいいんだという喪失感が増して来ました。
肝臓の手術のあとは、前向きな気持ちがぐっと落ちたと伺いました。それはなぜですか?
抗がん剤治療がまた続くとわかった事と手術前に1年間も抗がん剤を行っていた事で、体力的にも精神的にも弱っていたからです。
ゼロックス治療はいかがでしたか?
想像を超えるものでした。こんな辛い治療をなんでしているんだろう。
こんなことまでして生きている意味はあるのだろうか?と何度も自問自答しました。
ゼロックス治療中の生活はどのような毎日でしたか?
治療は、点滴に3時間くらいかかり、その前の診察と合わせると1日仕事です。
朝8時ごろ家に出て、午前中に血液検査、1時間後の結果を待ち
診察を受け、点滴のためのルート確保、がん治療センターに移動し、3時間ほどかけて3本点滴
皮膚に副作用が出るので、同じ病院の皮膚科の診察も受け、会計を終えて、処方箋を持って、薬局。
家に帰ると18時ごろ。
当日は痛みがひどく、食べ物が飲み込めなくなるので、点滴を受けながらでも食べられるように、小さなおにぎりやフルーツを小さく切って、お弁当を作り持参していました。
当初はポータブルDVDプレイヤーを貸してくれたので、それをみながら、点滴し、お弁当を食べて受けていました。東日本大震災がおき、震災後は、節電のため、DVDは見られなくなりました。
痛みを我慢しているので、本を読むのは辛く、音楽を聴きながら治療していました。
点滴をした当日は、痛みとの戦い。点滴で顔はむくみ、寒い日は、薬局で待っている間に痛みが増してしまい、家に帰ると両手足の指が全部つってしまう事もしばしばありました。
だんだん手足症候群の症状がひどくなり、治療後の体力保持のために続けていたウォーキングもできなくなってしまいました。
外出も慎重に体調の良い日だけに減ってしまい、黄疸、白血球減少のため、息切れや疲れやすさがひどく、駅の階段も休み休みじゃないと登れなくなりました。
家事はできるだけしないようにと言われていたので、好きな食べ物を作ることができないストレスを感じました。
冷えるととにかく手足の痛みと腹痛などが出るため、スーパーへの買い物がとても辛かったです。
TS―1の時と違い、寝ている日も多くなりました。
手足症候群は足の裏がやけどのような状態にしばしばなって、水ぶくれや皮がめくれる、熱を持つなどが起こりました。
手もいつも皮が剥けていたので、指紋は全部なくなって、ものを掴みづらかったり、しびれがありました。
UFTによる治療はいかがでしたか?
TS―1の時のように仕事ができると思っていましたが、1クール目から全く違い、全く起き上がれないほどのだるさでした。投薬中の2週間はほぼ寝ている日々でした。とても気が滅入り辛かったです。
その後、ゼローダ単体で治療を受けていますが、当時は、どんな生活でしたか?
UFTほどの毎日寝込むようなだるさやうつ状態は減り、休薬中は外出できるくらいにまで回復しました。
ただし、手足症候群の症状はかなりひどく靴の中にムートンの敷き革をいれたり、重いものを持たないようにしたり、たくさん歩かないようにして様子を見ながらの毎日でした。
全ての抗がん剤治療を終え、肉体的なきつさは減っていきますが、仕事を再開するまでに到りません。その頃のお気持ちを教えてください。
入院中に周りが全員病人の時は、頑張ろうという気持ちもあったのが、通院になると周りの人が(普通の)変わらない日常を過ごし、(元気な人が)仕事をし、遊びに出かけというのが目に入り、自分だけ残されているような疎外感を覚えました。それに加え、治療の辛さで、動けない自分の弱さ、動きたくても動けない事を嫌という程実感しているので、徐々に「弱い自分」「劣っている自分」になっていたのだと思います。
いつもひとに「すみません」「ありがとうございます」と言っていると何にもできない自分というレッテルをいつの間にかはり、病気になる前の前向きで活動的な自分を忘れ、いつの間にか弱々しい後ろに控えている人格に陥っていたのだと思います。
気力の衰えに加え、本当に体力がなくなってしまっていたので、仕事の計画やどんなふうに進めていくのかと計画を立てる事自体もすごく後ろ向きで小規模なものしか考えられず、でもどうにかしなければ、どうにか自分の居場所や役に立てる事を探さねばと模索する日々でした。
岩井さんが考える「認知症予防」について教えてください。
元々フリーになった当初から高齢者のおしゃれをテーマにしており、その時は認知症になってしまった人にも、遊びを!おしゃれを!という三次予防がメインでした。
しかし、闘病中に父が倒れ介護が必要になり脳血管性の認知症症状も出はじめると、それまで自分が培ってきた知識が生かせず無力な自分にほとほと嫌気がさし、認知症の人に父にはできなかったことをする自分が偽善者のように感じてしまい、一旦は高齢者の仕事をやめようとおもいました。
しかし、父を看取ってから日が経つに連れ自分の体力が戻ると、これまでの知識を活かし、認知症の人を減らす、1次予防2次予防に力を入れて行こうと考えが変わるようになりました。その時にちょうど知ったのが「認知症予防専門士」です。
1から認知症のことを正しい知識で学び、予防の啓蒙活動にこれまでの知識を生かそうと考えるようになり、勉強を始めました。
2年の勉強ののち試験に合格し、いまは認知症は予防が可能なこと、認知症とはどんな病気であるか、予防の方法などをおしゃれや色・香りを通して伝えています。
これは他の闘病中の人にも共通することで、他人を意識して身なりを整えることやそれによって褒められることは、心も前向きにして脳の活性化につながります。難しいことではなく、楽しく毎日継続できることで予防できることが一番だということを伝えていきたいと思っています。
治療後、「地元」を意識され活動します。そのことを教えてください
闘病中、家にこもっていると地元に知り合いがいないので、ちょっとした時に頼れる人や話をする人がいないことに気がつきました。
また遠くまで出かけられない日々の中で、近所のお店や施設も全く知らないことにも唖然としたのです。
そこで、まずは地元にどんな人達がいるのか・どんな活動をしている人がいるのかを調べることにしました。
自分が知り合いを増やし根付くためには、自分がこの土地で活動をし自分の存在を知らせる必要もあると感じました。
地元を歩き仕事のできる場所を探し、地元の人が集まれる場・交流できる場としての自分の知識を活かした教室を作ろうと考えました。
「イリデセンス(https://iridescence.jp/)」について教えてください。
イリデセンスは、24年前に独立した時につけたなまえですが、
「虹色の輝き」の意味です。透明に見える光も実は、プリズムで分光するとたくさんの色の集まりだということがわかります。色を通し人を幸せに美しくこの透き通った光のように、自在にたくさんの色を扱えるようになりたいと願いを込めつけました。
色は視覚を使いますが、20年ほど前からここに原始的な嗅覚を使う香りもプラスし「色と香りの生活提案 イリデセンス」となりました。
五感をいかし人々の生活を豊かに彩りのあるものにする提案をするのがイリデセンスの活動です。
高齢者の元気のための講演活動、著述業、そして、闘病後に始めた「大人のおしゃれレッスン」の教室などなど、活動の幅を広げています。
『働く女性のためのがん入院・治療生活便利帳』(講談社)を執筆されたいきさつ
がんを告知された後、それまで大きな病気や入院をしたことがなかったため、どうすれば良いのか、何を用意すれば良いのか戸惑いました。
また、病気に対する心構えや心の変化などいろいろなことを知りたくなりました。
まずは手軽なネットを使いましたが、怪しいものが多く読み進めると健康食品を売るためのものだったり、霊感商法やネットワークビジネスにつながるものが多いことにも幻滅しました。
また、闘病記は痛い、つらいなどその時々の症状を知るには良いかもしれませんが、個人差も大きく、私には前向きになれるものとは思えませんでした。
闘病記は当事者が読むよりも周りの人がどういうものか知るためには有効かもしれないけれど、当事者が読むには辛すぎると感じました。
特に本や映画では読み進めるうちに最後にはなくなっていたりすると、本当に落ち込んでしまい、どん底に落ちるようで絶対読まないと決めたほどです。
自分が読みたいのはもっと冷めたもの。冷静に準備するものが書かれて、その知恵を使えば他のことを考える時間を持てるようなもの。しかも女性目線で書かれているもの
しかし、どう探しても見つけられませんでした。
それならば自分で知恵を貯めておこう、いつか役立てるためにと、その時に気がついたこと便利だったことを書き留めておくことにしました。
元々これまでに9冊ほど本を出していましたが、ほとんどが色やデザイン・アロマテラピーに関する専門書だったので、こういった本はどうやって出すのかはわかりませんでしたがとりあえず書いておいたのです。
たまたま、知り合った編集者にその話をしたところ興味を持ってくれ、1冊分原稿を書きました。
出版不況のなか出版社が潰れたり話が二転三転したり、編集者とは連絡が取れなくなり、といろいろありました。
その後、足を運んだがん患者のためのメディカルカフェで、同じテーブルについた人が偶然にも編集者でこの原稿を気に入ってくれ講談社から出版することができました。
岩井さんにとってキャリアとは何ですか?
特に考えたことはありません。
しかし、自分が一生懸命になれ、得意分野で生かせる知識を豊富に持つこと、それを継続することがキャリアと思います。
これまでされた仕事の中でやりがいを感じた仕事とあまり前向きになれなかった仕事についてお聞かせください。
ほとんどの仕事がやりがいを感じます。
なかでも、帰りに「ありがとう」「楽しかった」といってもらえた仕事はすべてそう感じます。
前向きになれないというか、がっかりするのは、担当者がいい加減でやる気がない仕事です。こちらがどんなに頑張っても、連絡がいきちがったりキャンセルになるとがっかりします。
フリーランスの働き盛りの人が、がん治療と仕事を両立させることの大変さについて教えてください。
フリーランスで、よりオリジナリティをもって自分ならではというものにこだわれば、こだわるほど代わりの人がいません。自分が休むことは仕事に穴を開け次の仕事を失うこと。さらに収入も無くなります。なんの保証もないなかで仕事と両立させることはとても難しいと思います。
ふだんから同じ職業の人と交流を持ったり、お互いに替われるような仕組みを作ったり、あるいは後継者を育てるということも視野に入れなければいけないことだと実感しています。
会社員であっても大変なことはたくさんあると思いますが、個人事業主に社会保障はほぼないと覚悟する必要があります。貯蓄も重要です。
思わぬ長期間のがん治療となったことを振り返って思うことは何ですか?
人生には考えも及ばぬ出来事が突然起きることがあるものだとつくづく思います。
自分だけはそんなことにはならないという事はないということです。
がんになって失ったもの、得たもの
【得たもの】
- 信頼できる友人
- 見た目にはわからないけれど具合の悪い人も世の中にはたくさんいる、というように、社会的弱者の存在や気持ちが、健康であった時より、理解できるようになったこと。
- 地元の人間関係や気がつかなかった良いところ
【失ったもの】
- 仕事や収入 経済的な基盤
- 40代
大切にしている言葉
人生は一度 後戻りはできない
現在治療中の方々に伝えたいこと
前向きな気持ちを維持することは本当に大変です。落ち込むこと、投げやりになることはだれでもあります。でも、だれを恨んでも、人生を恨んでも何も解決しないのです。
病気とともに生きて行く時間も大切な人生の時間。気持ちが落ち着いている時には、この先に何をしたいか、自分は何が得意か考える時間にしてみると良いと思います。
また、これまでの自分の人間関係を見つめ直す機会でもあると思います。
あまり、むやみにネット検索しないこと。
がんを宣告され、悩み、落ち込む中で「同じ病気の人はいないか」と検索したくなると思います。しかし、先に辛さや愚痴を読むと恐怖感ばかりが募り、病気から逃げたくなるのではないかと思います。また、他に治療はないのかと民間療法を探すと、高額な健康食品につなっがていたり…時間とお金の浪費にもつながります。
きちんとした情報を教えてくれる医療関係のサイトや5yearsのような意見交換のできる場を活用してほしいです。
退院後の元気な人の中で辛くなった時は、近くのガンカフェやメディカルカフェのような患者の人の情報交換の場に行ってみるのもオススメです。自分だけではないという気持ちが蘇って、もう一度前向きになれるきっかけになると思います。
家族以外に、病気の事を打ち明けられる、辛さを吐き出せる人がいると、自分も家族も少し楽になれます。
現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと
時には、気持ちが抑えきれず(患者さんから)八つ当たりをされることもあるでしょう。そんな時は、きっと意見を言って欲しいのではなく吐き出したいだけです。頷いてくれるだけで良いと思います。
しかし、いつもいつも八つ当たりされてはたまらないでしょう。時には正直に怒っていいと思います。甘やかすばかりではなく叱咤激励も必要だと思います。
家族以外に、話ができる人や場所が絶対必要だと思います。上記にあげたような場所の情報をがん患者さんに教えてあげてください。
自分で探す気力もないかもしれないので。
わたしは「大丈夫?」ときかれたり、「きっと大丈夫」と言われることがとても嫌でした。
大丈夫かどうか知りたいのは患者本人なのです。今までの体の状態、生活と変わってしまいどうしていいかわからない、本当に自分は大丈夫なんだろうかと常に考えているので何気なく聞かれる「大丈夫?」に敏感になっています。
確証のない「大丈夫!」にはいままで何度も裏切られているので(例えば、検査でがんだとわかる。転移がわかるなど)、何を持って大丈夫だというんだと少しひねくれてくることもあります。
医者などに言われる「今回の検査結果は大丈夫でしたよ」のような大丈夫は心強いのですが、「私、大丈夫かな、」と心配している時に、なんに確証もなく「きっと大丈夫よ」というのは本当に嫌でした。
元気になった今ではなんであんなことに突っかかったのかなと不思議に思いますが、「大丈夫」という言葉にはいつも嫌な気持ちになっていました。
岩井さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。
イリデセンスの仕事のところに詳しく書きましたが、
私の開いている教室は、月に1度としているものが多いのですが、それは私自身が闘病中にちょこっと出かけてみたい、自分のための楽しみの時間を持ちたいと思っていたからです。
体調を合わせて闘病中の人でも介護中の人でも月に1度ならば自分の時間を持てるのではないかと考え、大人が楽しめる、綺麗になれる、おしゃべりができるをテーマにしました。その教室を、もっとひろめ、たくさんの人に来ていただきたいと思っています。
もう一つは、病気であっても介護中でも楽しんでいいんだよ、おしゃれしていいんだよというきっかけづくりと、そのおしゃれが認知症の予防にもなるという啓蒙活動です。
講演や書くという言葉にのせて、もっともっとひろめていきたいです。
がん患者がしてはいけないこと(3つ)
- 怪しい民間療法 こんなことにお金を使うのほどろくなことはない。そのお金を自分の楽しみのため、これからの人生のために使って欲しい
- 体に良いという食べ物に執着しすぎること
- 自分なんか。。。と思うこと。
がん患者がするべきこと(3つ)
- 無理をしない程度に、できる時に体力が落ちないように体を動かすこと
- 楽しくなることをすること 本でも映画でも習い事でも!
- 明るい色を着ること
当時参考にした本
- ① ちょっと忘れたけれど、簡単に調理ができる時短の料理本はたくさん読みました。
蒸し器で一度に何品も料理ができるとか - ② がん関係の本は最初は読みましたが、途中で全部読むのをやめたので。あとは、とにかく楽しくなる小説や漫画を人生の半分くらい読み漁りました。復帰する時にダンボール5、6箱処分しましたが、今おもうと何を読んでいたのか、手当たり次第、がんに関係ない本を時間があれば読んでいました。
>>岩井ますみさんのがん闘病「ストーリー(がん闘病記)」はこちら
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
>>NPO法人5yearsの組織概要はこちら
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