前立腺がん 大腸がん(直腸がん) ステージ3a サバイバー吉田さんのインタビューです。
目次
- 1 基本情報
- 2 夜中にオシッコがでなかったことは、前立腺がんと関係があると思いますか?
- 3 小林外科胃腸科からPSA値が高い言われた時どんなお気持ちでしたか?
- 4 東京医療センターの女医先生に前立腺がんの疑いがあると言われた時のお気持ち
- 5 前立腺を生検する検査はつらかったですか?そのときの状況
- 6 生検のあと9ヵ所からがん細胞が見つかったと知らされた時のお気持ち
- 7 さらに詳しい検査のあと前立腺がんの転移を伝えられました。その時のお気持ちは
- 8 リユープリン注射によりPSA値が下がっていきました。どのように感じましたか
- 9 リュープリンによる副作用を教えてください。
- 10 吉田さんの場合、前立腺がんの治療に手術や抗がん剤治療がありませんが、どのように感じられていますか?
- 11 2014年秋から下痢・便秘・血便といった症状が出ているのに、なぜ、病院に行かなかったのですか?
- 12 なぜ、7年間、大腸内視鏡検査を受けなくなっていたのですか?
- 13 ちえ内科クリニックで「やばいよ」と言われた時のお気持ち、考えたこと
- 14 東京医療センターのMRIの結果、「直腸が腫れている」と伝えられた時のお気持ち
- 15 大腸がん(直腸がん)の宣告を受けた時、ご家族はどんな感じでしたか?
- 16 大腸がん(直腸がん)手術のとき不思議な夢をみました。どんなお気持ちでしたか?なぜ、小林君と田中君が出てきたと思いますか?
- 17 11時間の手術、ご家族はどのようなお気持ちだったとお察ししますか?
- 18 手術のあと、間もなくして仕事に復帰します。なぜ、そんなに早く復帰されたのですか?
- 19 吉田さんにとって仕事とは何ですか?
- 20 抗がん剤治療中にアバスチンの合併症で血栓症になります。その時の状況を教えてください。
- 21 次に、ベクティビックスの合併症で間質性肺炎を発症します。続けて合併症になりどんなお気持ちでしたか?
- 22 気合いと根性で気道確保にならないようにしていたようにお見受けします。その時の状況はいかがでしたか?
- 23 現在、受けられている治療と服用されているお薬を教えてください。
- 24 がん治療中に会社がしてくれたことで有り難かったことは?
- 25 がん治療後の会社の対応で感謝していることは?
- 26 振り返って、もっと早く診察や検査をしていたら防げた病気はあると思いますか?
- 27 治療中、リハビリ中、心の浮き沈みに、どのように向き合いましたか?
- 28 男性のがんである前立腺がんの治療と性的な尊厳について
- 29 吉田さんのお仕事に向き合う姿勢に勇気づけられる人たちがたくさんいらっしゃいます。これまでの仕事・会社を振り返って、いまどのように感じられていますか?
- 30 がんになって失ったもの、得たもの
- 31 大切にしている言葉
- 32 現在治療中の方々に伝えたいこと
- 33 現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと
- 34 吉田さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。
- 35 がん患者がしてはいけないこと(3つ)
- 36 がん患者がするべきこと(3つ)
- 37 当時参考にした本
- 38 コメント
基本情報
名前: 吉田博行さん >>5yearsプロフィール
年代: 60代、男性
病名: ①前立腺がん ②大腸がん(直腸がん)
進行: ①グリソンスコア(4+3)②ステージⅢa
発症: ①2011年11月(60歳)②2015年3月(63歳)
治療: ①前立腺がん(リュープリン注射液)(カソデックス;中止中)
②大腸がん(抗がん剤治療:「ロンサーフ錠」)
期間: 2011年11月~現在に至る
合併症:大腸がんによる転移=腹膜播種(肝臓及び直腸縫合部)
職業: 現在無職(求職中)
生命保険:東京都民共済
夜中にオシッコがでなかったことは、前立腺がんと関係があると思いますか?
当時のことですが、その時点では思いませんでした。どちらかと言うと日常の生活に於いても排尿回数がそれ程多くなく、前立腺肥大症との診断は健康診断時にも受けた事がなかった為に直接に「前立腺がん」には結び付きませんでした。
小林外科胃腸科からPSA値が高い言われた時どんなお気持ちでしたか?
PSA数値が高い事=「がん」と言う発想はありませんでした。しかしサイトで検索をした結果、PSA数値;高い(標準4ng/ml以下)=「がんの疑いが高い」との説明があり、少々ショックを受けました。しかし、「何かの間違いではないか。自分は違う(がんではない)」と勝手に考えてしまいました。
東京医療センターの女医先生に前立腺がんの疑いがあると言われた時のお気持ち
PSA数値の検査確定数値を知らされて、事前にインターネット上のウェブサイト等で病気の詳細を自分なりに調べていたので、「自分は前立腺がんになってしまったのだ」と言う、何とも言えない“挫折感”を感じたことを覚えております。
前立腺を生検する検査はつらかったですか?そのときの状況
それまでは手術や検査等の経験は他の人よりも数多く体験をしていましたが、「生検検査」の説明を受けた時から不安感いっぱいになりました。実際の生検検査は、医師達の声が聴こえるのでドキドキ感がいっぱいで正直辛い検査でした。余談ですが、私の生検検査は、当日、急に担当医師が決定したようでした。私の前の患者さんの生検検査でその日の予定が最後だったらしく、(私という患者が)未だもう一人いることが判明したことで、医師たちが「え~!まだ検査する人がいたの?」と大きな声が私のところまで聞こえた為、「スミマセン、スミマセン!」と連呼した自分を覚えております(笑)
生検のあと9ヵ所からがん細胞が見つかったと知らされた時のお気持ち
PSA数値検査は100%病気を確定させるものではないとの説明を担当医師から説明もあったので、心のどこかで「自分は大丈夫!(がんではない)」と思っていたものが、この生検検査の結果を教えられ『自分はがん患者なんだ』と認めた瞬間でありました。気持ちがブルーになったことを覚えております。
さらに詳しい検査のあと前立腺がんの転移を伝えられました。その時のお気持ちは
治療方法としては、主に「手術療法」「放射線療法」「ホルモン療法」の3つの治療方法があると説明を受けていました。私の場合は、既に「リンパ節転移」が認められる為に、「手術療法」は不可で、「放射線療法」「ホルモン療法」の何れか選択して治療したいとの担当医師から説明があり、最終的に「ホルモン療法」に決定させて頂いたとのことで、自分の治療法があったことにホッとした瞬間でした。
リユープリン注射によりPSA値が下がっていきました。どのように感じましたか
がんの進行度合いは、PSA数値の推移により判断されるとの担当医師からの説明があり、通院検査の度に数値が下がって行き、正常値範囲になるのを確認する度に、「自分の治療方法があり、またその治療方法が自分に合っていることが分かり、担当医師の指示に従って治療をして良かった」と安心感を感じました。
リュープリンによる副作用を教えてください。
人により感じ方が違うらしいですが、私の場合は、「のぼせ」「全身のだるさ」「発汗」「ホットフラッシュ」「めまい」「吐き気」等を感じました。特に注射を打った後の1~2週間ほどはその反応が酷く、辛い日が続きました。
吉田さんの場合、前立腺がんの治療に手術や抗がん剤治療がありませんが、どのように感じられていますか?
当初より治療を受けている「東京医療センター」には、手術ロボット(ダヴィンチ)の設備がある事を事前に知っておりました。しかし、私の場合は、がん細胞の転移が認められることの診断から「手術は出来ません」と説明を受けている為、自分の治療には必要のないものと思っておりました。なるべく切らずに体力を温存するという、担当医師からの治療方針も説明を受けておりましたので、その方針通りに従って治療をお願いしようと決めました。
2014年秋から下痢・便秘・血便といった症状が出ているのに、なぜ、病院に行かなかったのですか?
今思えば「後悔の念」になりますが、当時は自分の体調の異変について余り重篤と考えておりませんでした。また、仕事が多忙な時期と重なり、「後日、病院に行こう」と先延ばしにしてしまったと言うことです。食欲が落ちて満足な食事が出来ない等の症状が出た時点でもっと早くに病院に行っていたらよかったのにと後悔をしました。
なぜ、7年間、大腸内視鏡検査を受けなくなっていたのですか?
銀行員時代は、定期的な健康診断が義務づけられ、強制的に受診をしていましたが、退職後の健康管理が自身で十分に出来ていなかったと言うことです。一つには、「快食・快眠・快便」の状態であった為にやや過信していた向きもありました。
ちえ内科クリニックで「やばいよ」と言われた時のお気持ち、考えたこと
この時点で、心の中では「もしかしたら・・・がん?」と感じました。
ちえ内科クリニックを訪ねた時点で、先生には「そう言って欲しい」と言う覚悟で病院の門を叩いたと思います。
東京医療センターのMRIの結果、「直腸が腫れている」と伝えられた時のお気持ち
既に、「排便時に出難いこと」や「逆に下痢を繰り返すこと」等の症状を繰り返していたので「やっぱり、がんか~!!」と落胆したことを覚えております。
大腸がん(直腸がん)の宣告を受けた時、ご家族はどんな感じでしたか?
一応、主(あるじ)が大病と言うことで家族全員が落胆しました。私と同じで、もう少し前に「大腸検査」を受けていたら・・・・と言う意見もありました。ただ、「手術」が可能と言うことがこの時点で分かっていたので、そこに一縷の望みを託すことにしようと意見は纏まりました。しかし、「父親の死」も覚悟した瞬間でした。
大腸がん(直腸がん)手術のとき不思議な夢をみました。どんなお気持ちでしたか?なぜ、小林君と田中君が出てきたと思いますか?
11時間余りに及ぶ手術の終盤かと思われます、麻酔が未だかかっている状態で朦朧とする中、身体がフワリと空を飛んでいる状態で、一面が「黄色一面の菜の花畑」。その上の方に高校時代に親友であった、「小林君」と「田中君」の二人の顔が現れました。二人共に私の方を見てニコニコした笑顔で微笑み、特に話をして来るのでもなく手招きをするでもない状態でした。二人は高校時代の同級生で、当時はバイクが趣味の三人は顔を合わせば「バイクの話し」で盛り上がっておりました。
ある休日に、「ツーリングで群馬」に行きたいとなり、計画をしました。しかし、私は家族のことでそのツーリングに参加が出来ずに二人だけで出かけた訳です。そして休日明けに学校で知らされたことは「事故で二人が死亡した」とのショッキングな事実でした。
手術の最後に現れたのは、「何であの時に来なかったんだよ~」とでも言いたかったのか?・・・・でも私はそうは取りませんでした。「俺たち二人の分まで生きてくれよ~!」と言われた気がします。
手術最後に出現した二人の笑顔を忘れずに、二人の分まで生き抜こうと思った瞬間でもありました。『「小林」「田中」もう少しこの世で頑張るから、未だ行かないぜ!』と心の中で呟きました。
11時間の手術、ご家族はどのようなお気持ちだったとお察ししますか?
妻が、患者の家族が待つ「手術中待合室」で手術が終了するのをひたすら待ってくれました。当日は数多くの手術を受ける患者の家族がおり、その家族で相当数の方々が待っていたとのことです。朝一番の手術であった為、私の妻はその待合室に一番に入室したとのことですが、後から来た患者の家族が早々に手術が終了して病室に帰って行くのに、妻は「まだか、まだか」の気持ちで待っていたとのことです。早くに終わる場合は、既に義理の兄(肺がんで既に死亡)の時に「手術が出来ない程にがん細胞が広がっていたので直ぐに手術が終了」を経験していた為に、長い時間を要するのは早いよりは良いと思いつつも不安感いっぱいだったと当時の気持ちを打ち明けてくれました。
手術が終了した旨を担当の医師から報告を受けた時の安堵感は何とも言えないとのことでした。
手術のあと、間もなくして仕事に復帰します。なぜ、そんなに早く復帰されたのですか?
国と東京都が実施する、若者と女性の就労支援の事業に就かせて頂いていました関係から、その人材を求めている企業各社さんや正社員就業を希望している若者や、再度社会進出を考えている女性の方々の再就職を支援しなければと言う使命感からです。
更には、「がん」を経験していても仕事が出来る・・・と言う姿を回りの同僚や担当企業先の社長さん方に示したかったからだと思います。
いろいろな方々と仕事を通じて会話をすることで「抗がん剤」以上の効能を得ることが出来ました。
吉田さんにとって仕事とは何ですか?
簡単には「生計を立てる為の手段」ではありますが、「仕事を通じて社会の中に、自分の存在価値を示したいから」。言い換えれば「如何に仕事を通じて社会に貢献が出来ているか」を示す手段だと考えます。
抗がん剤治療中にアバスチンの合併症で血栓症になります。その時の状況を教えてください。
朝の出勤時にスーツに着替え靴下を履いた時に、左脚がやや重く太くなっていると感じましたが、当日は会社に於いて用事があったことから通常通りに出勤をしました。しかし、通勤途上では、10m程歩行すると痛くて歩行困難になるなど異常を感じながらの出勤状況でした。その後会社に到着の後に左脚が痛み続いた為病院の方に連絡をしたところ至急に来院せよとの指示により病院に駆け込みました。
検査を受けた結果、「血栓症」との診断で緊急入院。
血栓は、一つは「左脚の付け根部分」にもう一つが、「肺」に飛んでいて、万が一に「心臓」や「脳の部分」に飛んでいたら現状よりも更に重篤になっていたとの説明を受けました。
不幸中の幸いではあるが「血栓症」は一度発症すると再度発症し易くなるとのことで今後のケアを大切にして下さいとの医師の指示がありました。
次に、ベクティビックスの合併症で間質性肺炎を発症します。続けて合併症になりどんなお気持ちでしたか?
発症時は、月初から体調の不調を訴えていましたが、仕事が多忙で「あとで病院へ行こう」と勝手に決めておりました。中旬には「泌尿器科」と「循環器科」の診察・治療があった為に病院にいったところ、発熱があった為に「泌尿器科」の医師より「呼吸器科」の診察を受ける様にとのことで受診をしたところ、「呼吸器科」の医師より至急に検査を受ける様に指示があり、その後に緊急入院をすることに。診断の結果は「薬剤性間質性肺炎」との診断で、かなり重篤だと説明がありました。
当初は、「とうとうがんが肺に転移したな」と思っていましたが、診断の結果が上記の様な病名を伝えられ、治療中の「ベクティビックス抗がん剤」の副作用による発病とのことでした。この時には、「がんの転移ではなくて良かった」と素直に思いました。
気合いと根性で気道確保にならないようにしていたようにお見受けします。その時の状況はいかがでしたか?
最悪の場合は、気道確保の為にノドに穴を開ける手術を行いますと医師から説明を受けました。
更に、ICU処置室に移送をされた為に、その時点で病気が重篤だと感じました。ICU室に移送後、隣接で治療を受けている患者さんが多分上記の様な処置を受けて治療中かと思われ、その時に思ったのは、(その患者さんには失礼なことですが・・・)自分は穴を開ける手術は避けるんだと言う強い思いでした。
NPPV(人工呼吸器)を装着され、一晩中病魔と闘いました。まさしく「気合い」と「根性」で手術を回避した瞬間でした。
現在、受けられている治療と服用されているお薬を教えてください。
- 「前立腺がん」⇒ホルモン療法(リュープリン注射、カソデックス錠(現在休止中))
- 「大腸がん」⇒抗がん剤治療(ロンサーフ錠)
- 「血栓症」⇒リクシアナ錠
がん治療中に会社がしてくれたことで有り難かったことは?
とにかく体調第一に考えてくれました。治療や検査がある時には病院を最優先に考えて下さり、また朝一番で体調不良の時には、電話かメールで一報頂ければ通院やお休みを優先して頂いてOKとの配慮をして下さりました。
がん治療後の会社の対応で感謝していることは?
抗がん剤治療等の治療や検査がある場合は、出勤予定日の変更を承諾して下さりました。
また、夏の暑い季節や炎天下などでは決して無理をすることなく、体調の具合に応じて仕事をさせて下さった。その配慮に感謝しております。
振り返って、もっと早く診察や検査をしていたら防げた病気はあると思いますか?
- 「前立腺がん」は<PSA>の知識を得て定期的に検査を受けていれば防げたと思います。
- 「大腸がん」は、やはり空白の検査期間があったことが一番の原因で、検査を受けていればこの様な状況にはならなかったと思います。
治療中、リハビリ中、心の浮き沈みに、どのように向き合いましたか?
入院中は、入院部屋の患者さんと出来るだけコミュニケーションを取る様に心掛けました。そうすることにより、自分の病状よりも重い患者さんもいらしたり、ご家族と言うか身内の方がいらっしゃらなかったりすることを知り、自分はその患者さんに比べたら未だ「幸せ者」と位置づけ、時には同室の患者さんを励ましたりすることで逆に自身を叱咤激励することにより沈みがちな心を奮い立たせておりました。
更には、担当の医師、看護師の方々、薬剤師の方々との意思疎通を図りながら、「入院=辛い日々」を乗り切ったと思います。その先には「退院」と言う一つの目標があることでいろいろなことを乗り切れたと思います。
男性のがんである前立腺がんの治療と性的な尊厳について
手術では「性機能障害」を起こす副作用が発症すると言うことを聞いておりましたが、私の「ホルモン療法」ではその様な障害は起きないと思っていましたが、同様な性機能障害が発症してしまいました。
性機能障害の発症で、「自分は男として性的な魅力を失い、男としてはもうダメなんだ」と言う感じを当初は持ちましたが、それよりも「<前立腺がん>=<死亡>」の構図が目に浮かび、性的な尊厳以上に病気(がん)を治しこれからの人生を生き抜きたいと強く思いました。
吉田さんのお仕事に向き合う姿勢に勇気づけられる人たちがたくさんいらっしゃいます。これまでの仕事・会社を振り返って、いまどのように感じられていますか?
小さい頃からとにかく引っ込み思案な子供で近所でも学校でも有名だった自分。銀行に入行して、内部の事務を少し覚えた後に係替えとなり、「営業マン」の一歩を踏み出す訳ですが、幼い頃のことしか知らない私の父親は、「黒カバンを持って朝から夕方までお客様周りをしている」と言うことを帰省した時にお話しをすると、「お前みたいな引っ込み思案なヤツがそんな仕事は無理だろう」と言われるのが口癖でした。結局「大東京のビル街」を<営業マン吉田>が走り周っている姿を信じずに父親はあの世に旅立ちました。
引っ込み思案の私を変えてさせてくれた出来事は「2つ」。1つは、中学時代の生徒会長を決める時期に、我がクラスから「小池君」と言う学業・スポーツ優秀な彼が立候補することになり、その応援弁士を決めるクラス会が開かれました。その席上で応援弁士は立候補するようにとのことで、ほぼクラスの3分の2程度の生徒が挙手しました。当然に私は只下を向きながら「早く終わらないかなぁ~」と!
そして驚いたのが次の瞬間でした。沢山挙手をしたクラスの仲間ではなく、「小池君からの逆指名」があったのです。小池君が、『僕としては、是非‘吉田君’にお願いしたいのですが?』と!その途端にクラス中の生徒から拍手が巻き起こり、必然的に私に決まってしまいました。その1週間後に全校生徒の前で「小池君」を生徒会長にと言う応援メッセージを述べた訳ですが、その終わった時のホッとした感と大勢の前でお話しをする「快感」を覚えてしまいました。私の引っ込み思案から一皮剥けた瞬間でした。
そして2つ目。銀行で「営業職」と言う、自身には気が重い重職を担うことになる訳ですが職場の上司や同僚、そしてお客様に恵まれて重職を熟すことが出来ました。
ある先輩から言われました。銀行員の仕事、特に「営業職」は恋愛と一緒なんだと。好きな女性が出来た時、自分の好意だけでは一方通行になり相手に気持ちは伝わらない。如何に自分の方に向いてくれるか、好意を寄せてくれるかと自分をアピールする為に一生懸命に努力をする。営業マンの仕事も一緒なんだとその先輩から教わりました。
営業の第一歩は如何に「お客様」から好かれるか、その延長線上に「信頼・信用」が生まれて来るものだと。名刺にスーツに黒カバンを持った人間に命の次に大事な「お金」を渡すと言う行為は、<信頼・信用>無くしては許容してくれないはずだからと。
私がお客様訪問で常に心掛けていることは「元気な挨拶と笑顔」を届けること。そして銀行でしか捉えられない「情報」を一つ提供すること。「吉田さんが来てくれると明るくなるなぁ~」と言われた時、この仕事を選んで本当に良かったと思う瞬間でした。そして何よりも大事にしていたこと、それは「約束を守る」こと。それは日にちであったり時間であったりご依頼事項の履行等、仕事をする上で一番大事なことだと思っていつも心掛けて業務に励んでおりました。
がんになって失ったもの、得たもの
【得たもの】
- 改めて感じた家族の愛と絆
- 遠方でなかなか会う機会もなく、連絡も久しくなかった兄弟(5人兄弟の内1名死去)が揃って私のお見舞いに来てくれたこと。連絡が途絶えていた兄弟と連絡を取り合うことやたまに会う機会をつくることが出来た。
- 人工肛門(永久)になったことで、この病気になる以前は、人工肛門の名前程度は知っていたが、「俳優の渡哲也」がこの装具を使っていたな程度の知識しかなかった。しかし、自身がこのがんと言う病気になり、「人工肛門」の装具を付けることによりこの現代の生きていて良かったと感じた瞬間であった。現代の医療技術や医療器具の進歩に改めて感謝しています。
【失ったもの】
- 就労支援の仕事の不継続~失業
- 「忍耐力」「活力」減退
- 「自由な時間」~入院や通院による時間の消費
大切にしている言葉
- 「一期一会」~茶会の心得と言われているが、一生に一度の出会いの機会を大切に。
- 「いつも明るく前向きな心」~病は気からと言われる様に気持ち一つで乗り越える。
- 「今を生きる」~与えられた人生を精一杯生き抜く。
現在治療中の方々に伝えたいこと
病気(がん)を告知された時、ひどく動揺したり、落ち込んだり、イライラしたりするのは自然の心の状態だと思います。孤独感と言うか疎外感を感じるものですが、絶対に独りぼっちではないことに気づいて下さい。現在の医療技術は過去に比べ数段に進歩して自分の病状に合った治療法や薬があること、また担当医師を信頼して「絶対に治る」のではなく、上手く「がんと共存していく」と思い、治療に専念して下さい。
現在治療中の患者さんのご家族に伝えたいこと
<がん=死>と言うシュチエーションを描きがちですが、現在の医療技術と薬剤の開発に於ける進歩は各段のものがあります。良く「ガンバレ」とか「大丈夫」と言う言葉を掛けがちですが、逆に患者本人のストレスに繋がるかも知れませんので、特別扱いをしないで「普段通りに接する」ことが一番本人にとって良いことだと思います。
吉田さんが、いま、やられていること、今後、やろうとされていること、やりたいこと。
昨年に併発した「薬剤性間質性肺炎」の治療が未だ治療途中の段階ですので当面はこの体調と体力の回復に全てをかけております。
私は「がんの経験者」として、現在治療中の身ではありますが、「ガンサバイバー」として、自身と深耕のある人や、自身を取り巻く人たちに対して「がん予防の為の定期健診」を勧めるほか、家族で体調の異変を感じたら即時病院に罹るなど、自分が予防として出来なかったことをがん経験者の一人として広く伝えて行きたいと思っております。
がん患者がしてはいけないこと(3つ)
- 精神的なイライラ感を持つ。
- 偏食はしない。
- 夜更かし。
がん患者がするべきこと(3つ)
- 十分な睡眠と軽度なスポーツ
- 規則正しい食事
- 健常者との交流
当時参考にした本
- 「ガンを告知されたら読む本」(谷川啓司著)
- 「免疫力の高め方」(小田治範著)
- 「ガンに負けない体のつくり方」(鈴木大次郎著)
コメント
私の場合は、銀行を退職した時期に在職中に複数の契約をした「保険契約」について、見直しをしようとすることとなり、業務上のお付き合い等で契約した複数の「保険契約」を整理させて頂きました。その時にうっかり30数年も掛けていた「がん保険」を解約してしまいました。それが後日に判明しましたが、ついつい再度加入する手続きを後回しにしてしまい、この様な結果になってしまいました。
保険の再加入についても、自身が30歳頃から「アトピー性皮膚炎」を患い、長期に亘り「ステロイド」を始めとして幾種もの薬剤を服用していた為に、「保険加入の許可」が得られずに加入を断られることも一つの要因でした。
もしかすると、人生に於ける「大失敗」と言っても過言ではないと思います。
しかし、「お金」に替わる「命」を得られていること「生きていることの実感を体験出来ている」ことが最高の幸せと感じております。
この記事の著者
大久保 淳一(5yearsプロフィール)
日本最大級のがん患者支援団体 NPO法人5years理事長、本サイト(ミリオンズライフ)の編集人。
2007年、最終ステージの精巣がんを発病。生存率20%といわれる中、奇跡的に一命をとりとめ社会に復帰。自身の経験から当時欲しかった仕組みをつくりたいとして、2014年に退職し、2015年よりがん経験者・家族のためのコミュニティサイト5years.orgを運営。2016年より本サイトを運営。
現在はNPO法人5years理事長としてがん患者、がん患者家族支援の活動の他、執筆、講演業、複数企業での非常勤顧問・監査役、出身である長野県茅野市の「縄文ふるさと大使」として活動中。
>>新聞、雑誌、TV等での掲載についてはパブリシティを参照ください。
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