進行性大腸がん(直腸がん) ステージ3 サバイバー 加藤由正さんのインタビューです。
目次
- 1 基本情報
- 2 1992年、40歳の時、健康診断の便潜血検査で陽性反応が出て驚かれます。とっさに「がんだ」と思われたと伺いましたが、当時のがんに対するイメージはどのようなものでしたか?
- 3 その後、国立西埼玉中央病院で大腸内視鏡検査を受けられますが、この検査は、ご自身も大腸のモニター画面を一緒にみながら行う検査でしたか?ご自分の大腸の中の画像を観て、どのように思われましたか?
- 4 大腸内視鏡検査の結果、問題なしと言われます。医師は便潜血検査に陽性が出たことをどのように説明しましたか?
- 5 2008年、55歳の時にも再び便潜血陽性反応が出ますが、40歳の時の経験からそのままにします。「今度こそ、がんだ」というような心配はされませんでしたか?心配されなかった理由を教えてください。
- 6 翌年56歳でも便潜血検査で陽性反応が出ます。この時の心境を教えてください。
- 7 そして、57歳の時、人間ドックでも同じ結果が出て娘さんから再検査を受けるように促されます。ご家族の方にはここ3年同じ結果だったということを明かされたのでしょうか?どの時点でそれを明かしましたか?
- 8 2011年1月に再検査のため久しぶりに大腸内視鏡検査を受けられます。若い医師が、検査中に「エッ!」と言われた時、加藤さんはどのように感じられましたか?怖くなかったですか?
- 9 その後、主治医も来て「あー、これだあ」などと言われますが、この時、或いは検査後、医師に「あー、これだ」の意味を確認はされましたか?加藤さんと医師との間で、何らかの会話はあったのでしょうか?
- 10 翌週、医師から淡々と「がんですね。直腸がん」と言われ、それが加藤さんにはよかったと伺いました。この心境を詳しく教えてください。
- 11 病院を出てから思考が追い付いてきて「俺、死ぬのかな?」と感じられます。このとき、どのようなお気持ちだったのでしょうか?
- 12 ご家族に「直腸がん」を伝えられたとき、奥さま、娘さんの反応はいかがでしたか?
- 13 所沢中央病院とがん研有明病院の医師は、肛門の温存の可能性についてはどのように説明されましたか?人工肛門は避けられないと言うことでしたか?
- 14 60歳定年を3年後に控えていたときにがんの診断がおります。仕事への復帰に対する思いは、いかがでしたか?
- 15 医師に勧められるまで、病院には家族の付き添いがなくお一人で行かれていました。心配ではなかったですか?
- 16 手術後、意外と身体への負担も少なく歩けたと伺いました。体調的にはいかがでしたか?
- 17 直腸を切除したため、便意を催さなくなったと伺いましたが、それは時間の経過とともに変わっていきましたか?
- 18 人工肛門ではなく自然肛門として温存出来ました。これは、加藤さんいとってどのような違いがありますか?
- 19 大腸がん患者向けのレシピ本を参考に食事を管理されます。どのようなことに注意されましたか?
- 20 体重が減っていくことに不安はありましたか?
- 21 トイレのコントロールが出来ないため通勤電車が苦労されたと伺いました。よろしければ、どのような状況だったのか教えて頂けますか。
- 22 抗がん剤(ゼローダ)を服用され体調的はどのように変わりましたか?
- 23 加藤さんの場合、大腸がん(直腸がん)を淡々と乗り越えられていった印象があります。多くの人が心の浮き沈みを経験するかと思いますが、加藤さんの場合は、いかがでしたか?
- 24 がん治療中にご家族がしてくれたことで感謝していることは何でしょうか?
- 25 加藤さんの場合、40歳の時と57歳の時の「がんの疑い」は、どのような違いがありましたか?
- 26 大腸がん(直腸がん)を経験して感じたことを教えてください。
- 27 がんになって失ったもの、得たものは何ですか?
- 28 大切にしている言葉は何ですか?
- 29 現在治療中の方々に伝えたいことを教えてください。
- 30 現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいことを教えてください。
- 31 加藤さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいことは何ですか?
- 32 がん患者がしてはいけないこと(3つ)
- 33 がん患者がするべきこと(3つ)
- 34 周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉
- 35 周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉
- 36 復職する際に大切なこと
基本情報
名前: 加藤由正さん >>5yearsプロフィール
年代: 60代、男性
病名: 進行性大腸がん(直腸がん)
病理:
進行: ステージ3A
発症年月: 2011年1月
発生時年齢:57歳
受けた治療: 超低位前方切除術、抗がん剤治療(ゼローダ)
治療期間: 2011年5月~11月
後遺症:排便障害
職業: 年金受給者
生命保険会社: アメリカンファミリー生命保険(アフラック)、埼玉県民共済、
日本生命保険
1992年、40歳の時、健康診断の便潜血検査で陽性反応が出て驚かれます。とっさに「がんだ」と思われたと伺いましたが、当時のがんに対するイメージはどのようなものでしたか?
「早く治療しないと死んでしまう」そんなイメージを持っていました。
その後、国立西埼玉中央病院で大腸内視鏡検査を受けられますが、この検査は、ご自身も大腸のモニター画面を一緒にみながら行う検査でしたか?ご自分の大腸の中の画像を観て、どのように思われましたか?
検査と同時にモニター画面を見ることは出来ず、終了後にモニター画面を見せてもらうかたちでした。
大腸内視鏡検査の結果、問題なしと言われます。医師は便潜血検査に陽性が出たことをどのように説明しましたか?
特に説明は無かったですし、私も聞きもしなかったです。
2008年、55歳の時にも再び便潜血陽性反応が出ますが、40歳の時の経験からそのままにします。「今度こそ、がんだ」というような心配はされませんでしたか?心配されなかった理由を教えてください。
根拠のない無関心でした。恐らく、40歳の時に再検査したが問題なかったことが理由です。
翌年56歳でも便潜血検査で陽性反応が出ます。この時の心境を教えてください。
この時の気持ちを表現すると「またか、でも自覚症状もないし大丈夫だろう・・・ 大丈夫だ」そんな感じでした。
そして、57歳の時、人間ドックでも同じ結果が出て娘さんから再検査を受けるように促されます。ご家族の方にはここ3年同じ結果だったということを明かされたのでしょうか?どの時点でそれを明かしましたか?
正直、はっきり覚えていないのですが、その時「今まで、陽性なっていないの?」という質問を娘から受け、正直に答えたかと思いますが、不確かです。
2011年1月に再検査のため久しぶりに大腸内視鏡検査を受けられます。若い医師が、検査中に「エッ!」と言われた時、加藤さんはどのように感じられましたか?怖くなかったですか?
特に気にはならなかったです。私は、病に対し不感症かもしれません。
その後、主治医も来て「あー、これだあ」などと言われますが、この時、或いは検査後、医師に「あー、これだ」の意味を確認はされましたか?加藤さんと医師との間で、何らかの会話はあったのでしょうか?
その頃は、一週間後の主治医診察まで、一切医師との会話は無かったです。
内視鏡検査当日も、主治医は担当の若い医師と確認をした後、直ぐに内視鏡検査室を退出しました。
翌週、医師から淡々と「がんですね。直腸がん」と言われ、それが加藤さんにはよかったと伺いました。この心境を詳しく教えてください。
私の想像ですが、医師からがんについて暗く、深刻に通告されると受け手は、その気持ちを受けとってしまい、自己の心中も暗く深刻になる可能性があるのかもしれませんが、私の場合のように、普通の音程・スピードで告げられると意外と深刻にならずに済む感じがします。それがありがたかったです。
病院を出てから思考が追い付いてきて「俺、死ぬのかな?」と感じられます。このとき、どのようなお気持ちだったのでしょうか?
正直申しまして、淡々とした、「俺、死ぬのかな」でした。 ?マークではなかったと思います。
ご家族に「直腸がん」を伝えられたとき、奥さま、娘さんの反応はいかがでしたか?
私同様、内心はともかく、外見は 淡々としていました。
所沢中央病院とがん研有明病院の医師は、肛門の温存の可能性についてはどのように説明されましたか?人工肛門は避けられないと言うことでしたか?
両院とも、自然肛門の残存には触れませんでした。
60歳定年を3年後に控えていたときにがんの診断がおります。仕事への復帰に対する思いは、いかがでしたか?
この時は、そのまま人間の終了となるのなら仕方がない、という気持ちで、復帰に向け頑張るぞ、などの気持ちは有りませんでした。
医師に勧められるまで、病院には家族の付き添いがなくお一人で行かれていました。心配ではなかったですか?
私の場合、病院に一人で行く事になんら不自然さがないのでなんともありませんでした。
手術後、意外と身体への負担も少なく歩けたと伺いました。体調的にはいかがでしたか?
体調良好でした。
直腸を切除したため、便意を催さなくなったと伺いましたが、それは時間の経過とともに変わっていきましたか?
便意を催す時も出現しましたが、現在も催さず便が出ることがあります。ただ、催さずに便が出る回数は減りました。
人工肛門ではなく自然肛門として温存出来ました。これは、加藤さんいとってどのような違いがありますか?
自然肛門から便が出るのは、出生後の“自然”です。人工肛門は、意識する必要のある“人為的・意識的行為”と理解しています。
大腸がん患者向けのレシピ本を参考に食事を管理されます。どのようなことに注意されましたか?
調理は、家内にまかせました。私自身としては、食べ過ぎに注意でした。
体重が減っていくことに不安はありましたか?
特にありませんでした。
トイレのコントロールが出来ないため通勤電車が苦労されたと伺いました。よろしければ、どのような状況だったのか教えて頂けますか。
便が流れ出て、それも量が多く 難儀することが一度や二度では有りませんでした。
抗がん剤(ゼローダ)を服用され体調的はどのように変わりましたか?
体調は変わりませんが、足裏に出来た水疱のため、歩行困難な状況が発生しました。
加藤さんの場合、大腸がん(直腸がん)を淡々と乗り越えられていった印象があります。多くの人が心の浮き沈みを経験するかと思いますが、加藤さんの場合は、いかがでしたか?
私の場合、何も考えないので、浮き沈みの感情はありません。目の前に発生する状況に対処する・耐える だけでした。
がん治療中にご家族がしてくれたことで感謝していることは何でしょうか?
大きな意味で見守ってくれた。これは感謝、感謝です。
加藤さんの場合、40歳の時と57歳の時の「がんの疑い」は、どのような違いがありましたか?
家族に対する責任の大きさが違っていました。
大腸がん(直腸がん)を経験して感じたことを教えてください。
人間いつかは死にますが、“がん”は、余命一週間ということは、極まれです。
がんになって失ったもの、得たものは何ですか?
【得たもの】
- 生きていることの素晴らしさ、大事さ
- 周りの人々のあたたかさ、やさしさ
- 死ぬことを認識し、その時が来るまで準備の時間を持てる
【失ったもの】
- 爽快な排便感
- パンツ (PADを常時装着しているため、パンツは廃棄)
- 飲酒
大切にしている言葉は何ですか?
頼まれれば、自分の経験をいつでも、どこでも人々にお話しします。
現在治療中の方々に伝えたいことを教えてください。
気にしないこと。(死ぬときは死にます) 笑うこと。(笑いは免疫力を高めます)
現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいことを教えてください。
食べるものの質には気にしてあげてください。 食べ物の量には気を付けて、また、便秘には注意してください。
加藤さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいことは何ですか?
- 上記にも書きましたが、サバイバーとしての自分の経験をもっと話したいです。(これは生きている間しか出来ません)
- 美味しいもの(決して高級品ではありません)を食べ、素敵な美術を眺め、好きな音楽を聞き、生きていて良かったと思える日々をおくりたいです。
がん患者がしてはいけないこと(3つ)
- 自己診断(判断)
- 迷信の食物摂取 (大腸がんには牛肉がいけない の迷信もあるようです)
- 先生(医師)を疑う (先生方は、必死に我々の治療にあたっています)
がん患者がするべきこと(3つ)
- 自分の身体と常に対話する。
(自分の状態を知る。 自分の病状を知る ではありません) - 周りを笑わせる
- 治療中は“がん”の勉強をしない
周囲から掛けられた言葉で、嬉しかった言葉
- 仕事の事は忘れて治療してください(後輩各位からのことば)
- (僕が)笑っているので大丈夫だね (手術室に行く前の家族のことば)
- 回復力すごいですよ (術後医療スタッフのことば)
周囲から掛けられた言葉で、不愉快に感じた言葉
特にありませんでした。
復職する際に大切なこと
- 万事塞翁が馬 (復職時の業務状況を受け入れる)
- 病状などを隠さず、つらかったことも話す
- 無理をしない。 効率は考える。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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